Doll Maniacs

お人形趣味について

06/8, 09/2 随時更新

 

現在300体くらいの人形を持っていると思う。

(何体あるかは正確に数えたことがなく、売ったり買ったりを繰り返しているので、およそそのくらいではないかという、大体の数字)

コレクションは、91年頃から始めたので、持っている人形は、バービーのモッズ期を除いてはそれ以降のものがほとんどです。

内訳はバービー、ジェニーをはじめ、リカちゃん、FR、 Misaki、プーリップ、ドラゴン、桃子、タイラー、DOD、ユノア、そして自分のカスタムなど。

以前書いたように、もともとコレクターになりたいと思って人形を集め始めたわけではなく、好きで買っているうちに増えてしまったので、自分ではコレクターではないと思っているけれど、他人から見ればコレクターと見えても不思議ではない。だからコレクターだと見なされるであろう。

そんなわけで私は人形コレクターであり、人形をコレクションして楽しんでいる好事家であります。

このサイトは、人形コレクションを展示すると同時に、沢山ある人形の覚え書きのつもりで始めたものです。資料として残しておきたい、という気持から始めた。

 

 

お人形に関しては、どんなものにも一応興味がある。

日本人形の御所人形とか、市松人形などにはあまり知識がなく、興味を持っているとは言えないと思うが(どことなく気持が悪いと思っていることから)、それでも、展覧会で見るチャンスがあれば見に行く。

雛人形、四谷シモンや辻村ジュサブローの創作人形、川本喜八郎の人形、ぬいぐるみの人形(動物のではなく、人のかたちをしたもの)、クレイドール、和紙人形、フィギュア、ドールハウス、…一応、そのあたりまではセンサーが動く。

今後この種類も増えるかもしれない。

仏像が好きなのは、人形好きの延長なのかどうなのか、それが分からなくて今悩んでいるところ。

 

このサイトのどこかにも以前に書いたけれど、こうした人形に対して、私は美術や本と同じ感覚で接している。

美術や本が好きで、絵を見に行ったり、本を読んだりするのと、人形を集めることはまったく同じ感覚であり、そのどれもが同じくらい好きで、同じくらい私にとって重要である。
そして、それらの間に、区別がとくにない。

興味を惹かれる対象として、それらはまったく等価だ。

 

人形への接し方はひとそれぞれで、まるで自分の子供か、ペット動物のように、名前をつけて可愛がることが目的の人も、投資の対象だという人も、自己表現の手段だったり、作品として値段をつける人もいるだろう。

さまざまな人形への接し方があり、人形に接する人それぞれの世界がある。

私自身は、人形は、自分の好きな世界を構築するアイテムのひとつとして重要な役割を持つもので、人形だけ、ではなく人形を含めた全体が重要なので、人形だけが大事、という考えは持っていないと言える。

 

 

アメリカでは、人形のコレクションという趣味は、大人の楽しみとして確立されているらしいが、それはアメリカ人の頭が薄いからだ。

日本のように文化が極限まで発達し、高度な知性を持つ、恥の文化の国では、大の大人が人形をいじることは依然として恥ずかしいことだ。

恥を知るということは、自己を客観的に見ることが出来るという証しである。

人が様々な趣味を持つ時、または信仰を持つ時に、この「自己を客観的に見つめる」ことが大事だと思う。そのことが最も大事だとさえ思っている。

自己を客観視出来ずにひとつのことに没頭するさまを他人から見た時のみっともなさ。

恥を知ることは、このことを、自分の中できっちりと認識するという作業をすることである。

私自身、恥ずかしいという感情を、人形と関わってからずっと10年以上抱き続けている。

馬鹿なことをしていると思いながら、やめられないのです。

 

お人形が気持悪い、という人もいる。

人は、ヒトガタというものに、必要以上に意味を付け加えようとするものだからである。

月の表面に顔のかたちが浮き出ていたというだけで話題になる。

それが陰影で出来たものに過ぎなくても、それは認めたくなくて、人工的に出来たものではないかと思いたがる。

人のかたちが自分たちに似ているからこそ、人間は本能的にそれに興味を持ち、惹かれてしまう。

だから、人形のようにあまりにも人間に近く、そっくりに作られたものには、もしかしたら人間と同じように魂まで宿っているのではないか、いつの間にか魂を宿しているのではないか。

そんな風に考えたがるのが人間である。だから、気持が悪いという考えが出て来る。

だけれども、私にはそういうオカルト的な考えはいっさいなく、人形はあくまでソフトビニール製のコレクション対象である。

魂やペットといったオカルトとしての人形ではなく、見るもの、楽しむものとしての人形。

それは、仏像を見る時もまったく同じで、仏像を美術作品として見てしまうから、今ひとつ仏様を拝む、仏様になにかを願う、という真剣な態度になれないのだと思う。
そこが良し悪しですが。

 

しかしともあれとりあえず、私は私なりの接し方で、これからも人形に対して行きたい、行くだろうと思う。

このサイトのみかた

人形との関わりについて
スーパードルフィー考

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