京都の悪口を言うこと

 

04/6/4

神戸の市立博物館に行って来た。

三宮駅から歩いてゆける。
それで、方向音痴にも関わらず、歩いた。

迷いもせずに行き着けたから、方向音痴もかなり解消されたようだ。それとも、迷う余地のないほど簡単に行ける場所であったというに過ぎなかったのだろうか。

 

神戸の町を歩きながら、きれいな町だとため息が出た。

博物館のある地域は、旧居留地と呼ばれる。そう呼ばれるからには、古い居留地あとなのだろう(意味不明)。
博物館自体が昭和10年に建てられた銀行を利用して作られているという、コリント式*の柱が印象的なファサードを持つ、レトロですてきな建物だ。

*かなりいいかげんに言っている。

この旧居留地一帯は、総じてレトロで素敵な建物が連なっている。
新しいビルも建っているが、それらにしてもとてもしゃれていて、洗練されており、垢抜けている。
高層ビルが多いが、圧迫感がない。
空気が清浄で、抜けのよい空間という気がする。

神戸の町というのは、このように清潔で美しい、という印象がある。

わが町、京都と何という違いだろう。

わが京都は、神戸に比べれば、一目瞭然にせせこましい。
古ぼけていて、垢抜けしておらず、洗練とはほど遠い。

普段京都を歩いておれば意識することはないのだが、このように違う町に行くと、たちまち京都の駄目かげんがばれてしまうのだ。

神戸があのように洗練されていて美しいのに、どうして京都はこのように、うす汚いのだろうか。
あまりの違いにびっくりする。

神戸の空気は、吸ってもすがすがしく、清浄のように思う。
ところが京都の空気は息詰まるようで、吸うと、コケや垢や、ごみなどを一緒に吸ってしまいそうなほど、汚く感じる。

 

その理由のひとつは、京都の建物が低い、ということに関連しているだろう。

京都は周知のように規制があり、高い建物を作ることを条例で禁止されている。
禁止されていなくとも、市民がそれをよしとしないだろう。

高い建物をやたらに建造すると、夏に大文字が見られなくなる(今でも見にくい)。

高い建物が建てられるとテレビ電波が各家庭に届かない(一戸建てが多いからである)。

京都に数ある由緒ある寺社の権威が、高い建物が乱立することにより、損なわれてしまう。

とくにお坊さんの発言力の大きいこの町では、坊さんの機嫌を損ねると大変なことになる。

そんなわけで、高い建物は、京都では建てられないのである。

市民はもちろんそれを歓迎している。京都に高い建物は必要ないと思っている。

だから京都の町は、背が低い。

建物が低いと見通しが良かろうと思うのだが、どういうわけか、それが正反対である。

何か町全体に圧迫感があり、押し潰されそうな雰囲気がある。
空間が狭いと感じられ、息苦しい。

そんなわけで、空気が淀んでいるように思うのだ。

じっさい、京都の空気は汚れているような気がしてならない。
神戸できれいな空気を思いきり吸って帰ってからは、とくに京都は汚れていると思ってしまうのだ。

 

最近、京都でもどういうことか、スターバックス・コーヒーなどが進出している。

その店は、店先の歩道に机と椅子を置き、フランスのカフェーみたいに、店の外でコーヒーが飲めるようになっている。
それはいいが、しかし、京都の空気は汚いのだ。

車の排気ガスのみならず、コケやゴミのまじる京都の空気に直接触れながらコーヒーを飲むなど、私には到底出来ない芸当だ。
どうして人は京都において、平気で店の外でコーヒーが飲めるのだろうか。謎だ。
きっとファブリーズ人間(造語)なのだろう。

 

***

 

ところで、私はこんなに京都の悪口を書いているが、これは京都に住んでいる京都住民だからこそ京都の悪口を平気で書けるのである。

もし他府県の住民がこのように、京都は汚れているなどと言おうものなら、京都住民は、その者をバシバシにしばき倒すだろう。

京都民ならいくらでも京都を悪く言うことは許されるが、他府県の者が京都の悪口を言うことは許されないのだ。
これはまあ、どこの県民でも同じだと思うけれども。

どこの県民でも、自分の県の悪口を自分が言うのはともかく、他人に言われるのは愉快ではないだろう。

ただ、京都民が、京都の悪口を言うのは、自分の町を自慢しているのと紙一重だ。

京都は、他府県の人間、のみならず、外国の人間にとっても特別の町である。そういう前提が決定的に、ある。
なにせ1200年続いた日本の栄華の極みである。

はっきり言えば、そのような都の悪口を言う者など普通、いないだろう。
誰もがほめそやしこそすれ、悪く言うことなどないはずだ。
誰もが京都に憧れ、京都を特別扱いする。

そういう前提があるものとし、それでなおかつあえて悪口を言う。言えるのは京都住民だけである。

我々は京都の悪口を言うことが出来る、数少ない人民である、と差別化をする。
それが、京都住民による、京都への悪口の意味であるのだ。

つまり京都住民は、自分の美しさを鼻にかける、いや味な美人なのだ。天狗も天狗、大天狗である。

あっ、また悪口を言った。

つづく

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