梅原様の話

05/11/5

 

本の好きな私が、いつの頃からか、本に関してあるタブーを持っていた。

それはある種の作品を絶対に読んではならない、という禁忌であった。
どういうことかいうと、次にあげる三人の著者の本を読んではならないということである。

その三人とは、埴谷雄高、吉本隆明、そして梅原猛であった。

なぜか。

それは、それら三人の著作は私が読むにはあまりにも荷が重すぎる。
それら三人の著作を読むと、おそらく私の頭脳では対処できなくなり、脳味噌が、映画「スキャナーズ」のように爆発してしまうであろう。
または、目が廻り、最終的には目が潰れてしまう。

であるから、どんなに彼らの書物が読みたくなっても、絶対にそのページをめくってはいけない。絶対に彼らの著作を買ってはいけない。絶対に触れてはいけない。

…そのように、私は厳しい掟を自分自身に課し、そしてそれを今までずっと守り通して来たのである。
なんと健気なことであろうか。

 

本の好きな私にとってはそれは、非常な苦痛を伴うものであった。

書店で美しい装丁の埴谷雄高の新版「悪霊」を見かけても、ああ、一ページでよいから中身を見たい、とどんなに切望しても、自分の課した掟であるから、それを破ってはならないのだ。

どういうわけか家に転がっていた梅原猛の本を、一度読もうとしたことがある。
ページをめくって、一行読んだだけで、目が回り、頭も回り、実際に目が潰れそうになった。
一字一句も理解が出来なかったのだ。
それ以来、梅原に近づいては駄目だ、と強固に思うようになった。

女だてらに吉本隆明や埴谷雄高を読むものではない、という、逆男尊女卑の考えが私の中にあったこともあるであろう。

吉本隆明を喜んで読むような女が、現実世界で男性にもてるだろうか。それを思うと私はとても吉本に手が出ないのであった。

そのようにして、いつしかこの三人には触れてはいけない、と、私の中でこの三人が、禁忌として忌み作家となっていった。
そして、私は自分に課したこの禁忌を、犯すことは決してなかったのである。

 

しかし時は過ぎ、人は成長する。

それはまた年を取るということでもあるが、年を取ると精神は成熟し、若い時の未熟に気づくこととなる。
人は同じではない、ということに、目覚める時が来るのだ。

若い時は、年を取るということは死に近づくということであり、悪いことだと思っている。そして年寄りを否定し、馬鹿にする。
しかしそれはとんでもないのであった。
そのような未熟な考えは、未熟のなせる技でしかないのだが、現実の年寄りはその若者の未熟を黙して許している。

年を取るということは、分からなかったことが分かるということであり、気がつかなかったことが、闇夜の晴れるように明らかになるということである。

そして、年を取るということは、毎日がそのような発見の新たな日々であること、そのことを知るということでもある。
つまり、毎日が発見によって楽しくて仕方がない、という態度で日々を暮らすことなのだ。

若者よ、と私は言いたい。

お前たちは、何もかも知り尽くしたような顔をしているが、実は何も知らないのだ。世のことわりを、何も知らないのだ。それが証拠にお前たちは今、発見の日々を過ごしているか。と。

年を取ると肉体は衰える。しかし、逆に頭脳は活発になり、働くことをやめない。
頭脳は、発見することを求める。
頭脳は、知ることをますます求める。
頭脳は、それが限りあることを知って、まるでそうであるが故のように、いっそう知ることを欲するのである。

 

そのようにして私の時は満ち、あの三大禁忌を破る時がついに来たのだった。

私がどのようにして梅原猛の書と遭遇するに至ったかは、ここでは述べない。
ただ時が満ちて、私のもとに梅原猛がやって来たと言うに留める。

先にも言ったように、梅原猛の本を読むと目が潰れる、というタブーを私は持っていた。
だから本来ならば、死ぬまで彼の書とは遭遇すまい、と決意していたのである。

けれども、もうひとつ別の理由によって、私は梅原猛氏に憧れてもいた。この相反する二つの感情の間で相克することがあった。そして、さらに私の知的な欲求が、自分の課した禁忌よりも優って来た。

梅原氏への憧れと、知的な欲求が禁忌の気持を超えたのである。

このようにして私は梅原氏と運命的な遭遇をした。いや、残念ながら梅原氏の書との遭遇であった。

 

私の目は潰れなかった。

潰れないどころか、私の内なる、脳髄のもうひとつの目が開いた、とさえ言ってもよい。

私は死ぬまでに梅原氏の書に出会えた運命に感謝した。
そして、梅原氏の書を理解することが出来た自分に、満足をした。

私は私の禁忌を破ってしまったが、それとひきかえに、知の大海原へ漕ぎ出すという栄光を授かったのである。そのことを後悔するものではない。

但し、あとふたつの禁忌は今だに有効で、それを破るつもりもない。

私は埴谷雄高と吉本隆明は知らないままで生涯を終えたい。つまり梅原猛氏ただ一人に操を守りたいのだ。

つぎ

隠された十字架

[TOP | HOME]