京の番茶

04/9/23

別項で、麻生圭子というもの書きが番茶を知らないということに対して、さんざん馬鹿にしたのであるが、だんだん自信がなくなって来た。

つまり、京都以外の他府県では、実際に番茶という飲物が認識されていないのではないかというオソレである。
生まれてからずっと京都で育ったので他府県のことが分からない。京都で暮らすうち、それが常識だと思っていても他府県では認知されていない、ということがあるかもしれない。
そのオソレを感じたので、ここで番茶についてを逐一説明しようという気になった。

番茶といえば漱石がサヴェジ・チーと英訳したことでも知られている(「猫」)ので、日本全国的に認知されていると思っていたのだが。

 

それはともかく、私は番茶が好きである。無類に好きである。

とにかく、飲物の中で最も好きだと断言しても良い。

よく、酒が好きだと言い、酒は万物の長などと言って酒飲みを弁護すると同時に悦に入っている人がいると思うが、私にとってはその酒という言葉を番茶に替えてくれ、というほど番茶が好きである。
酒などよりよほどおいしいし、私の心の慰みとなり、支えとなってくれる飲料であるのだ。

好きなだけではない。よく飲む。やたらに飲む。
ちょっと考えられないほど、飲む。人は、私の番茶の飲む量を信じられないであろう。

食事をする前に飲む。食事をしたあとに飲む。
飲むのは、およそその時だけなのであるが、量が異常である。

よく料理屋さんへ行って、食事をしたらお茶を出してくれるが、あんなものでは到底満足が出来ない。
必ずお茶のお代わりを要求するが、料理屋さん(の給仕)によってはそれをよしとせず、なかなかお代わりを持って来ないことがある。
そんな時は絶望し、いらいらして、机をひっくり返したくなる。

料理屋さんではお茶のお代わりは一度だけで我慢しなくてはならない。それが、外で食べる時の何よりの苦痛である。
本来ならば、5回くらいお代わりを要求したい所だ。

 

家で飲む時の私の湯呑み茶碗は特大である。お寿司屋さんで出されるような、あれくらいの大きさの湯呑みを必ず備えてある。
一つが割れれば、それと同じ大きさのものを補充する。
いつからこの大きさになったのか。それについての記憶がないが、おそらく、母が私のお茶の吸飲量を考えて用意したのだろう。

この特大湯呑みで、食事の前に5杯くらい飲む。
食事が終わったあとは、ポットあるいはジャーの半分くらいを飲む。小さいポットなら、一人で全部飲む。何リットルであろうか。数えたことはない。

なぜ私はこんなにもガバガバとお茶を飲むようになったのだろう。

それは、私の家に常備してあったお茶が番茶であったからだ。

 

私の場合、お茶といえば即、番茶のことである。

京都の人間だからといって宇治茶を飲むわけではない。緑茶などは飲まない。何といっても番茶。
玉露とか煎茶など論外である。そんなお上品なお茶はたしなまない。

番茶はがぶ飲みが出来るお茶である。

とにかく朝起きたら三リットルのやかんにお茶っぱをがばと入れ(最近はティーパック)、沸かす。
沸かしたら葉っぱを捨て、お茶をポットなどに入れ替え、茶の間(「中の間」と称す)に置いておき、好きな時にすぐ飲む。

朝沸かしておいたら、いつでもすぐに飲める。どれだけでも好きな量を飲める。
量を気にせず飲める。
この簡便さによって番茶を愛飲するようになった。

けれども何といっても番茶が好きなのは、味がおいしいからだ。

何というおいしさであろうか。

かつて人類が発明した飲料の中で、これほどおいしい飲物があったであろうか。
しかしこれは個人差があるであろうから、私の意見は差し控えさせていただく。

ただ私は番茶を好きなあまり、きき番茶が出来るくらいに番茶を飲み倒しているのだ、と言うに留めておこう。

 

番茶の他にほうじ茶という、番茶に酷似したお茶もあるのであるが、私にはその差異はよく分からない。自分の感覚で言えば、番茶の方がよりディープ、よりハイという感じだ。

番茶の色は麦茶によく似ている。紅茶にも似ている。両者の中間くらいの色であろうか。味も両者の中間かもしれない。

番茶の葉は黒い。この黒が番茶に得も言われぬグルーヴ感を与えている。
くきや、枝が混じるので、ほんとうに上等のお茶の残りかすを飲んでいるという気になる。ガラを煮出しているという実感がある。くきの代わりにくぎが入っているのではないかとさえ思う。
そのような自虐的な快感が、番茶を飲む時にある。

最近は最初にも言ったとおり、ティーパックが主流である。
番茶を粉にしてある。これはもう、いっけん、砂鉄かすすを煮出しているような感じがする。しかし、パックに入っているから、中身は見えないので安全である。

 

私は学生の頃、若気の至りでコーヒーをよく飲んだ。

コーヒーを飲むことにまったく非武装で、ただ喫茶店に入ると人が飲んでいる、という理由からだけで無反省に飲んだ。
そのようにして何年もコーヒーを飲み続け、飲んでいるうちに、ある重大なことに、とうとう気がついた。
それは、私はコーヒーが嫌いだという事実であった。

コーヒーは、濃すぎる。
どのような種類のコーヒー豆であっても、私にはどぎつすぎる。
コーヒーは、がぶ飲みが出来ない。
どんなに飲んでもせいぜいコーヒーカップに一杯が関の山である。それ以上飲むと、頭が痛くなる。

このことに気づくまで、実に何年もかかった。
他人が平気で飲んでいるから、自分がまさかコーヒーが嫌いだとは思いもしなかったのだ。

 

大変重大なことに気がついてから、私はコーヒーを断った。別に苦痛ではなかった。
もともと好きではなかったのである。
コーヒーとおさらば出来て、せいせいした。

私は喫茶店=コーヒー、という世間の幻影にすっかり惑わされ、自己を見失っていたのである。

私の欲求を満たす飲料、それは番茶でしかあり得なかった。好きな時に好きなだけ飲めるディープな味の簡単茶。

そのことに気づいた時、私は番茶をマイドリンクと定めたのだ。

さあ、番茶の魅力に気づいたら、あなたも今から番茶ドリンカーだ。

 

…ただ夏の間は、私は麦茶を好む。

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