02/11/4 発掘捏造について 君は秩父原人を信じたか
02/11/8 超能力幻想
02/11/21 本屋さんでうろうろ
02/11/21 本屋さんでうろうろ
最近、お人形を買うのをセーブするためトイザラスには出かけないようにしている。
その反動でストレスが起き、本屋巡りをして本を買い漁るということをするようになってしまった。
支出を押えるためのトイザラス詣セーブだというのに、何にもなっていない。
本を買うことが財政を逼迫させ、部屋の空間を逼迫させること、人形と変わらない。
しかしそこで本屋でぶらぶらしていると、さまざまな発見があった。
必要があって子供の本売り場へ行く。
児童の本売り場などへは滅多に行かなかったので、物珍しさに思わず長居してじろじろ見て歩く。
偉人伝という本のコーナーがある。私の子供の頃は、偉人伝というと野口英世*であったり、キュリー夫人であったり、ヘレン・ケラーだったりしたものだが、もちろん今でも彼らは健在であるが、その中に手塚治虫の伝記がごく普通の顔をして収まっていたので驚いた。
その他に杉浦千畝とか、本田宗一郎などというのもある。手塚治虫は、もう偉人に属するのだなと感慨深い。
そのうち、田中耕一もきっと偉人伝に仲間入りするだろう。*野口英世は、最近とんでもなく愚かな研究者であったことを私は知った。
モーツァルトやレオナルド・ダ・ビンチなど、面白そうな偉人伝もある。
子供の時、読んでおけば良かったと後悔しきりである。児童の本売り場ではまた、恐竜が子供に大人気であることも発見した。
シャーロック・ホームズ物、アガサ・クリスティの推理物や吸血鬼などの本もあって、子供に人気のあるのがどんななのかが分かって来る。図鑑なども見たが、子供向きの図鑑がかえって大人用の物よりも便利で詳しかったりするのではないかと思った。
元来、図鑑など大人はなかなか改めて見ようとしないから、大人用の図鑑そのものが少ない。子供向きの方が需要があるのだろう。
しかし子供向きとはいえ質の高いものであって、決して侮れない。
子供がこのような図鑑を見ているのだとしたら、大人よりも子供の方がものごとに詳しいのは当然かもしれない。***
歴史書のコーナーも滅多に行くことがなかったが、行ってみてびっくりした。
普段は、本屋へ行っても同じコーナーにばかり寄っていたから、行かないところは全然行かない。
だから始めて行くとびっくりするのだが、歴史書のコーナーはすごいことになっていた。ハエ全書、拷問全書、奇形全書…など、目を剥くタイトルのものがずらりと並んでいる。
拷問全書とは、拷問の歴史を逐一詳細に記述した書物らしい。
奇形なども同じ。
しかしこんなのは序の口で、もう、とにかくここにはとても書けないようなタイトルのものが平気で並んでいる。
下着の歴史、○○○の歴史、fの歴史…(fというのは、口でするあれのことらしい)など、あと、えーとその、スカトロジー関係もずらりと並んでいるのだ。人間の行ないとはいかに不可思議なものか。
人の歴史を紐解くとは、これほどに人間の不思議さを目の当たりにすることなのか。
そのことを知らされたことだった。***
いつも、最もよくうろつく文庫本のコーナーも様代わりしている。
文庫本といえば、以前は世界の文学を安くで手に入れるためのものだった。
また絶版になって手に入りにくくなった名著を安くで復刻し、お金がないが教養を深めたい人々を助ける、ありがたい存在であった。しかし最近は、それが文庫の定義には当てはまらないようになって来た。
文庫本の棚のどこを見渡しても世界の文学はもう見当たらない。その代わりよく分からない推理作家の本や、よく分からないハウツー本や、実用本や、タレント本や、時間つぶし本などが多くなって来ている。
かつては新書刊で見られたものだ。
それが今、皆文庫に進出して来ている。あとは最近の流行作家の作品ばかりで、しかもどうでもいい作家のものばかりである。
要するに読み捨てで、読んだあとは古本屋に二束三文で売ってしまっても何の後ろ髪も引かれない種類の本ばかりなのである。
私の感覚では、文庫になる本とは、文学ではなくとも名作、名著の類いであるはずなのだった。
今は、何のためらいもなく名著とは言い難いくず本が文庫になる。
しかも大量にあって、どこを見ていいのか分からない。
これでは、文庫の山の中から欲しいものを探すのが一苦労である。文庫は、手が出せなかった高い本を気軽に買える、私にとっては大変便利な、ありがたいアイテムだった。
また、いつか読もうと思っている名著を、いつでも手軽な値段で買える、図書館のような、知識の保険のような存在でもあった。しかしそれは、最近の文庫界には最早通じない通念になってしまった。
また文庫本も値上がりしていてとんでもなく高いものまである。住みにくい時代になったものだ。
