寺と神社
その一 お寺編
04/7/10
突然変なことを書くのだが、私にとってお寺というのは、東本願寺だった。
子供の頃の遊び場だったこともあって、寺というのは、すべて本願寺のようなもののことをいうのだと思っていた。これは、つい最近までそのように、感覚として、体が覚え、なじんでいることなのだった。
通っていた幼稚園が、これまた東本願寺直営の、真宗大谷派幼稚園だったので、誕生日には合掌している女の子の像の素焼きをもらったりした。
しかしそれはもらった直後に落して割れてしまった。子どもというのはえてしてそのようなものだ。
割れた直後は悲観し、たいそう悲しかったが。幼稚園からは、時々バスで東本願寺にお参りに行った。おそらく、何らかの仏教の行事があったのだろう。でも幼稚園児の私には、そんなことは分からぬ。
幼稚園から本願寺までは大変近いのだが、園児が歩くとなると、先生が心配だったのだろう。それで幼稚園専用バスが出た。バスでは、座っている子と立っている子が半々で、座っている子は立っている子の手を握った。揺れた時に大丈夫なように、握ってあげなさいと教えられたのだ。
帰って来る時には、座る子と立つ子が、行きしとは逆になるのは当然だ。何のために本願寺へ行ったのか、まさか境内で鳩を追いまわすためだけに行ったのではないと思うが、思い出せない。思い出すのはとにかく、鳩を見に行ったということだけだ。幼稚園児なのだから、その程度の認識だった。
小学校へ上がると、本願寺はいっそう遊び場となった。
本堂へ勝手に上がり、廊下をばたばた走って遊んだ。よく坊さんに怒られなかったものだ。
不思議なことに、お坊さんには出会わなかった。見て見ぬ振りをされていたのだろうか。本願寺の前の通り(烏丸通)の真ん中にある噴水にもよく遊びに行った。噴水に、何をしに行ったのだろう。思い出せない。とにかく、噴水の前で日がなうろちょろしていたのだ。
本願寺の門をくぐる時は、ひやひやした。
鳩が屋根の上に(裏?)巣を作っているので、天井に鳩が無数にとまっている。そこから鳩のフンがどぼとぼと落ちて来るのだ。フンをかぶらないように通るのがひと苦労だった。今は、境内にはまだ鳩がいるが、あの門の天井には、めっきりいなくなった。門をくぐっても鳩のフンの心配をする必要は、まったくなくなった。それはそれで寂しい光景だ。
本願寺の本尊は何だったのだろう。覚えていない。
今思えば、阿弥陀さまか親鸞聖人が飾ってあったのだろう。けれども、そのころに、そのような認識はない。
ただ、本堂がやたらにだだっ広くて、気持が良いということだけ覚えがある。
(本堂は700畳以上あるそうだ。母談)この、本尊が分からない、というのは、実はとても重大なことだったのではないだろうか。
私は、つい最近まで、お寺にそういうものがある、ということが、どうしても感覚として、よく理解出来なかった。
それは、本願寺に行っていたからだろう。そして、本願寺が、お寺のスタンダードだと思っていたからだ。
仏教は宗派によっていろいろ違うだろうし、歴史的にもいろいろの変遷があった。
真宗大谷派は、どのような宗派なのか私にはよく分からない。もしかしたら、キリスト教のプロテスタントみたいなものなのだろうか。
仏教を理解するのに、日本人がキリスト教を持ち出して来て比較して理解する、というのも変だが、とにかく分からないのでしょうがない。
とにかく、東本願寺は、仏像をそれほど重要視していないように思えるのだ。
うちの父の宗派が、真宗大谷派の中でも、特に変わっていたのかもしれない。
うちの家には、父が死ぬまで仏壇がなかった。
南無阿弥陀仏と書かれた掛け軸が床の間に掛けてあって、それを父母は朝夕に拝んでいた。
掛け軸には文字だけで、南無阿弥陀仏の下に蓮の葉が描いてあったような気がする。
仏さまは、いなかったのだ。
他のお寺へ行くと、だから私の認識にとても混乱が生ずる。
他のお寺と、本願寺はきっと、まったく違うところなのだ。清水寺のようなところは、寺と名前がついているが、私の中ではお寺とは到底呼べない。
東寺だって、非常に怪しい。あんなのは、寺ではない。
はっきり言って、お寺に五重塔があるのが、私にはとても違和感があるのだ。一番違っているところは、他のお寺では拝観料を取る所だ。
お東さんは無料だ。
お賽銭を入れたりはするが、それ以外には何もいらない。だから子供でも自由に出入り出来た。
母に聞いたら、他の寺には門徒がいないからだという。その代わりに拝観料を取って寺の維持に当てる。
つまり本願寺以外は、既に「死んだ寺」ということなのではないのだろうか。そういう寺に、私たちは昔の偉い人が作った仏像などを見に行く。それらの寺は博物館と化していて、寺としての機能が既になされていない。
寺を守っているお坊さんはいるが、多分、博物館の学芸員的な存在なのだろう。
