地蔵盆の思い出

04/8/17

 

地蔵盆は、お盆の約一週間後、各町内で行なわれる催しだ。

今でも行なわれてはいるだろうけれども、近年はすっかりすたれて、昔のような賑わいはなくなった。私たちの子供のころは大々的で、それはそれは楽しみな、夏休みの最後のレクリエーションだった。そして地蔵盆が終わると、夏休みも終わりなんだと、寂しい思いにとらわれるのが常なのだった。

 

町内によって地蔵盆の形式は少しずつ違っていて、日にちやスケジュールも違っていた。始まる日も一定していない。
大体の町(ちょう)は、8月23日から24日くらいが初日だ。

始まる一週間くらい前に、町内の、任意の目立つ壁面や、役をしている家の前などに、地蔵盆の(手書きの)スケジュールが貼られる。

それによると、初日が町の男の人たちによる提灯アーチ立てなどの準備、2日目に福引、3日目にレクリエーションなどとなっている。
おおかたの町では地蔵盆は2日間だ。でも私たちの町は少し長くて、いつも3日間あった。
レクリエーションと称して、近くのヘルスセンターなどに遊びに行く日が1日あったのだ。
他の町より1日長いので、得をした気分だった。

そしてさらに、うちの町内では、通りの端と端に提灯つきのアーチが立った。
大概の町(ちょう)には、このような大掛かりなアーチはなくて、これもうちの町の自慢だった。

それでも他の町には、アーチの代わりに巨大な行灯が掲げられるところもある。町内町内でさまざまな趣向が凝らされており、それが各町の持ち味であって、また自慢でもあったのだろう。

 

1日目の朝早くにアーチ立てがあり、私の父も毎年駆り出されて、立てに行っていた。
うちの町内に入る時にはこのアーチをくぐらねばならない。言わばテリトリーづけのためだ。
そのほかに福引の飾りつけもある。

福引は2日目の朝にあり、役の人があらかじめ揃えておいた福引の景品が、町の、ある家の表の間に飾りつけられる。
そこは、地蔵盆になると景品が飾られる場所として決まっていて、毎年、福引の景品置き場として、その家の人が表の間を提供してくれる。
通りを歩いていても景品が見えるように、期間中、その家の戸は開け放しになる。

福引には大人用と子供用があり、子供には人形とか文具、おもちゃなどで、大人にはガラス器セットとか、ごみ箱とか、ほうきとか、お風呂用の椅子とか、そんなものが景品だった。
子供が二人いる家には子供券が2枚配られる。
1等賞、特賞などと書かれて、雛壇のように景品が飾られる。

子供たちは、どんな景品があるのか、自分にはどの景品が当たるのだろうかとどきどきしながら、それが飾られている場所に、飾られている間じゅう、何度も足を運ぶ。

そのわくわく感は、今でも思い出すと気持が昂ぶるほどだ。

 

10時と3時にはおやつが出た。
町内のお菓子屋さんに行くとおやつが貰えた。それも、貼り出されたスケジュール表におやつの時間として書き込まれている。

子供たちは自主的にお菓子屋さんへ行き、アイスキャンデーなどをもらう。自分で、その時間に行かなくてはもらえないから、時間が来るのを忘れずにいなければならない。

今は、私の町内にお菓子屋さんはなくなった。

それから11時と2時、4時には「おつとめ」と書いてある。
小さい頃、私にはこの「おつとめ」の意味が分からなかった。

「おつとめ」というのは、数珠回しのことだ。

町内の小さいお寺に行くと、そこの居間(本堂)には大きなお数珠が置いてある。その数珠の回りに10人から20人くらいの子供が座る(それくらいの大きさの巨大な数珠だ)。
お経を唱えながら(なむあみだーと繰り返すだけだが)みなでお数珠を回して行き、お数珠の中で一番大きな数珠だまが自分の前に来ると、それをいただく。
そんな風にして数珠をまわしていくのが数珠回し。この意味も分からないまま、子供の私は数珠回しに参加していた。

 

地蔵盆の1日はスケジュールがびっしりである。
何時に何があるか、忘れないように何度もスケジュール表を確めに行く。

そして、スケジュールの合間には、町内の各家々の軒先を見て回るのが、またもう一つの格別の楽しみだった。
なぜなら、各家の軒先には「行灯」(あんどん)が吊るされているからだ。

 

