人形との関わりについて
Me and my dolls
04/6/22
根本的なことを、ちょっと書いてみたいと思う。
人形と、自分との関わりについて。人形についてどのように思っているか。
このようなことを、他の人形のサイトで書いてあるのを見たことがない。私だって、そんなことを書く必要はないと思っていたし、人形を楽しむのは理屈ではないと思う。
ただある必要に迫られて、書いてみる。
というのも、私は他の人形の好きな人と、感覚が違うのではないかと思うからだ。
私は人形が好きだ。でも、それは、他の、例えばモローが好きだとか、ビートルズが好きだとか、澁澤が好きだという、その好きというのと同じ感覚で好きなのであり、私の中ではそこに区別はない。
私にとっては、それらはまったく同じ価値を持ち、私の生活、或いは思想の上で対等の位置を占める。
むしろそれらは渾然一体となって私の中で意味を持ち、それらをひとつひとつ切り離して考えることが、もはや不可能と言えるまでになっている。逆に言うならば、それらに比べて人形だけが私の人生の中で特別な存在である、ということでは、まったくない。
そこが、他の人形者の人と違うのではないかと思うのだ。
人形者の人は、いかに自分が人形を大切にしているかと言う。
でも私は、人形を大切にしていない。大切だとも思っていない。
人形は好きだが、別に大切ではない。普通である。
人形を裸にして、転がしてある。もう何年も。そんなのがいくつもある。
首だけ外してほったからし、というのまである。
多分、私は人形者として失格なのだろう。
人形に、ある種の人格を付与して、それをあたかも人間の子供だとか、犬だとか、愛玩動物とかのようにして可愛がる、という感覚が私にはない。
人形に人格を与えることが、きらいなのだ。
では、私にとって人形とは何かと言うと、男の人がフィギュアを集める感覚に似ているのではないかと思う。
最近は、男の人も人形を可愛がるという風潮になっているから、これさえあやふやな定義だ。
私にとって、人形は、単におもちゃである。
単に、モノである。それ以上のものではない。
でもだからと言って、人形が嫌いなのではない。
大好きだ。私が好きだと思っているものの中で、最上のアイテムであるだろう。だから、人形のサイトをずっとメインでやっているのであり、今も飽きもせず人形を買い続けているのだ。
でも、可愛がりはしない。私にとって人形は、可愛がるべきものではないのだ。
では何かと言うと、むつかしい。
言葉で定義するのは困難であるが、強いて言うとするならば、それは、欲しいものであり、そばに置いておきたいものであり、所有して満足するものである。要するに、世の中の物質の中で、最も私の所有欲をそそるもの…と言えばいいのだろうか。
あえて言えば、そういう、モノとしての人形に惹かれるのである。
***
こういうことを、詳しく、そして深く考えたことは、あまりなかった。
私が、始めてコンピューターを持ち、インターネットを始めた頃、―それは、人形のためだけに始めたのだったが―、既にさまざまな人形サイトが立ち上げられていて、私はそういうサイトをネットサーフィンしてまわっていた。
私は人形好きとして孤独で、誰も私の回りに同じ趣味の人間はいなかった。
だから、インターネットをして、少しでも私と同類の人間がいるのではないかと、同類の人間を探して安心しようと思ったのだ。
そういう、インターネットの人形サイトを見て回っているうちに、ものすごく驚いたことがあった。
それは、忘れもしない。
人形の説明文に、
「この子は○○で買いました」「この子はとても…で」などと、人形を「この子」扱いしていることだった。
このことを言うのは、実はとても大変なことかもしれない。人形サイト界では、或いは言ってはいけないことかも知れない。よく分からない。けれども、私の正直な気持ちを吐露するにあたって、こういうことも言っておくことにする。
例えばリカちゃんなどの人形ならば、「この子」扱いしても別に不思議はないし、驚かない。
けれども、それはバービーなのだった。
どう見ても自分より年上のおばさんとしか思えないバービー(当時)に対して「この子」呼ばわりは、私にはどうしても抵抗があった。そして、人形サイトの人は、人形に対してこのような感覚を持っているのか、とその時慄然としたのだった。
私とは違う。私はそんな感覚は持ち合わせていない。
私は、人形に対して過剰な思い入れなどは、持ち合わせていないのだ。
だから「この子」呼ばわりに抵抗を感じた。
人形の好きな人は、人形に人格を与えて、自分の子供か何かのように考えて可愛がるらしい。これは日本だけのことではなく、海外でもそうであるという。
海外でも人形を自分の子と言って可愛がるらしいのだ。
人の形をしているから人形には魂が宿るのだと言う。
歌舞伎のある演目には、人形に、鏡を持たせることによって、ただのでくに魂を宿らせる、という場面があった。
昔、仏像を作った時、その体内に布で作った五臓六腑を挿入したり、あるいは銘札に書き付けをして体内に入れ、それによって像に魂を宿らせたとされる。人形(ひとがた)というものは、人間の形をしているがゆえに、人に近いもの、人と同じように魂を宿すことが出来ると考えられたのだろう。
それはほとんど信仰といえるかもしれない。しかし私にはそうしたひとがた信仰はない。
もし人形に魂が宿るという考えがあるならば、何百という人形を集めることなどとうてい出来るはずがない。そんな何百という魂の、ひとつひとつと、真剣に付き合うだけの根性が私には、ない。
魂などないからこそ、気軽に人形につきあえるのである。だからあえて私は人形を、「この子」扱いすべきではないと考え、それを貫こうと思っている。
昔の人は、上手にひとがたに付き合ったと思う。
魂を入れるのも、入れないのも人間が行なう。
鏡を持たせない限り、人形には魂は宿らず、でくのままなのである。
いったん魂を持たせたならば、それは人と同じように人格があるものとして扱わなければならない。
それをぞんざいに扱えば、恨みを買うに決まっている。
けれども、魂を入れない限り、でくはでくのままなのだ。私は、人形をぞんざいに扱うものと決めているから、永遠に魂を入れる予定はない。
***
人形との間に距離を置くのは、人形と深く付き合い、密に関わってはいられないと思うからでもある。
人形だけにかかずらうことは出来ないからだ。
すべてを捨てて、人形に何もかもかけることは出来ない。
人形のためにすべてを犠牲に出来るかといえば、出来ない。私には、人形以外にも興味のあることが多すぎ、それらも、人形と同じくらいに捨てることが出来ないからだ。
そのことで、最近は深く悩む。
なぜこんなに、興味のあることが多すぎるのだろう。なぜ人形なら人形に絞ることが出来ないのだろう。
興味の対象を、一つに絞ることが出来ない。私は、人形だけを興味の対象にしておくことが出来ないのだ。
人間というものは、元来そういうものかもしれない、とも思う。
ひとつのことだけにこだわれば、必ず不幸になる。それにしか興味がないならば、それが禁じられた時、どうなるだろう。それを失った時、どうなるだろう。
原理主義は危険である。
そして、人は、パンのみにて生きているわけではない。明日に着る服の心配もし、明日に仕事があるかをも心配しなければならない。ひとつのことだけで生きることは不可能である。
明日、楽しむものが沢山ある方が、人生は豊かになるだろう。そのように神は、人間を作ったのではないか。
原理主義は、人間が作ったものである。決して神の思し召しではなかろう。
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