南座

12/12

00/12/18記

 

今年も恒例の南座の東西合同歌舞伎、顔見世に行って来た。

いつもは母と一緒に行くが、今年は一人。

去年、このHPを立ち上げたばかりの頃、同じように顔見世について書いたのをなつかしく思い出す。

その時、顔見世でまだ玉三郎さんを見た事がない、一度でいいから、京都の南座の、顔見世で玉三郎さんを見たいものだ…と書いた。

1年して、それが実現した。
去年、そう書いた時は思いも寄らなかったのだが、こんなに早くそれが実現してしまった。
是非母と見たかった。

 

さて、私が今回行って来たのは昼。
4つの狂言があり、朝の10時半開演で、夕方4時まで。
何と5時間半の長丁場、1日中観劇をし続けるのが、歌舞伎である。
(夜の部は4時半から9時半くらいまでである)

値段も高いが、その分1日たっぷり見せてくれるという訳だ。

最初が「寿曽我対面」、2番目が「身替り座禅」、3番目が「壇ノ浦兜軍記」より阿古屋、「良弁杉由来」(もはや何と読むのか分からない)という、きらびやかな顔見世にしては地味なというか、あまり知られていない狂言が多いような気がした。

「助六」や「勧進帳」などのここ一番、というのが今回はあまりないようだ。
しかしそこは、芝居の面白さで見せる。

5時間も座っていたら、終いにお尻が痛くなり、眠くなり、集中力も途切れがち。
最後の出し物の時など、時には眠くて仕方がなく、拷問に近い事もある。

しかし、今回の最後の狂言などは、仁左衛門様が出ていることもあり、眠い目も思わず見開く出来だったのが何よりだった。

*

出し物のうち、「身替座禅」というのは、怖い女房のいる主人公が、遊女(愛人?)のもとに行きたいのだが、女房の目が怖くて行けないので、一晩座禅をすると言って女房に嘘をつき、太郎冠者を身替りに座禅をさせて、彼女の所に会いに行く…というお話。

主人公に勘九郎、恐妻に何と左団次が扮するのがびっくり。

左団次はいつもは男役、しかもいかつい。
それが姿や身のこなしは、さすがにちゃんと女形の型にはまっていて、案外見ていて違和感はないのだ。

しかし、いったん喋り出すとどすの効いた低音。
それに場内が大爆笑となる。
歌舞伎でも、こういう吉本のような爆笑コメディーが沢山あるのが愉快だ。

女房が座禅が身替りだと気づいた時、案の定、夫にがんがん怒鳴り散らしつつも、泣き出す所など、いかついけど何だか可愛そうになって来ていじらしい。
そう思わせる所が、台本のうまさ上品さ。

勘九郎はこういう軽妙な芝居が実に巧い。
左団次も、ともすればグロテスクになりがちなこのキャラクターを、実に可愛らしく(?)演じていて、この戯曲は役者の巧さで見せる芝居なのだなと納得する。

*

さて、3番目の「阿古屋」は、女形の芸を見る芝居である。
これに玉三郎が扮する。

平景清の遊女が、その景清の居場所を言えと拷問をされるという設定の芝居なのだが、その拷問の方法が、女に琴、三味線、胡弓を弾かせるというもの。
音楽を奏でると、その心持ちが音に反映するだろうと言う理由かららしい。
そこで女形の俳優が自分の芸を披露するということになる。

正確に言うと本当のソロプレイではなく、デュエットというか、三味線との二重奏であった。

琴を弾く時も、胡弓の時も三味線の伴奏がつくのだ。
それが惜しい。
もっと古い形では本当のソロだったかもしれないのだが。
しかし、もう一つの楽器とのユニゾンも案外むつかしいのかもしれない。
掛け合いをする時に、呼吸を合わせなければならないからだ。

その上、着ている着物がものすごくて、大きな帯が前に垂れ下がっている。
この帯は孔雀の羽根を広げたさまが帯全体に刺繍されたものすごいものであって、こんなものをぶら下げながら楽器を奏するのは、容易ではないだろう。

しかし、何と言っても琴を弾きながら歌い出すのには驚いた。
弾き語りである。

今で言うなら、ピアノを弾きながら歌うようなものだ。
それを琴で弾き語り。
三味線でも歌う。

玉三郎丈はここぞとばかり弾きまくる。
掛け合いも、早弾きも何のその、特にあまり聞いた事のない胡弓という楽器など、いとも簡単に弾いているのがびっくりだ。
胡弓は、三味線をバイオリンの弓で弾くような楽器である。

以前玉三郎はチェロのヨー・ヨーマと共演し、ヨーマの横でしなしなと踊っていたが、それより胡弓で共演したら良かったのではないか、そんな風にさえ思った胡弓演奏であった。

