Doll Maniacs

Opinion

何のためにホームページを見るか
Elementary question

05/2/27

 

前回の発言について補足したいことがある。

前回の項目11の部分で、「人に見せることの出来る水準に達していないものまで日記としてアップしてある」と、サイト日記の未熟な文章に苦言を呈した。

私は、自分で文章を書くのも好きだけれども、読むのはもっと大好きである。
だからかなりの量の他人の文章を読んでいると言ってよいだろう。

そのように多量の文章を読んでいると、どのような文章が読みやすいか、どのような文章がいいと思うか、が、自然に分かって来る。意識せずともさらさらと読み進めることの出来る文章が、心地よいことが分かって来る。
逆にどのような文が悪文であるか、読みにくい文かも分かるようになる。というか、読む時につっかえつっかえし、最後まで読む気がなくなる文章というものが存在することが分かって来る。

よって、私には良い文章と悪文の区別がつくのであり、悪文を読んだ時には苦痛を感じ、自分の「文章を読みたい」という欲求をそがれた時には思わずむかつくのである。

そのような悪文の具体的な例として上げておきたい文がある。要するにさらしである。

それは、「F王」という雑誌の中で連載されているK石原N子という人の文である。
彼女の文章は、F王の創刊時から続いていると思うが、よくあんなものが続いていると思う。私はあの文を本屋で立ち読みする度に腹が立ってむかつく。だからいつも、最後まで読めない。

自己完結、というよりも自己本意文である。自分だけが理解して、自分だけが悦に入っている。読むと馬鹿にされているような気分になる。あれを連載する編集者の意図もよく分からない。
と、激しく弾劾したが、どうでしょう。個人攻撃でしょうか。(と伺いを立てる)

*

さて前回、私の苦手な人形サイトについて勝手なことを書いた。
あくまで私の個人的な意見なので、偏っているのはしょうがないと思ってもらいたい。

人が人のサイトを見るのには、それぞれその人なりの理由があろうし、それがどのような理由であれ、どのように見て、どのようなサイトを好むか、どのようなサイトをよしとするかはその人の自由である。

全然更新のしていないサイトには、その人が学業に忙しいとか、日々の生活に忙しいという理由があるであろう。
はっきり言って、WEBでネットサーフィン(死語?)ばかりを狂ったように続けている人よりは、その管理人の方がはるかに正常である。
日々の生活の方が、はるかに大事なのである。
更新しないサイトの管理人は、日々の生活を大事にする人である。だから私はそういう人を偉いと思う。

ただし、ネットの世界において、思考をネット界のみに限定すれば、その人のサイトは、一向に更新しない退屈なサイト、という評価になる。
これは仕方のないことで、だからといって、ネットの方が日々の生活よりも大事である、ということを主張しているわけでも、主張したいわけでもない。

ネット世界に限れば、更新のないサイトは見に行っても情報のない退屈なサイトだと評価されるのは当然で、実生活が充実している人ほど、ネットでの評価が低くなるのはしょうがない。

くどいと思われるかもしれないけれども、ネットの世界などよりも、日々の生活の方がはるかに重要である。
そのことをふまえた上で、私はネット界における自分だけの不満をだらだらと述べているにすぎないのであり、他人のサイトを非難したり、批判したりしているわけではない。と思う。
信じられないかもしれないが。

*

 

では、私自身はどういうページが理想なのか、ということについて考える。

この前の考察において書いた部分もあるのだが、では、私は何のために人のサイトを見るのか。
結論から言えば、私はただ単に人のページを利用したい、そこで情報を得たい。そのためだけに見る、ということだろう。

自分にとっての有用な情報を収集したいためにサイトを覗く。それが私のサイト訪問の目的だということだろう。それ以外では滅多に行かない。それ以外の目的はほとんどない。
だから、前回のような不満が涌き出て来たのだと思う。
要するに、苦手とか、嫌いというよりも、不満と言った方が良かったのだろう。

 

***

私自身がホームページにて人形の写真を公開するのは、自己満足のためだ。

自分の撮りたいように写真を撮り、載せたいように写真を載せる。
それを他人がどのような思いで見、訪ねて来てくれるのか、私には分からない。
おそらく人形に興味のある人が見てくれるのだろう。それ以上のことは分からない。他人のことは分からない。

しかし私の場合、自己満足のほかに人形の写真を撮る理由は、資料的なものを残しておきたいという重要な欲求のためでもある。

 

いつ、どんなものをどこで買ったのか、幾らくらいで買ったのか、この人形は何年発売か。

そうしたことをメモ代わりに残しておかないと、将来アルツの可能性のある薄い脳味噌だけに記憶させておくことは非常に心もとなく、忘れてしまう可能性が高い。

何を持っているかさえ忘れてしまうので、押入れの中で整理出来ていない以上、サイト上できちんと整理し、保存しておくことは私にとってぜひとも必要な作業なのである。

 

