京都は野暮か

 

前回の続き

04/6/8

神戸へ行って来たら、思わず京都と比較していた。

旧居留地地区を歩いていたら、そのきれいさにため息が出た。
神戸は、洗練されていて、おしゃれで、垢抜けた町だ。

建物のデザイン、ショーウィンドウのディスプレイ、町全体のたたずまい。落ち着いていて大人で、おしゃれさをひけらかすことなく、さりげない。

それに比べて、京都の野暮ったさ。田舎くささ、古くささ、きたなさ。

どうしたことか。なぜなのか。

 

京都に戻って来て、考えてみた。

京都の町の佇まいは、なぜこんなに野暮ったいのだろう。

京都にも、神戸の旧居留地のように、見とおしのよい、高層ビル(まがい)が並ぶ大通りがないことはないのだ。

烏丸通の五条から御池あたり。東西の御池通。同じく東西の五条通。ここらは道幅が広く*、両側に立っているビルも、まあまあ高い。見通しはよい。通気が良さそうだ。

けれども、洗練されているかと言えば、うーんと唸ってしまう。

 

*戦時中に、緊急の事態に備えて道が強制的に拡張されたという。太平洋戦争がなければ、京都は昔ながらの狭い道路で済ましていたに違いない。

 

その理由の一つに、京都には寺が多いことがあげられる。

寺は、京都を歩けばよく分かるが、どこにでもある。
京都には有名なお寺ばかりではなく、そこら辺に無数に無名の寺がある。
それらは、大通りをひとつ入った小さな通りにはいやというほどあるのだが、大通りに面している寺もある。
寺は、動こうとはしないし、建て替えたりもしないから、いにしえよりそこにある。たとえ、真横に最新式のビルが建っても知らん顔して、寺は建っている。

それはそうだろう。

寺はビルより古くからそこに建っているのである。ビルがすぐ横に出来たからと言って、遠慮するはずがない。

というわけで、京都は、大通りにもお寺があるから、最新ビルばかりの洗練された町並みにならないのである。

 

しかも、京都人は大変頑固である。

お寺ならまだしもだが、商人がほそぼそと商売していたりする、一戸建ての商店が、大通りにどうどうと建っている。
こういう店に限って、屋根瓦の、普通の家屋の外見で、だから2階建てだったりする。しかも今にも朽ち果てそうな、古くさい建物だったりすることさえある。
建て替えればいいのに、と思うが、頑固なので昔ながらの外見のままである。

こういうのが、最新ビルのすぐ隣にあったりするのだ。

 

こういう店の顕著な例が、あろうことか、京都のど真ん中の、繁華街のまん真ん中にある。

京都高島屋の前の、二軒の店である。
四条河原町の西南角である。

誰もが、ああ、あれ、と思い当たる、あれである。

京都で、一番目立つ場所である。

あそこは、高島屋がさんざん立ち退きを要求しているのだが、二軒の店のオーナーががんとして立ち退こうと言わないらしい。
京都では最も地価の高い場所だ。
立ち退いたとしたら、さぞかし巨額の大金が手に入ることだろう。

けれどもオーナーは、決してあそこをどこうとはしない。お金ではないのだ。損得ではない。京都商人の心意気(?)なのだ。

京都の人間は、高島屋の前に、中途半端な塀のようにへばりついている二軒の店のあの不思議な光景を、全然不思議とは思わない。
思えばそのことの方が不思議だ。
あんな光景が、21世紀の現在まで続いているのを、誰も不思議がらないのはなぜだろう。

 

しかし京都人は、心であの二つの店を応援しているはずだ。さすが京都の店だ、と心の中で笑いつつ、許容しているのだ。

京都人とはこういう性格を持っている。

だから、町並みがいつまで経っても洗練されないのだ。

京都が野暮ったく、薄汚いのは、京都のこういう古い体質のせいなのだろう。

けれども、それでいいと、私は思う。

私は、京都のそんなところが好きだ。好きでたまらない。

野暮で結構ではないか。

おしゃれな町並みは神戸に任せておこう。

私たちは、いつまでも洗練されない、野暮天の京都でいい。要領の悪い京都でいい。

誰に悪口を言われたっていいではないか。それが京都の誇りなのだから。

 

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