たまにお経を上げる学芸員だ。というよりも、お経も、博物館業務の一環なのに違いない。そのように理解しなければ、私は本願寺と、他の寺とのあまりの違いに違和感を持ったままで生涯を終えてしまう。
東本願寺では本堂には親鸞聖人が、阿弥陀堂(本堂南横)には阿弥陀様が安置されているという。やはり本願寺では阿弥陀さまよりも親鸞聖人が重要視されているようだ。
なお、現在(2004年)東本願寺・本堂は修復に入ったので、親鸞像は移動し、阿弥陀堂に、阿弥陀様と共に飾られている。
つづく
Intermission
ますます変なことを書いてしまう。
私は、分からないことがあると、つい自分の中で理解出来るまで追及してしまう癖がある。
そのことを、対象化し、きちんと文章として残そうという欲求が押えられない。
また、分からないことをとことんまで分析して自分で納得したいという気持がある。
だから以下は、他人にとっては、ひどくばかげた、たわ言としか思えないだろうけれども、私の内なる欲求が希求するのである。私にとっては、仕方のない欲望なのだ。
お東さんが作られたのはいつなのか、知らないのだが、多分蓮如上人以降だろう。
そのころには、仏像を拝むという、偶像礼拝的なことはすでにされていなかったのかもしれない。また、廃仏毀釈というような運動があったから、それに合わせて真宗が自発的に仏像めいたものをだんだんと廃する方向になったのかもしれない。
真宗のお寺が古い奈良時代などに作られていれば、そこには仏像も沢山あっただろう。
でも、真宗が盛んになった時は、すでに、宗教のためによい仏像を作るという考えは、どーでもよいことになっていたのかもしれない。
また事実すぐれた仏像が、本願寺には残っていない。西本願寺は国宝に指定されているが、それは門とか、書院なのであって、仏ではない。秀吉のころだから桃山時代である。
(東本願寺は明治時代の再建だから、指定がないのである。)仏教がさまざまに枝分れし、変質して来たということなのだろう。
東寺は平安遷都のすぐあとくらいに建てられているから、本願寺とはもう700年くらい開きがある。違って来て当然なのだろう。偶像として仏像を拝む、という信仰の仕方は古いやり方で、本願寺はモダンなのだ。
私は、モダンな宗教を先に知ってしまったのだ。
本願寺では、本堂に入って拝み、手を合わせたが、何に手を合わせていたのか。それが、謎のままである。
私の意識の中では阿弥陀さまでも、親鸞聖人でもなかった。
ただ、分からないまま手を合わせ、拝んでいた。とにかく拝んだ。誰に対してか分からないが、とにかくえらいヒトを拝んだ。
ヒトではないかもしれない。カミさまかもしれない。そういう、人間を超えた、何かすごく貴い、犯しがたいものを拝んでいた、という感覚がある。
そしてその尊い仏さまに、何かをお願いするために拝んだのではない。
家内安全とか、無病息災を願って拝んだわけではない。ご利益を求めて拝んでいたのではないのだ。とにかく、そこに、人を超越した、とてつもなく大きな存在があって、それが、恐れ多いから、拝んだ。
人を超越するものがこの世にある、ということを、私はそこで、あの東本願寺の本堂で教えられたのかもしれない。
宗教というものは、確かにそうだろう。超越したものを信じる心だろう。
そして、お寺というものは、人を超えた存在に会いに行くところなのだ。そうであるべきなのではないだろうか。そこで人の小ささを知り、自分の弱さを知る。にも関わらず超越したその存在は大きくて、人を包み込む。
今や本願寺以外のお寺は拝観料を払って仏を見に行く所である。そこでは、私が感じたように、仏に対して人を超越した脅威を感じるとは思えない。現代の者は、それらの仏が、誰か人の手によって作られたことを知ってしまっている。
あのだだっ広いお堂の空間で、ぽつねんと自己の小ささと、寺という場所の神聖さを私が感じた、あの感じは、他のお寺には、まったくないのだ。
人は、人を超越する存在があることを、知っておくべきなのだろう。
そうでないと人はどこまでも傲慢になり、自分が全能だと思い込む。人間の思い上がりが、現在の悲惨な状況を生み出したのではないだろうか。
そういう意味では、神は死ぬべきではなかった。神が死んでしまったから、人は自分が神になった。そうして、何ものかをうやまったり、かしこまったりする、美徳の心を失ってしまった。
母は、真宗や親鸞聖人の話になると、生かされているのだ、という。人は生かされているのだと。
どういう意味だろう。宗教を信じなさいということではないのだ。
人は敬い、拝む心を持っていた方がいいのだろうということだ。迷妄を信じるということではなく。
あの広いお堂では、お坊さんが出て来て何を言うでもない。
そこでは、自分で考えなければならなかった。
なぜここに来ているのか。なぜ、そこにいると、おのづと厳粛な気持になるのか。
生かされているのだ、とやがて気づくことになる。
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