ホームページを開く前は、ノートに人形の名前と、値段、買った日、人形の仕様などを書いていた。
それが随分助かっている。
そうしたことの代わりに、ホームページで資料として残しておくのだ。
(全部ではない。全部載せようとしたら押入れから人形を探し出して来て写真に撮るなど、天文学的手間がかかる)

ホームページには本来なら買った値段も書いておくと良いのだが、それはしていない。

なぜなら、他人が私のページを見、そして人形の値段を見て、同じものをそれより安くで買った、などと掲示板に書き込まれたりしたら私は確実にむかつくだろうからだ。
私は小市民であるのだ。

さらに、人形の値段は同じものでも買う場所によっていろいろ違いがあり、海外から直接個人輸入するものと、デパートで買うものとではかなりな値段差がある、という理由もある。

主に、深く突っ込まれたらいやだ、というせこい理由によって、値段の表示はしていないのだ。
(最近は、問い合わせられたりするのが煩雑なので、差し支えのないものだけ大体の表示をすることもある)

だが、人形のボックス、全身写真、アップの写真などは必ず載せる。こういう人形が、こういう仕様で、こういうボックスに入っていて、何年に売られ、自分が買った、という証拠を分かりやすく残すためだ。

逆に言えばそのためだけに写真を撮るので、人形をまるで生きているように撮るとか、可愛く撮る、などの「撮る」という行為は、私には必要がない。そういう目的のホームページではないからだ。
私にとっては、写真は資料に過ぎないからだ。

だから逆にそのようなページを見ると、羨望とある種の妬みのようなものを感じる事がある。
そしてそれは自分のコンプレックスにもなっている。

 

私はある時期、人のそのようなページが羨ましくて仕方がなかった。
そして、自分のホームページが、一体何のためにあるのか悩んだ。
人形に興味のない人に、私のページが(何のためなのか)分からないと言われたのにも多少ショックだった。

他の人は、自分で作った人形のドレスを売ったり、カスタムした人形を発表したりしている。
私のページはそうしたはっきりとした目的がなく、自分の持っている人形をカメラで撮ってただ載せているだけだ。

人形専門の検索サイトに登録した時に、特にそのことを感じ、自己嫌悪に陥った。

市販されている人形を箱ごと写して、加工もせず、ただ持っていることを表わすだけ。何にも意味がない。
自分のページのレゾン・デートルを失ってしまったのだ。

 

けれどある時期から私は居直った。

人のサイトをいくら羨んでいてもしようがない。

自分には人形のドレスを作って売ることは出来ないし、芸術的に、人形を美しく、凝った角度から撮る、という技術もないのならば、自分のサイトにそのようなことを望んでも仕方がない。

だから私は、自分のページでは、写真家のように人形を撮りたい、という欲望を切り捨てた。

今・現在は、私のしていることは無意味かもしれない。けれどもこれだけの資料が残されているのならば、将来、きっと役に立つ。
自分にとって(事実役に立っている)。そしてもしかしたら他人にとっても。

そう信じて、人形のボックスを撮ることに専念した。
日本でもっとも野暮天な人形のページを作ることに決めたのだ。

 

ポリシーとして、ひとつだけ、なぜということを明確にしようとした。

なぜ、野暮天でも人形サイトを作りたいのか。

それは、私が私の集めた人形を愛している、ということを言いたい、からだった。

自分がいかにその人形が好きかということが、感じ取れるようにしたい。
人形、というよりも、人形が好き、という自分の感情を表わしたい。そういうことだった。

どんなに平凡で、人にはまったく価値のないような人形でも、載せている私の人形が私にとってはどんなに大事でどんなに好きか、それさえ表現出来れば、野暮天でも何でもいい。
そう思い、それだけをよすがとして、せっせとアップし続けて来たのだった。

 

***

 

閑話休題。

人は、どんな時に人の(人形の)ホームページを見たいと思うのだろうか。

それもまた人それぞれに、そのページを覗く理由があるだろう。

私は、資料として見たいのだった。
私が拙いながらも目指しているページと同じように、資料サイトとしてのページを見たいのだった。

 

ジェニーならこの年、どんなものが発売されていたのだっただろうかとか、これは何年の発売だっただろうかとか、いつ、どのようなものが発売されていただろうかとか。
どこにもそうしたことを知る手がかりがない時、ホームページになら掲載されているかもしれない、という期待で他人のサイトを覗く。

それ以外の期待で他人のサイトを(はじめて)覗くことはほとんどないと言っていい。

よく行くサイトは新しく更新した部分のみを見る、ということがある。サイト仲間のページは、何が更新されたかが楽しみというのがある。
しかし、そのようなことを除いて、人のページに行く、というのはどんな時かと考えれば、他の人は知らないが、私の場合は、その人形について知りたいと思うからである。

 

だいぶ前、上に述べたようなことから、ある人形のことについて知りたくなっていろいろ見て歩いた時に驚いたことは、このような私の欲求に答えるようなサイトが殆どなかった、ということだった。

