スーパードルフィー考
Super
Dolfie
04/6/22
日本で発売されている人形の中でも特に人気を誇り、支持されているSD。ユーザーが今一番元気な人形であるかもしれない。そのSDについての考察。
スーパードルフィーのカタログ本について書いたことで、SDの持ち主という人が、深く傷ついたらしく、抗議して来た。
そのことによって考えることがあった。
とりあえず、スーパードルフィー(SD)についての考えを書いておくことにしよう。
どこに書くか、迷った。
Diaryに書いたらいずれ流れて紛れてしまい、あとで読むのに探しにくくなる。だから人形関係のコラムに書いておけば分かりやすいかと思い、ここに書くことにした。
まずカタログについて書いたことは、書き直したり、撤回するつもりはない。あのまま放置が最良だろうと思う。
今さらSDをけなすつもりで書いたのではないというふうに弁解してもアレであるし、かっこが悪い。一度言ったことを撤回するのは私としてもプライドがありアレである。
また自分が書いたことには、はっきり言って自信を持っており、どこにも間違いはなかったと思っている。私としては、そんなにひどいことを書いたつもりはなかった。むしろソフトだと思っていた。自分でも的確であり、どこにも落ち度はないと思う。
私は以前からこのコーナーでも、バービーや、ジェニーの悪口をさんざん書いて来た。
私にしてみれば決して悪口ではい。事実を書いたまでのことであった。私は大人であるから、与えられた人形を、ただ可愛がって遊んでいるだけでは済まない。
事物を観察したり、考察したりするようになる。
これは学習力を備えた人間としてしごく自然なことであろう。
抗議をして来た人は、あの文の「股間」描写に傷ついたらしい。
けれども、あの文は、SDに対してあのようなイメージを持つ伊佐子という女こそがエロで下品なのだと言っているのと同じだ。
彼女(抗議者)は、あの文を読んだ人は、SDの愛好者は、まるでアレが目当てであって、毎日アレを磨き、アレを撫でさすって暮らしている、と誤解されるのではないか、と思ったようだ。
つまり、あの文は、SDよりも、SDを愛でる人を攻撃したように思えたのであろう。
そうであるなら私の説明不足だったのであろうか。
SDは、日本で発売されている人形の中でも特に人気があり、知名度もあり、ブームであることもあり、今日本で一番売れている人形かも知れない。だからSDについての知識は浸透していて誤解はないだろうと思い、それを前提にしていたこともある。まあこれも弁解と受け取られるかもしれない。
それでも、私は、アレ…つまり性器がある、ということが、SDを特徴付けている最大のポイントだという自分の考えは変わっていない。
それは、SDを他の人形と差別化をするためのものであり、特別のものとするための印だと思う。
バービーはファッションドールであり、着せ替えのドレスを楽しむものであるから、性器は必要がないのだ。
ファッションドールという性格を持つ人形はすべてそうであろう。ところが、SDはそうではない。
単に人形というより、より人間に近い、愛玩動物とも似たような性格の、可愛がるためのものだ。
人形の中でそのように位置つけるための印が、アレなのだ。アレがあることによってより人間に近しい感じを与え、だから持ち主が一生懸命可愛がろうという気持ちになる。
それがメーカーの狙いであろう。
最初にSDが販売された時のコピーが、
「かつて、これほどまでに感情移入が可能な"人形"が存在しただろうか」
というのだった(99年)。
人形、というところにコーテーションマークが打ってある。
人形ではあるが、人形を超えている、という意味であろう。
SDをこのように差別化することによって、オーナー(と、SDの持ち主のことを言うらしい)の優越感をくすぐる。
ただの人形ではない、SDという、特別な人形を持っているのだ、という昂揚感を与えることが、SDの戦略なのではないか。
値段もとびきり高い。
私は、値段の高い人形は駄目だという信念があり、だからSDは駄目だという価値観なのだ。
同じようにして、マダム・アレキサンダーも駄目な人形である。SDに関しては、あの素材であの値段はいけないだろうという意見もあるのだが。
SDの素材に関しては何も知らないので、私は何とも言えない。SDの正確な値段は知らない。例のカタログには、ドレスつきでスタンダードモデルが54800円と書いてあった。
これではお話にならない。
(私の買える範囲の値段ではないという意味である。人形は3万円以上してはならないという考えがあるのだ)こういう、法外な大金を支払って買う特別な人形である、という、ここでも差別化がある。
これだけ大金を払ったのだから、とてもぞんざいには扱えないだろう。私のような、人形はぞんざいに扱うもの、という信念を持つ雑な人間には手が出ない。
ただ、SDは、確かにメーカー主導型の人形に思える。
メーカーのイメージ戦略に乗っ取った差別化によって、人気が出たようにも思える。
でも私はそうではないと思う。
最初にSDを販売した時に、メーカーはここまでが人気が出るとは予想していなかったのではないか。
始めは、男性がこれをアトリエとか、そんなところに素体のままで置いておく、というような、そんな危ないコンセプトだったような気がする。それが、思いがけず女性に人気が出て、それでどんどん人形のイメージが、ユーザーに合わせて広がって行った。
今のSDのイメージ戦略は、はからずも、ユーザー、持ち主の願望が、そのまま姿となって現れてしまっているのだ、と見る。
SDは、SDのユーザー(私はオーナーという言葉が好きではないので)が自ら作り上げた人形なのだ。人形がハーフカスタムだというだけでなく、そのイメージも、実は持ち主が必要としているから作られたものなのだ。
SDは最初から思いきり感情移入、思い入れをして下さい、という形で売られている。
そのシンボルが、性器という形で表れているのだと思う。そのシンボルがある以上、ことさらそれを隠すことは、不自然であると思える。それが人形を特徴付けているものであるなら、なおさらである。
だから私はそれを指摘した。あのカタログを見るまでは、私は、それを知らなかった。誰もアレがあるとは大声で言わないので、知りえなかったのである。
しかしそれがある以上、そして私が「発見」した以上、指摘するのは当たり前であろうと思った。
他の人形にはない、もっとも大きな特徴だからである。
SDがもし好き嫌いのはっきり分かれる人形であるとしたら、それは、「思い入れ」というの部分のせいだろう。
私は人形に感情移入をする、という発想がない。思い入れなどはない。
人形を大切にしようとは思わないし、実行したこともない。ほったからしである。人形の世話をしたくなどないのだ。
まるで鬼畜か、鬼のような性格である。
(私は、たまごっちが流行った時も、何も興味を示せなかった。)人形など、私の中ではその程度なのだ。
そういう人間にとって、SDとSDユーザーが作り出し、かもし出しているSD文化は異世界だ。
初めて人形の世界に足を踏み入れた時の違和感にも似ている。
自分とは違う。
だからこそ私は、自分とは異なる価値を持ち、栄えている世界を自分なりに理解するために、分析を行なおうとした。
それだけのことなのである。
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