京都の町と学区
その1
05/3/13
前回の最後で、通り名を間違えて書いたのだが、気づいた人はいたのだろうか。
つまり「上数珠屋町通東洞院西入ル廿人講町」という住所は存在しないのだ。
廿人講町のある通りは中数珠屋町通であって、正確には、ここの住所は「京都市下京区中数珠屋町通東洞院西入ル廿人講町」となる。読み方は、「なかじゅずやまちどおり・ひがしのとういんにしいる・にじゅうにんこうちょう」である。廿人講町というのは、ここが東本願寺の門前だからで、門前町ならではの町名だ。
数珠屋町通は、上数珠屋町通があるから、当然中数珠屋町通もあれば、下数珠屋町通もあるのだ。
しかし、「中数珠屋町通東洞院西入ル」という通り名は、実は簡単に「正面通烏丸東入ル」と言い換えても通じるのであった。
このように、京都の住所は複雑である。中数珠屋町通をなぜ正面通と言い換えることが出来るのかは、複雑な歴史的背景があり、今ここではあまりにも長くなってしまうので書けないが、いつかこれをつまびらかに出来る時も来るであろう。
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さて、前回までの考察で、京都市には町名で呼ぶ区域と、上ル下ルの通り名で呼ぶ区域とがあることが分かった。
そして、通り名で呼ぶ区域は、江戸時代以前に形成されたコアな京都のみやこ区域であることも分かった。今回は、このみやこ区域における町割りはどうなっているかという話である。
京都でタクシーに乗った時、○○町に行ってくれと言っても通じない、という話がある。
それは事実だ。
ただしそれは例によって市内中心部、みやこ区域のみに限られるのである。左京区や右京区など、のちになって京都市に併合された区域、つまり「あとから京都」区域は、他都道府県同様、ちゃんと町名で通じる。
というよりも、そういうところへは、銀閣寺へとか、天竜寺へ行ってくれと言った方が手っ取り早い。問題は旧京都市街だ。
旧京都市街、みやこ区域では町名はほとんど意味をなしていない、ということを言っておかなくてはならない。
その地域に住んでいる人でさえ、自分の学区以外の町名は知らないと思う。
町名があるにはある。だが、それはまるで一般的ではない。
そこに住む人さえ、はっきりとは知らない。
それが、京都の町名である。そのわけは、以前からくどいほど言っているとおり、市内中心部のみやこエリアでは、町名よりも通り名が一般的だからだ。
旧京都市街は特別であり、旧京都市街に住む住人が、我々は特別だ、という特権意識を持つのは、この通りを中心に考えるみやこの特殊性のせいであろう。
みやこ区域は、通りが碁盤の目状に走っているので町名よりも通り名表記の方が発達した。
座標軸にしたがって通り名を呼ぶこの方式はとても便利で、自分の今いる場所があからさまに分かる。
だから、上ル下ルの通り名で表記しさえすれば、場所を特定することが出来るので、町名がなくても一向に差支えがなくなったのだ。京都の中心部・みやこエリアでは、そんなわけで便利な通り名が使われるようになって、町名はすたれ、通用しなくなって来た。
現在では町名は便宜的なもので、単なる飾りであり、まったく浸透していない。
京都の人は、慣習によって東西の通りと南北の通りが直角に交わるところを頭に感覚的に描きながら町を歩いているから、○○通り××下ル、という座標軸によって場所の見当をつけることが出来る。
だから町名は必要がなくなったのだ。住所を書く時も○○通××下ルとか、△△通××東入ルと書くだけで、町名は書かなくても良かった。
というよりも、それに町名を書いていたらあまりにもだらだらと長くなって、書くだけで手が痛くなる。それで町名を略するようになった。略しても通り名だけで手紙が行くから、差し支えなかった。
(この場合、番地もいらない。後述する)
けれどもある時、郵便番号制度というものが出来て、私自身は書き方を変えた。
住所を書く時、何々通何々下ルという通り名を略するようになった。
下京区○○町××番地、とだけ書くようになった。とにかく長い住所を書くのが大儀だったので、郵便番号がついているから通りを略してもいいだろう、と勝手に考え、町名だけ書くようになったのだ。
これはオークションをするようになってから、わりと精神的な負担の少ないことに気がついた。
通り名を書いていたら住所もろ出し、という感じで、京都のどこにいるか丸分かり、という不安がある。
知らない人に住所をモロ出しにして、もし訪ねて来られたら困る、という恐怖がある。けれども町名だけだと、そこが京都のどこに該当するか、ほとんど解読不能だ。だから何となくゴマカシがきく、という感じなのだ。
