詰所
tsumesho
06/10/26
詰所とは何か。
子供の頃、詰所は近所に一杯あった。
丸物(現・近鉄)へ買い物に行く時、通る道筋にいくつも詰所があり、その存在に疑問をはさむこともしなかったし、普通に町に存在するものとして認識していた。
だが、詰所という言葉が謎だった。
なぜ「つめしょ」なのか。
それは、旅館でもなく民宿でもない。ましてやユースホステルでもない。つめしょ。
子供の頃はつめを切る場所なのか?と馬鹿なことを考えたり、詰め将棋をする場所なのか?と推測したり、子供の頭ではそれが精一杯の推理だった。
また詰めるからには、誰かが何かのために来て、詰めているのだろう、と漠然と思ったりした。
旅館とは呼ばず詰所と呼ぶところに神秘的なものを感じていた。
よく考えれば重箱読みというか、訓読みと音読みの組み合わせである。
つめどころ、では駄目なのか。つめしょなのか。
子供心にそれは、謎の言葉であった。
母に聞けば、食事は出してもらえるのだという。
それならば、旅館ではないのか。
いや、旅館みたいなものだがちょっと違う。出身地によって、入る詰所が決まっているのだという。
かなり前の京都新聞に、この詰所が減って来ている、という記事が出ていた。
東本願寺におまいりに来る門徒さんの(交通事情などの)変化によって、詰め所はその役割を終えようとしている、というのだ。
私の町内にも詰め所があったが、確かに最近、客が少なくなって廃業してしまった。
現在ある他の詰所も、ゲストインとか、ゲストハウスとか、普通に旅館などと名乗り始めている。
まあ、確かにかなり激減していることは確かだが、それでも、名を変えたり、形態を変えつつ、今も営業している詰所はある。
それは、明治時代にさかのぼる。
いや、江戸時代、禁門の変(1864年)によって東本願寺が焼けてしまったことに始まる。
焼けた東本願寺を、明治時代に再建することになった。
全国から門徒がお東にやって来て、再建を手伝った。
現在、修復作業が行なわれているが、それは専門の工務店が最新技術で効率よく行なっているのだろう。
けれども、明治時代の再建時にはそれはすべて手仕事で、門徒の有志が行なった。
何しろ非常に大きいお堂なので人出がいる。
専門の大工ではなく(もちろん、指導する大工さんも沢山携わったと思うが)、しろうとの単なるお東の門徒が全国から京都にやって来て、東本願寺の再建工事を手伝った。
彼らは一定期間お東の門前に留まり、ふるさとから交代でやって来て、そして工事を手伝い、次の者と交代して帰って行った。
その時、ある程度の期間、そこに泊る宿が必要になった。
かなりの期間、居続けなくてはならないから、宿賃は安くなければならない。普通の旅館には泊れない。
そこで、お東の門前で、空いている土地(?)を安い家賃で借りて宿とし、そこに自分たちでお米を持って来て、自炊しながら再建工事に携わった(大意)。
そこが、詰所だった。
確かに、まさに誰かが何かのために詰めている場所、であったのだ。
工事の時、各地域の人がばらばらに手伝っていたのではまとまりが取れない。
だから、地方ごとにまとまって工事現場で働いたのだろう。そこで、同じ出身地の人が、同じ宿、同じ詰所に泊って過ごすことになったのだろう。
それで、詰所はその地方限定の宿、ということになったのだった。
現在も、富山詰所、というように、詰所にはその地方の名前がついている。
もともとは、その地方の人だけが泊まれる宿だった。
そんなわけで、東本願寺の門前だけに詰所が出来た。
西本願寺の門前には詰所はないらしい。お西は焼けなかったし、再建することもなかったから。
だから、詰所は、京都でも東本願寺の門前にだけある宿泊施設である。
京都の、そのほかのどこにもないのだ(らしい)。
東本願寺の再建が成り、お堂が完成したあとも、詰め所はなくならなかった。
地方の人ごとに、安い宿賃で泊まれるので、お堂が完成した後は、地方からお東におまいりに来る時に使用された。
報恩講などの催しがある時に、全国から門徒が京都にやって来る。
東本願寺は大谷派の本山だから、それ以外の時期にもおまいりに来る人は沢山いる。そう行った時に使われたのだ。
明治時代、今ほど交通機関は発達していなかった。
私の子供時代でもまだ蒸気機関車で、北陸まで5、6時間もかけて行かなければならなかったくらいだ。
汽車に乗るだけで半日かかっていた。遠い地方から京都へ日帰りというわけに行かない。だからどうしても、そこで泊る宿舎が必要だった。
そんなわけで、お東の再建が済んで、完成した後も、安い宿賃で泊れる便利な詰所がなくならなかったのだ。
現在、詰所が減っているのは交通が発達したからである。
私の田舎の人も今や車で来る。
車なら北陸からでも日帰りで来れる。だから、泊る必要がなくなった。
バスで、団体で来る奉仕団の人たちもいる。
けれどもそういう人たちは観光も兼ねて来るので、バスで移動し、立派なホテルに泊る。
安宿などに泊る必要がなくなったわけだ。
私が子供の頃には、報恩講には烏丸通りにテントがずらりと並び、いろんな物を売っていたが、それも今はもうあまりない。
報恩講に来ても、団体行動で、ついでに観光してホテルに泊るから、お東の門前のテント店には顔を出さなくなったのだ。
同時に詰所も必要がなくなって来た。
現在、だから詰所は地方限定を解除し、どの地方から来た人も泊まれる、普通の旅館になりつつあるようだ。
詰所と書いてはいるが、内実はもう普通の旅館なのだろう。
そうしなければ、やっていけまい。値段が無茶苦茶安いのだから。
私は、せっかく安価なのだから、貧乏旅行をする人に利用してもらえばいいのにと思うのだが、もうとっくにそうなっているのかもしれない。
京都新聞の記事では詰所が激減していることをとても嘆いていたが、私は、本来なら、明治時代に、再建が完成した時にとっくに役割を終えたはずで、そこでなくなってしまってもおかしくなかった詰所が現在まで続いていて、機能していたことの方が驚きだと思う。
何しろ、本願寺再建のための、臨時の施設であっただけだし、再建完成とともに、なくなったとしても当然だったのだから。
東本願寺が、禁門の変で焼けてしまったからこそ生み出された施設。
それが平成の現代にもまだ、堂々と看板を掲げているとは。
時には地蔵盆の場所になったりして、地域住民にもとけ込んでいる。
こうした、近代歴史の名残をも、形を変えているとはいえ、京都は、残し、留めてしまう街だということだろう。
ちなみに、詰所には北陸系のものが多い。
親鸞聖人は、佐渡に流された時、北陸に浄土真宗を伝えた。
その名残で、富山や新潟など、北陸には真宗の家がとても多いという。
新潟に地震があった時、その年の本願寺は寄付が少なくてとても困ったそうだ。新潟からおまいりに来る人が減ったからだ。
北陸から来る人がいかに多かったかということだろう。
だから、詰所は北陸の門徒さんを昔からずっと泊め続けて来た。
詰所から出て来た人たちが、北陸の言葉を使っていることが多いのは、そういうわけだった。