地蔵盆が近づくと、各家々では、1年間眠っていた行灯を押入れの隅っこから出して来る。

そして去年の絵柄を破り、新しく今年の絵柄を各自で描く。
地蔵盆になり、それを軒先に吊すまでに、絵柄を決めて、描き上げなければならない。

絵は、半紙に描いた。
毎年新たに新しい絵を描くのだ。家の誰が描いてもよい。大抵は、その家の子供が描いた。
原則として、何を描いても良いのだった。基本としてはお地蔵さんとか、干支(?)なのだろうが、子供でそんな絵を描く者はいない。たいてい自分の好きな絵を勝手に描いた。

私も毎年行灯の絵を描いた。
私は絵が得意だったので、行灯に絵を描くのが楽しみだったのだ。
大抵はまんがのキャラクターだったけれども。

当時、私は水野英子が好きで、彼女の絵を描いたりしたのを覚えている。

 

行灯は夜になると蝋燭の火を入れて照らすから、透き通る、薄い紙でなくてはならなかった。
それで習字の時に使う半紙を必ず使うのだった。
そして、色鉛筆などで色を塗っても、灯火には映えないので、水彩絵の具を使わなくてはならなかった。
水彩で薄い紙に描くと、あまりきつく塗れば紙が破れてしまう。
その手加減がむつかしかった。

自分で描き上げた行灯を家の軒先に吊す時は、何とも言えない晴れがましい嬉しさがあった。
自分の作品を見てもらう、というような感じがあったのだ。

自分で行灯に絵を描くのも楽しかったが、そのように各家に吊されているほかの人の行灯の「作品」を見るのがまた楽しかった。

この家の人は絵が上手だな、などと評しながら、各家の前を歩く。上手な人は毎年上手な絵を描くから、その人の家の前に行くのが毎年の楽しみになる。

行灯の絵は前1面だけである。
後ろは見えないから描かない。サイド2面は、たいてい家内安全とか、無病息災などの文字を書く。

たまには、横にも絵を描いている家がある。
この家はどんな形式で描いているだろうと、いろいろ見て歩くのが面白かった。

 

時間があると、さらによその町内にも行く。

どこの町内も、その時期は地蔵盆をやっているが、最初に言ったように、町内ごとにいろいろと特色がある。
どんな風に地蔵盆をやっているかを、見に行くのだ。
またその町の行灯を見る。

時々は、地蔵盆に浴衣を着たりした。

そんなふうにしてすっかり夜が来ると、各家の行灯に火が入る。

蝋燭の火で、それぞれに描かれた絵がゆらゆらと揺れ、昼間とはまた違う姿を見せる。

地蔵盆の夜は、興奮の夜だった。

いつ頃だったか、行灯に蝋燭の火を入れると、風が吹いた時に火事になるからというので豆電球に変わった。そうすると、とたんに行灯がすたれてしまった。
今行灯が、もう軒先にかかることはない。

 

翌日、たいていは地蔵盆の最後の日。いよいよ待ちに待った福引がある。

今から思うと、大した景品はなかったのかもしれない。
それでも子供も、大人も、誰もが楽しみにしていたのが福引だった。
人の誰もが、純真だったのかもしれない。

福引には当たりとスカがあり、当然のことながらスカの方が多かった。

私は1度、大人の福引を引いて当たりを当てたことがあり、それから私は福引をよく当てる子供だ、ということになり、くじになると私が引け、と言われた。
けれどもどう考えても、その当たりはまぐれ当たりだった。
以降、くじに当たったためしはない。

後年、福引に当たりとスカがあるのは不公平だと言うことになり、誰が引いてもおよそ同じくらいの金額の景品が当たるというように変わった。

確かにその方が公平ではあるだろう。
けれど、あの時のどきどきわくわく感は、もう二度と味わうことは出来なくなった。

今では提灯アーチが立つこともなくなり、各家の軒先に行灯が飾られることもなくなった。私自身、スケジュール表を見に行くことも、しなくなった。

 

地蔵盆の2日目もおやつがあり、おつとめがある。
そして夕方にはお寺の祭壇に備えてあったお備えが、それぞれの家に配られる。
キャラメルとか、湯葉とか、おけそくさんとかだったと思う。

このお備えをもらうと、地蔵盆も終わりだ。

明日は、琵琶湖の紅葉パラダイスにレクリエーションだろう。
町内の子供と、ご老人がバスに乗って、紅葉パラダイスの温泉につかりに行くのだ。

私たちは、提灯アーチが外されるのを横目に見、夏休みの宿題にまだ全然手をつけていないことを少し気にしながら、そうやってバスに乗り込むのだった。

(この項おわり)

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