02/11/8 超能力幻想
子供の頃、石ノ森章太郎(当時石森章太郎)の漫画を読んだ。
タイトルはもう忘れてしまったが、超能力を扱った漫画である。
サイコキネシス(念動力)、テレポーテーション(瞬間移動)、テレパシー(精神感応)など、おもな超能力用語はその漫画で覚えた。
超能力という概念も、その漫画で培われた。
私はそれらのことを信じたのだったか。いや、超能力者はそんなにすごいことが出来るのか、私も超能力者になりたかった、そう思った。
人の心が読めるテレパシー、それくらいのことならあるかもしれないと思った。
漫画では、そうした能力が強いほど超能力者の中でもステータスの高い人々であり、沢山はおらず、ほんの少数しかいないということになっていた。
彼らは、その能力を普通の人間に言う事は出来ない。
カミングアウトすれば、普通の人間ではないと言っていじめられるからである。
そこで彼らは人知れず自分の能力に悩みながら、密かに人間のために尽くし、彼らを悪事に利用しようとする悪人と戦うのである。やがて超能力者にも派閥が出来、分裂する。
自分たちの能力で人類を支配しようとする派と、たとえ普通の人間に疎まれようと、人々と一緒に暮らし、助け合いながら生きていこうとする派とにである。
彼らは、それぞれの主張を通すため、やむなく戦うことになる―
このストーリーは、果して実際に石森章太郎がその通りに書いたのかどうか、もう覚えていない。
ただこれは、私が覚えている範囲でのストーリー…、私が記憶の中で、脳髄の中で、「かくあるべし」と考えている、私だけのストーリーである。
つまり私の超能力者に対するイメージそのもの、それがこの私の記憶の中にあるストーリーなのだ。石森章太郎の描く超能力者たちは美しかった。
自分たちの能力に悩み、能力を奢らず、人間らしく生きたいと望み、しかしそれが叶えられず、人々に疎まれ、それでも前向きにひたむきに生きていこうとする、けなげな人たちだった。
選ばれてあることの恍惚と不安―、彼らのはかない生、彼らの美しい姿に私は憧れた。
***
それから月日がたち、ユリ・ゲラーが来日した。
こんにち、ユリ・ゲラーと聞いて、その名を知っている人がいるかどうか。
彼が来日したころにはまだ生まれていなかった人も多いのではないか。1970年代半ばに、スプーン曲げの超能力というふれ込みで来日し、大評判をとった超能力者である。
彼のスプーン曲げはたちまち日本で有名になり、スプーン曲げ超能力が流行った。
芸能人も曲げた。少年も曲げた。日本中が超能力ブームで涌いた。私は思った。
違う、と。
スプーン曲げが、人間のどのような役に立つのか?
スプーンを曲げるのが超能力で、それだけの能力が実際にあるのなら、どうして、それを人のために役立てないのか?、人の役に立つことになぜ使わないのか?それだけの能力があるのなら町へ出て行って、なぜ老人の重い荷物を宙に浮かせて老人を助けないのか?
なぜ車を止めて交通事故を未然に防がないのか?スプーンを曲げるなどという、何の役にも立たない、どうでもいいことのために自分の素晴らしい能力を浪費するなんてあまりに非合理だ―
私は、超能力は人の役に立つために使うものだと思っていた。
超能力というもののレゾンデートルはそれ以外にないと思っていた。だから、ユリ・ゲラーの登場は私にとって衝撃的だった。
人前でスプーンを曲げて見せて金を取る。
それが超能力なのか。
それが現実にある超能力の姿なのか。現実の超能力とはこのような、馬鹿馬鹿しい、手品の出来そこないを演じるくらいにしか使い道のない、つまらない能力でしかないのか。
超能力はつまるところ、見世物でしかないのだ。
漫画の中の超能力は、決してこんな下らないことに使われていなかった。
漫画の主人公たちはもっと優れた超能力者だった。
現実にはそんな優れた能力を持つ者はいなくて、せいぜいスプーンを曲げるくらいの能力者しかいないのだ。私は超能力に対する期待をやめた。
ユリ・ゲラーは、私の超能力に対する憧れと夢を根こそぎ打ち砕いた。
彼は自分の大したことのない超能力をひけらかし、自慢しているだけではないか。
彼は私が夢見たあの美しい者たちに対する冒涜だった。たとえ、ユリ・ゲラーが真実の超能力者だったとしても、そんな超能力者は私には必要はない。
スプーンを曲げて客の拍手をもらうのが超能力者だなどと絶対に思いたくない。このようにして、私は超能力を憎むようになった。
footnote
テレパシーについて
テレパシーというのは、精神感応と書いたが、私にとっては人の心を読めること、人(超能力者)同士が言葉ではなくて、心で会話が出来ること、を意味する。
目隠しをして図形を当てるなどというのはテレパシーに値しない。
心と心で会話しなければならないのである。
であるから、それ以外のものを私はテレパシーとは認めなかった。