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京都人のイケズ

2017/6/30 17/7up

 

 

京都人のいわゆるイケズに、私は一度だけ遭遇したことがある。



普段、暮らしている分にはそのようなものはあまり意識しなくて、遭遇することもない。

近所(町内)の人は親切で、むしろ世話焼きで、しかし各家々の情報は詳しく知っているらしく、
その家庭の心配をしてくれたり、どうなっているかなどを聞いてきたりする。


ただ、近所のご婦人に、きれいやわー、今日はお化粧しゃはってきれいー、などと言われたら、
それは厚化粧のしすぎや、と言われていることだくらいは認識しておかなくてはならない。



京都の人は必ず建前と本音があるのだ。

 


私はそういうのが苦手で、いつも本音しか言えない人間だった。

とても無口だったが、ほんのひとこと言うことが結構きつい本音で、
この子は突然こわいことを言うと言って引かれたり、あの人はこわい、と噂されたりした。

京都で思っていることをずばりと言うと、こわい人だと認識されるのだ。


それにずいぶん悩まされて、対人関係がうまく取れない人間だったな。

京都の閉塞的な空気は感じていて、空気が淀んでいると思っていたものだった。

 



平安神宮で、春(初夏かな)と秋に神苑が無料開放される日が、一年に2回ある。

何年も前、その神苑で睡蓮の花が咲くころの無料開放の日に写真を撮りたいと思って行った。


無料の日だけに、大勢の人が詰めかけ、庭をぞろぞろと列を作って歩いていた。

 



池があって、そこに臥龍橋という飛び石があり、橋のようにわたって向こう岸に行く、飛び石の橋だった。

そこでは池にきれいに睡蓮が咲いていて、その写真を私は飛び石に乗りながら夢中で写真を撮っていた。



すると、後ろの着物を着た上品なご婦人が、「ゆっくりでいいですよ」とにこやかに私に話しかけた。

私はあっ、はい、と咄嗟に返事をして、慌ててカメラを撮るのをやめ、
後ろの人たちの列が滞っているかもしれないと思い、飛び石を進み始めた。


その時は何とも感じなかった。



2、3日してから、それが初めてイケズだったことに気が付いた。

数日経ってからでないと分からない。

そんなイケズだった。

 

 

ご婦人がゆっくりしていいですよ~、と言ったのは、

本来は、


お前のせいで後ろの人間がなかなか進めないで列が止まってるのや、迷惑なんだぜ、

はよ動きやがれこの野郎、アホかお前は。

とこういう意味だったのだ。




ゆっくりしていいよ、

と言うことは、実はその人のすることはゆっくりしていて、ほかの人に支障をきたしているよという、
注意喚起だったのだ。




私はその声かけで初めて、自分がどうも止まって列を乱しているようだ、
早くしないと迷惑がかかるかもしれない、と何となく気づき、

ゆっくり写真を撮っていいよと言っているご婦人がそれでもゆっくりしてもいいと言ってくれるなんて、
なんて優しい人なんだと思いながら、

自分はすることを早く済ませてしまわないといけなかったと気がついたのだった。


声かけをしてもらわなかったら、自分の行為に気がつかなかっただろう。

自分も慌てながら素早く写真を撮っているつもりだったが、
それでもきれいなので何枚も写真を撮りたい、という気持ちになっていた。




本来、普通の人なら、そういう人に対して後ろについた人は、

迷惑だな、なかなか列が進まないなー、
早く動いてくれないかなー、

と、心の中で思って我慢しているだけかもしれない。

ほんの少しの時間のことだし、少しだけ我慢すればすぐに列も動くだろうからと。

 

しかし京都人はそれを口に出す。

妥協しないで口に出す。


しかも

迷惑してるんだぜ、何を考えてるんだ馬鹿野郎、というような本音は決して言わず、
何でもない言い方をする。



例えばゆっくりしてではなくて、睡蓮がきれいですね、というような言い方も京都人ならしたかもしれない。

ありふれた言葉で他人に声かけする。





けっして本音は言わず、ただ相手とコンタクトしようとする。

コンタクトして、その相手に自ら自分の行為を気づかせる。



それが京都人の人とのコミュニケーションの取り方であり、それがいわゆるイケズという手法になっている。



本来なら、面倒な他人とのコミュニケーションは避けたいところだろう。

あまり知らない他人と積極的に話そうという気持ちにはならないだろう。


だけれども、京都人はイケズという手法で、他人と積極的にコンタクトを図るのだ。


とても洗練されたコミュニケーションの仕方なのだと今ころ気がつく。

***




他府県の人たちからも、京都の中にいる人間にも、どうしても「イケズ」はネガティブなイメージがついている。

だけれども、本当は赤の他人とコンタクトする時、とても洗練された方法なのだと思うようになった。



相手を決して傷つけずに、それとなく会話を交わして、本来の自分の意図を遠回しに気づかせる。


相手のイケズの意図に気がつかないまでも、声かけをされたら、そのおかげで、私のように、
自分で自分のしていたことにはっと気がつく。

自分の行為がどうとらえられているかを教えてもらえる。


それは非常に高度な他人への対し方なのだった。

 

***



赤の他人と、観光地で遭遇した時にはあまりそういう観光客と喋ろうとは思わない。



だけど、京都人はイケズという方法で、他人とコミュニケーションを図るやり方を知っているのだ。

とても積極的なコミュニケーションの取り方なのだ。

そして相手を傷つけないソフトな物言い。



そういうやり方で世話を焼こうとする。

京都人は、他人に対してなんのかんのと世話を焼きたがるのだと思う。

それがイケズという形になって現れる。




大阪の世話焼きのおばちゃんの手法とはまた違う、世話焼きのやり方。

イケズは長い歴史の中で生み出された、すぐれた手腕なのではないかと、今ではそんなことすら思うようになった。



私はまだ修行が足らず、他人とそのような洗練されたコミュニケーションは取れそうもないが。

 

 

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