京都タワー物語
完全版
ブログに書いたものの完全版です。
パート1はブログの文そのままを写したもので、
パート2が書き下ろしです。
パート1
最近京都タワーがお化粧直しをして改装され、きれいになった(らしい)。
京都市民以外の全日本国民は、京都に京都タワーなるものがあるということを知らない人の方が多いのではないだろうか。
しかしそれはあるのである。京都の玄関、京都駅前に、破廉恥なことに全長131メートルのそれが聳え立っている。
京都タワーが改装中の時には、タワーがシャワーキャップを被っているとか、パンツを穿いているとか、腹巻をしているなどいろいろな噂が飛びかった。
存外早く改装され、現在はすっかり完成したようだ。今ではパンツも帽子も被っていない。
京都市民はこの京都タワーに、ある種独特の感情を持っている。
曰く、京都人を殺すには刃物はいらない。その耳元に小さく「京都タワー」と囁くだけで良い。
そうするとたちまち京都人は塩をかけられたナメクジの如く、茹でられた青菜の如くふにゃふにゃとなり、いつもはエラそうに張っている胸はたちまちしぼみ、尊大で傲慢な態度はどこかへ行き急に卑屈になり、しまいには憤怒のあまり悶死してしまう。
京都人にとって、そのように、京都タワーは恥と屈辱の建築物である。
京都タワーは京都人のアキレス腱、京都人の恥骨、京都人の肛門(ウソ)と言われ続けた。
それほどに京都タワーは、美意識を尊ぶ京都人にとって、屈辱の産物であるのだ。
京都の四季は美しく、寺社仏閣のそれはことに美しい。京都人が住む家の近くには必ずと言っていいほどなんらかの寺社があり、それゆえに彼らは当たり前に寺の美に接して来た。
京都人はそれを見ながら育って来た。
このように、幼少時より美意識を磨かれて来た京都人にとって、あの珍妙な建物は許すことの出来ない愚物であり、突然変異的に京都に出現した、招かれざる存在なのである。
それゆえに、京都人はモーパッサンの有名な言葉を心から共感している。
つまり、モーパッサンは出来たばかりのエッフェル塔をとてもきらっていた。
だから彼は毎日のようにエッフェル塔に昇った。
なぜなら、エッフェル塔の上は、パリで唯一エッフェル塔を見なくてすむ場所だったから。
だからと言って、京都人の誰もが毎日京都タワーに昇っているわけではないだろうけれども。
京都人は、このようにあの京都タワーを芯から毛嫌いしているのだが、他府県人はそうでもないらしい。
私の姪の一人は、タワーが改装のためほおかむりしているのを見て、なくなるのではないかと早とちりし、あれを見たら京都に来た、という感じがするのになんでー?と青くなっていた。
これほどまでに姪に京都タワーが愛されていたとは思わなかった。
おそらく田舎の純朴な娘には、あれが好もしいものとして目に映るのであろう。
京都人の根性がねじくれているだけかもしれない。
であるから、京都人は京都タワーをボロカスに言うが、いっぽうで他府県人が京都タワーをボロカスに言おうものなら、末代までその者を許すことはないであろう。
パート2
このようにすべての京都人から間違いなく毛嫌いされている京都タワーであるが、彼(彼女?)もただ嫌われていることに黙して甘んじているわけではなかった。
京都タワーはタワーで、実はいろいろ対策を講じていたことが、やがて明らかとなった。
彼女(?)としても、意味もなく身内の京都人にこのように嫌われていることに、つらい思いをしていたらしい。
おのれが京都人の機嫌を損ね、怒らせてしまった挙句に冷たい仕打ちに合っているのだということは、理解していた。
だから、京都タワーとしては、なんとか京都人のイカリをほぐし、下手に出て京都人の機嫌を取ることが最上であると考えた。
そうして熟慮の末に打った手は、笑いに走る、という手段であった。
今のままでも笑われているのだ。京都人の笑いものにされているのだ。
いっそ、みずから笑われるキャラになればどうだろう。
みずから、積極的に笑われキャラとして生まれ代わる。そうすれば、京都人のイカリもおさまり、愛してもらえるのではないか。
そのように健気な考えのもとで生まれたのがゆるキャラ「たわわちゃん」であった。
ゆるキャラの見本のようなこのキャラクターで特筆すべきなのは、性別が女子であるということだった。
これにはわりと意表を突かれた。
笑いを取るキャラクターに女性を持って来るのは、かなり冒険である。それだけ京都タワー側も必死なのだという切迫感があった。
このたわわちゃんは成功し、タワー限定発売品として商品化され、さらにどこかの女子大で京都タワー体操などが考案されたことにより、かなり小規模な、ぬるい京都タワーブームが起きたり起きなかったりしたのであった。
調子に乗った京都タワーは、勢いに乗って今年度、設立されてから初めての改装をするに至った。
このことにより、京都タワーの存在感が、京都人の中にかすかにではあるが認識され始めた。
かすかで良いのだ。
かすかな、ほんの少しの気持ちの変化だけで良い。そこから全ては始まるのだ。
京都人の心の中に生まれた、お?京都タワーもわりと頑張ってるじゃん?、という、その少しの認め感、この心の変化が大事なのだ。
いじわるでイケズな京都人にほんの少しでもそう思われたらそれは勝ちということだ。
頑張れ京都タワー。戦いはここからだ。
これから始まるのだ。
京都人の偏見との長い戦いが、今、始まるのだ。
追加
京都タワーを写真に撮るのは例えようもなく恥ずかしい行為で、京都駅、五条大橋の牛若丸・弁慶像と合わせて、被写体として京都三大恥辱体と言われている(彦九郎像と合わせて四大とも)。上野の西郷さんを撮るに等しい行為だ。今回は、大変な勇気でもってタワーの写真を撮った。