一番驚いたのは、殆どのサイトが、その人形の限定品などの、市販されていない、到底一般的には入手することが出来ないような、珍しい、レア物ばかりを掲載していたことだ。

どこそこ限定とか、何百体限定とかの、入手困難なことをことさら強調するようなキャプションがついているものもある。

私が見たいのは、そんなどこにも売っていない人形ではなく、ごく一般的な、デパートやトイザラスで売っているような人形の、ヒストリー的な変遷であり、その人形のデータである。カタログである。
そういう、「ごく普通」の人形が、殆どのサイトのどこにも掲載されていない。

これはどうしたことなのか、と私は思ったのである。

 

つまり殆どのサイトが限定品自慢、なのではないか。

一般的に売られている人形はサイトに載せる価値などない、という通念が人形サイトにあるのだろうか。
そんなものは店に行けば幾らでも見られるのだから、ホームページでは、下々の者が滅多に見られない珍しい人形をありがたくも見せてやる、ということなのだろうか。

 

人がホームページを開く理由はその人の好き好きなのだから、どのようなページがあってもいい。自慢したければ自慢するのもまたいい。人がそれを見てどう思うかは、知らないが。

しかしそれでもよい、自分のホームページなのだから、自分の好きなように運営すればいいのだし、自慢したければ存分に自慢をするのも悪くない。

しかし、ひとつくらい私の要求するような、データ的な、資料的価値のあるサイトがあっても良かろう。
そう思ったが、そうしたサイトは本当に少ないのだ。滅多にない。皆無と言ってよい。

ひとつには、個人で人形を収集するにはあまりにも数が多すぎ、いちいちフォローしていられない、という事があるだろう。

しかしそれでも、収拾している人はいる筈だ、と私は睨んでいる。そのような人は労を惜しまず、ぜひともデータをネットに公開して欲しいものだ。
自分自身を棚に上げて言うが。

結局一番有用で、ありがたいのはデータベース型、カタログ型サイトなのだ。

 

***

 

ひとつだけ、優秀サイトがあるにはあった。

そこは、人形の発売年、パッケージの表裏、人形の全身、アップ、小物を全部取り出して紹介、人形を着せ替えた写真など、至れり尽せりの内容であり、紹介されている人形は限定ものと普通の市販ものさまざまだが、えこひいきなしのどれも同じ扱いだった。

ただやはり個人の収集品だから数が少ないのだ。

 

私のページも、自慢ではない。自慢するようなものはないからである。

基本的に限定品などはあまりない。
古いものは多少あるが、どちらかというと、市販されているものの中で、いいもの(気に入ったもの)が欲しいという傾向があるからだ。

しかしそれでももしかしたら人が見たら自慢ととられるかもしれない。そういう危惧は常にある。
だから私は、以前は記述をかなりふざけて書くことにしていた。自慢してるんじゃないよということを密かにアピールするためである。
それでも、持っているということを表明するだけで、本人はそうは思っていなくても、自慢となることがあるのだ。

なぜ自慢がいやかと言うと、人形を買う理由は、それが好きだからである。

それが珍しいもので、もしかしたら値段が高騰するかもしれない。だから投資のために買う、などというのではない。
欲しいから買ったのだ。

それが市販品であれ、限定品であれ、欲しければ買う。気に入らなければ限定品であっても買わない。

限定品なら何でも買う(限定品しか買わない)、という態度は人形者として卑しい、という考えを持っている。
だから限定品ばかりをこれ見よがしに見せているサイトを卑しいと思ってしまう。

こういうことを言うのはまたまたタブーかもしれない。そのようなサイトは少なくとも限定品で商売をしているわけではないのだから。

また、限定品ばかりを追いかける気持ちもよく分かるのだ。
日本の、J系の人形などは、限定品となるとヘアスタイルやフェイスプリントが通常販売のものより、明らかに凝った、作りのよいものが多くなるからだ。
自分の好みの、理想の人形を求めるとなると、いきおい限定ものしかなくなってしまう。

 

ただしかし、自慢サイトとか、人形に自分の作った服を着せたり、人形をきれいに撮ったりしているサイトというのは、前にも言ったが、結局何の役にも立たないのだ。もちろん、私にとってはだ。

私のように、カタログ・データベース的なホームページを要求している者にとって、その人形がもともとどんな服を着ていたか、どんなパッケージに入っていたか、何年に発売されたか、を知りたいと思っている者にとっては、当然のことにまったく無価値だ。

ジェニーならば、「コンプリートジェニーファイル」のような本があり、2000年までのジェニーならほぼどんなであったかが分かる。
しかしそれでもパッケージまでは載せていない。

他の人形となると、もうさっぱりだ。

人形コレクターがこんなに沢山いて、こんなに人形サイトがあるのに、ひとつくらいデータベースサイトがあってもいいだろうに。そういう不満が私の中にマグマのように溜まっている。
でも、いくら探してもない。探すのも面倒になった。

自分ですら叶わないことなのに、他人頼みにするのもいかがなものかという話だが、自分がやろうとしてやり尽くせないからこそ、また、切にそう願う私であった。

 

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