このあと最後の狂言が、仁左衛門と雁治郎の共演の「良弁杉由来」というもの。

これは、ある身分の高い武士の奥さんが、寡婦となり、仏門へ入ろうとして(多分)、幼い子供と共にお参りに行って、ちょっと目を離したすきに、子供が鷲にさらわれてしまう。

鷲に?と、笑えそうな設定だが(実際にはりぼての鷲が登場する)、それが悲劇の始まり、子供をさらわれた女は半狂乱となり、近所の子に「きちがい」とからかわれるまでになる。

(歌舞伎では「きちがい」という言葉が舞台上で平気で発音されるのだ。それを知って、少し感動した。)

それから月日は巡り、第2幕。
場所はさるお寺(二月堂とか)。
しずしずと仁左衛門さまがぼんさんの姿で登場する。
坊さんでも気品のある振舞い、そこはかとなく漂う色気。

この坊さんが、「鷲にさらわれてこの寺に辿りつき、ここで育てられて30年…」などとひとり言を言う。
今は何とか僧正になっている。えらい坊さんのようなのだ。

両親が生きているのかも分からないが、せめて一度でも会いたいものだ…、などと着物の袂で涙を拭う。
エレガントな身のこなし(笑)。
坊さんなのにナイーブな若者だ。

観客はなるほどと納得する。
この坊さんがあの女の息子の現在の姿なのだな。
30年経ったと言っているから、女は1幕で30いくつ…ということだったから、生きているとしたら60過ぎだな…。

登場していきなり自分の身の上をモノローグするというのも、リアルに考えると変だが、そこは歌舞伎という特殊な様式の世界。
それはお芝居の約束事なのだ。

さて、この僧正が、寺の大きな木に貼られた張り紙に気づいて、これは誰がしたためたのかと部下(?)に訪ねると、誰かが、寺の入り口に老女の乞食がいたが、その女なら知っているかもしれないと答える。

その張り紙には、くだんの、鷲にさらわれた子供を捜している…ということが書かれていて、僧正は、自分の境遇とあまりに似ているので、気になったのだ。

そして、寺の境内にその老女の乞食が連れられて来る。
変わり果てた雁治郎である。

ここらあたりから、客席に鼻を啜る音がし始める。

ストーリーは単純なので、何も知らなくても、見ているとどのように展開して行くかがすぐに分かってしまう。
よぼよぼした雁治郎が現れるのも皆周知だから、登場すると場内拍手である。

歌舞伎は、このように約束事で成り立っている。
分かりきったストーリー展開だから、安心して感動できる世界なのだ。

さて、女が呼ばれ、僧正といろいろ話し合い、お約束どおり二人が親子であることが、徐々に分かってくる。

この落ちぶれ果てた乞食の女、それが、自分の子供を捜して30年間放浪を続け、このようなみじめな有り様になっているのだった。

30年間という気の遠くなるような年月を、雁治郎が一瞬で見せる。
歩くのもやっとの老女のみじめさに、その女の気が狂うまでに子を思い続けた切なさ一途さが、痛切に胸に迫って来る。

歌舞伎ではある意味、老女なり、老人役は儲け役かもしれない。
いかに老人ぽく演じるか。
その「型」があるのに、俳優の演技はそういう「型」を感じさせない、或いは忘れさせるリアルさがある。

歌舞伎というのは、今日では特殊な芝居に見え、普段見慣れないしきたりで成り立っているのだが、それでも胸に迫るものは、まったく普通の芝居と同じなのだ。

人間の営みの切なさ、悲しさを思い知らされる。
今年の顔見世、笑わせて、泣かせて。
いい芝居を見た、と思った。


註)
私は歌舞伎を見る時、わざとではないのだが、あまり下調べや事前に勉強はしないし、見に行けば売店で狂言のストーリーや見どころをガイドしてくれるイヤホンガイドなどを貸してくれる。
でも私はそういうガイドを借りたことは一度もなく、「勧進帳」など、有名な作品ならまだストーリーも大体分かるものの、まったく知らないで見に行く事も多い。
むしろ、内容やストーリーをまったく知らないで見ることのほうが多いのだ。

今回の出し物も、「阿古屋」のほかは筋は一切知らないまま見に行った。
「阿古屋」も、うろ覚えの記憶しかない。
少しくらい下調べした方が歌舞伎を見る時、面白いのに、今回はそうする暇もなかった。

なので、それぞれの作品の筋は、実際に狂言を見て理解したもので、把握出来ない部分や、理解できなかった部分もあったかもしれない。
筋がひょっとしたら間違っているかもしれない。
一言、お断りしておく。


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