京都人の属性
シリーズ2

ぶぶ漬け伝説は真実か

02/11/25

京都人に関する噂でもっとも有名なのがぶぶ漬け伝説だろう。

京都人の家に招かれ、ぶぶ漬けを勧められたら、それは、
いつまで居座るつもりなんじゃ、今何時やと思とるんや、はよ帰れボケ、
と言われているのである、と。

いつ頃からこの伝説が一般的になったのかは定かではないが、所謂都市伝説の有名な例だろう。

ぶぶ漬けというのはお茶漬けのことであるというが、京都に何十年と住んでいる私でさえ、そういう名称を聞いたことはなかった。
お茶漬けのことをぶぶ漬けというのだとは知らなかった。
お茶漬けはお茶漬けと言っていた。
正京都人である中京区民はその名称を使っているのかもしれないが、それも定かではない。

そう言うわけで、半京都人(京都に住む人間の多く)はぶぶ漬けの存在さえ知らないのに、その伝説が一人歩きしているのが現状だ。

 

しかし、この伝説が語り継がれるのにも理由なしとは言えない。

ぶぶ漬けというそのものずばりの風習はないかもしれぬが、それに近いことはあるのではないか、と思うからである。

現に、"奥に上がって行って、何か召し上がっていってください"、としつこく言われた人間が、しぶしぶそこで食事をしたら、"この人は本当に食べたよ"と陰で囁かれ、後々までそれを思い出す度に胃が痛んだ、という事例を読んだことがある。

ありそうなことである。

いかにもイケズな京都人がやりそうだという気がする。

***

 

私が感じるのは、京都人というのは、ぶぶ漬け以前に、まず、自分の家に他人を入れたがらないのではないかということである。

これは一戸建ての、例の中京区界隈の古い家のことであって、京都に住んでいるといっても、マンション住まいの若い夫婦などのことではない。

京都では子供や親戚の人間はともかく、他人を家に招き入れることがそもそもないのではないか。
よっぽど親しくなって、それこそ忌憚なく自分の心を打ち明けられる仲になって始めて、ささ、奥へどうぞ、ということになる。

 

近所の奥さん同士で、
せっかくきゃはったんやし、ちょっとあがって(入って)いっておくりゃす。
いや、これからちょうど用事があるさかい、もう帰らなあかんのどす。
と言い合っている。

こういう会話はよくあると推測する。

そうすると、家の奥さんが、
まあそう言わんと、寄っとくりゃす。何にもあらしませんけど。

もう一人が、
いやほんまに、もう時間がありませんので、これで失礼しまっさ
とあくまで遠慮する。

こうしたやりとりが、京都の町家の玄関では、30分くらい続く。

その間、奥さん同士ひたすら寄っとくりゃす、いえもうこれでを繰り返す。

 

これは、京都人にとっては挨拶か儀式のようなもので、要するにお互いに口だけで言い合っているのであり、双方どちらも本気で寄ってくれ、寄って行こうと思っているわけではない。
とにかく、単に挨拶である。
挨拶に30分かかる。

30分後、ようやく気の済んだ奥さん同士はそれぞれ離れて行く。

このように日頃の挨拶に30分かけるくらいの丁寧さが、京都人の日常だと言ってもいい。
丁寧なのかくどいのか判定が困難なところだ。

時々はっきりせい、と怒鳴りたくなる。

私はこういう回りくどさというか、無意味に間延びした時間感覚がどうも苦手で、どうしても好きになれない。
家に入ってもらうつもりがないのなら始めから寄っとくりゃす、などと言うな。

しかし、京都人には、それが出来ないのである。

***

ぶぶ漬けにしても、客にもう帰って欲しい、と言いたいが、まさかそれを直接はっきりと言う訳にはいかない。
しかし直接的に言うのは気がひけるが、それなら間接的にでも言いたい。
客にもう帰って欲しいと思っていること、長居をすることは家の者にとってどれほど迷惑であるか、をどうしても知らせたい。
それでああいうぶぶ漬けという表現になるのだろう。

 

一般に、他の県の人間でも、居座る客に嫌な思いをすることもあるだろう。
「ほうきを立てる」というまじないが日本中に行き渡っているからには、そういう思いをしたことのある人は全国的に多いはずだ。

そんな時、他府県の人はどのような態度を取るのだろうか。
多分、嫌だと思いながらも顔では笑いながら接客をするのだろう。
帰ってくれ、と直接言うのはいくら何でも失礼だからやはり言わないのではないか。

京都人はそういう時、相手に失礼にならないように、傷つけないようにという配慮であのひどく回りくどい表現を生み出したのだと推測する。

***

 

「寄っとくりゃす」は、本気で寄っていって下さいと言っているのではない。

そのまま客を帰すとあまりにも「愛想なし」で、そっけない気がする。
だから、もう一言何かを言わなければ…という配慮から出てしまう言葉なのだ。

言われた客は、
ああ、本当に丁寧なことを言って下さる、と相手の愛想に感心して、気持ちよくいとますることが出来る。
京都の客は、心の中で、そこまで家の主の心持ちを推測しなければならない。

 

「ぶぶ漬け」も、それを言われたら、そうか、もうそんな時間か。
こんなに遅くまでずいぶん失礼をしてしまった。
そう言って、
ほんまに長いこと失礼さんどした
とさっと席を立てばいい。

そうしたら主人は、
いやいやあいそなしなことで、何のお構いも出来ませんで…
と快く(30分後に)送り出してくれるはずだ。

こうした念の入った丁寧さ、くどさは、「あいそなし」を恐れての社交辞令だと推測する。

 

私が小さい時、私の母も来客の帰り際に「えらいおあいそなしで」と言うのが口癖だった。

あんなに長いこといてはって、お茶やらお菓子やら出しといて、さんざん愛想しておいても「あいそなし」なんやろか、そうしたら、愛想ありというのはどういう状態の事なんだろう。
と子供の頃、疑問に思っていた。

***

 

京都人はあいそなしということを極端に恐れる。

京都人は丁寧さを何よりも第一とする。

自分が丁寧であることを相手がじゅうぶん納得するまで、くどいまでに丁寧を繰り返す。
どうあっても、相手に丁寧であることを納得させようとする。
いやと言うほど丁寧を繰り返して、相手に無理にでも自分が丁寧であることを納得させる。
そうして始めて自分はあいそなしではない、と安心する。

私のように何年京都に住んでいてもブッキラボーでそっけない人間は、なんやあの人は。ろくにあいそもせんと。
などと嫌われる。

やがて奥ゆかしい京都人はこうしたくどいまでに儀式化した馬鹿丁寧な挨拶の中に、自己を込めることを発見してゆく。

京都人は、こうした表面上の挨拶だけで、自分が今赤字で財政が逼迫しているとか、風邪気味でのどが痛いとか、宝くじに当たって気分が最高であるとかを何となくほのめかし、相手にそれを読み取ることを要求するのである。

それほどまでに京都人は奥ゆかしく、自己を主張せず、挨拶に30分かけることで自己表現の代わりとしてこと足れリたる、謙譲の民族なのである。

 

私のように30分続く社交辞令のそれが何を意味するのか、逐一、はっきりと、直接言ってもらわないとさっぱり分からないような鈍感な人間には住みにくい場所である。

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