それと、通り名をだらだら書くのが面倒なのと合わせて、町名だけを書くようにしたのだ。
これで、私個人は非常に楽になった。
しかし、役所などに提出する正式な文書の場合は通り名から町名、番地までちゃんと書かなくてはならない。この場合は手が限りなくだるい。
それと、郵便屋さんには迷惑かもしれないと思う。郵便配達員は、通り名が書かれていないと不便だろう。ちょっと悪いなと思っている。
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ひとつ言っておかなくてはならないのは、番地のことである。
町名のあとに番地もついているが、この番地は、おどろくべきことに、京都市内中心部の場合、はっきり言ってでたらめなので信用は出来ない。
普通の土地では、1番地の隣は2番地だろうと考えるが、京都の場合はその限りではないのだ。
私の家は、番地が3ケタだ。けれども、ウチの町内は30軒くらいしかないのだ。
3ケタの番地になりようがないのになぜ、そんな番地なのか。でたらめもいいところであろう。そのわけは誰も知らない。
多分、そこにもとから住んでいた住人が、自分の好きな数字を勝手に選んだのではないか、と考えている。例えば、私の家の番地が123だったとしたら、私のとなりの家は、普通なら124か122となるはずであろう。しかし、実際には私の家のとなりは、101だとか、225とかの、私の家とは全然関係のない番地だったりするのだ。
しかも、町内に100軒もの家はないというのに。だから、市内中心部、みやこエリアで町名と番地をもとに家や場所を探そうとしても無駄である、ということが分かっていただけたであろう。
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もうひとつ、町割りのことを言う前に、学区のことを言っておかなくてはならない。
他の市町村にも学区というものはあるのだろう。しかし他府県の詳しいことは、私には分からない。
ただ、京都の学区は、「日本でいちばん最初に学区制の番組小学校が出来た」ことを京都が誇りにしていることもあり、非常に緊密なご近所単位を形成している。言ってみれば、学区は他府県の村という単位に適合し、学区ごとに行なう催しなどは、村で行なわれるそれにちょうど符合しているのではないか。
学区とは、小学校のある区域で、○○学区といえば、そこに属する子供はその○○小学校に行くという単位である。
小学校の名前は、崇神とか尚徳とか、何となく天皇っぽい名前がついている。
それが、崇神学区とか、尚徳学区と呼ばれるひとつの単位で、そこに属する子供だけでなく、大人も学区ごとに行動する。京都では、町よりも、時にはこの学区の方が尊重される。
学区の中にはいくつかの町があり、町がいくつか集まって、ひとつの学区を形成している。
だが、学区の名前にしても、京都中の学区の名前を知っている人は殆どいないはずだ。
自分たちの近所の学区しか知らない人が多いに違いない。
下京区に住んでいる人が、下京区の学区を全部知っているかといえば、ほとんどの人が知らないのだ。
知っているのは自分たちの近所だけである。下京区なら下京区という、ひとつの区にいくつの学区があるのか。それも知らない。けれども3つや4つではないだろう。
学区別の地図があるようでなさそうだ。ひょっとしたらあるかもしれない。現在小学校の統廃合が進んでいて、かなりの小学校が廃校になった。
けれども、学区はそのまま存続しており、もとの小学校の学区名で呼びつづけている。
みやこ地区で、町よりも学区が尊重されるのは、町があまりにも小さいからである。
町単位で動くのは、回覧版を回す時とか、地蔵盆とか、火の用心とか、親睦会という名のごはんたべとか、そんな時だろう。
いっぽう、老人会は学区単位で形成されており、慰安旅行などは学区で行なう。
地震の緊急非難時には学区の小学校に行く。
火事が起きた場合、学区の私設消防団が駆けつける。このような役割分担によって、学区と町の大体の区別をつけることが出来るようだ。
区民運動会で小学校に集まる時は、町(ちょう)ごとに戦う。
この時に、その学区の町が一堂に会するのである。ひとつの学区には、よく分からないが、およそ20くらいの町があるのではないだろうか。
さて、これでいよいよ町割りについて語ることの出来る段取りが整った(そんなんばっかり)。
次回こそは、京都のせせこましい町について、じっくり語り明かそう。