東山
08/9/20
私は京都の東西で言うと、東寄りの方に住んでいる。だから東山が近い。
今の京都市は、平安京が作られた時よりもだいぶ東に寄っているから、京都市のどこに立っても東山の方が近くに見え、西の山は遠くかすんでいる。
京都の人間に親しいのはおそらく東山であって、西の山は特に西山と呼んだりしない。だいぶぞんざいに扱われている。
*と思っていたら、西に住んでいる人は西山と呼び、親しんでいるようだ。
でも、月はおぼろに東山と歌に歌われ、清少納言は東山を望んで春はあけぼのと書いた。
東山から日が昇り、都が明るく明けてゆくさまや、月が東山の上で輝くさまを見ることは、今も昔も京に住む人の楽しみだった。
東山は、古来より都人に親しまれ、愛されて来たと言って良いだろう。
東山と言っても、二つの意味があり、ひとつは東山区のことを言い、今一つが山としての東山だ。
しかし東山というひとつの山があるわけではない。
私の家は東西の通りに面している。
家から外へ出て、右側を向くと、東山が見える。通りの向こうに、山が見える。
いつも東へ歩いてゆく時は、その東山を見ながら歩く。
それを東山と呼んではいるが、見えている山の固有の名前ではない。
東山という名の山があるわけではないのだ。
京都の東側に連なっている山を総称して東山と呼んでいる。
比叡山などが、その東山に属している。お盆に大文字が灯る大文字山(如意ヶ岳)、秀吉の墓があるという阿弥陀ヶ峰も東山のひとつだ。
東山三十六峰という呼び方があるが、嘘だと思っていた。そんな沢山あるわけがない。
しかも、東山三十六峰などと呼ぶにはあまりにもお粗末な高さだ。
吉田山というような、丘としか思えないような山さえ、きっと東山の中に数えられているのだろう。
そう思っていたら、本当に三十六峰あり、いちいち何山と、名前を挙げている記事をどこかで見た時にはびっくりした。
京都は盆地として、三方を山に取り囲まれていた。
平安のむかしにはこの低い山々は、災厄の入り込むのを防ぎ、都を守り、じゅうぶんにその高さを誇り、役目を果していたのだろう。
私の家から見える東山が正式には何という山なのか、知らない。
子供の時から東山だ。それで差し支えないから、そう呼んでおく。
京都の町は碁盤の目であるから、東西の通りを東向きに歩いておれば、必ず東山が通りの突き当たり*に見える。どこを歩いても東山が見える。
*京都では、どんつきと言う。
東山は、その日によって、姿が違う。
天気の日と、雨の日では全然違う。
お天気の日だと、山がとても近い。どういうわけか、お天気だと東山がすぐ近くに見える。
青空が広がり、真っ白い雲が浮かんでいるような時、その下にある東山は、すぐそこにあるかと思うほど、近い。
東山に植わっている木の、全部が数えられるかと思うほど、木々が鮮やかに目に飛び込んでくる。
木が近くに感じられる。いろんな色に色づいているのも分かる。
木によって色が違う。
お天気のいい日に東山を見ると、つい「ディアハンター」の一節を思い出す。
「木がね。違うんだ。一本一本、みな違って見える」…
あれは、本当のことだ。
東山に雲がかかっていないと、山が黄緑色に見える。ほとんど黄色いと言ってもいい。
日の光に反射して、眩しいくらいだ。
そこに雲がかかると、一転して深い緑色に変わる。影が出来て、そのせいで色が変わるのだ。
急激に色が変化していくさまは、ちょっとしたみものだ。
雨の日や、曇りの日は逆に東山が遠い。
ぼんやりと霞んで見える。はるか彼方に山が遠ざかってしまう。
深い緑色だが、白いもやのせいで山全体がのっぺりと一色に塗りこめられてしまい、個性なく遠くに佇むばかりだ。
外出する時、東山を見る。
その時の東山の見え具合でその日の天気を判断する。
傘を持って行くべきか、身軽ななりで出て行ってもいいか、大体のことは東山を見ることで判断が出来る。
…このようなことを、2004年8月に書いて、そのまま放置していた。
あれから4年も経った。
現在、2008年、東山の景観は変わった。
いつものように、これまでのように、家の外へ出て右へ向くと、東山の、何という名前か分からない山が見える。山の木が見える。
その山の木の色が、これまでと明らかに違う。
日の光が当たって、影になったり光に反射したりして、色が違って見えるのではない。
違う色の木が生えているのだ。違う種類の木が群生している。
これまで植わっていた松の木が、虫食いなどによって松枯れになり、松に変わって別の木が繁殖して来た。その木の色だ。
その結果、東山の山が深い緑色一色ではなく、緑や黄緑や、鈍い黄土色やらが増えて来て、まだらに見え始めて来た。
昔、眺めて美しい深い緑だった東山が、まだらへと姿を変えてしまった。
今は強いて山を眺めたいと思う気にならない。
眺めると、美しくないその姿を嘆きたくなるから。眺めるたびに残念な気持ちになってしまうからだ。
だから今は、外へ出ると、顔を背ける。
山の方角を見ないようにして、歩く癖になった。
東山をもとに戻すため、いろいろな試みが試されているようである。
もとに戻るのかは分からない。
でも、山の景観が変貌していることを気にしている人がいて、危機を感じている人がいる。それを戻そうとしている人がいる。
そういうことを考えて、気を配っている人がいるということは、嬉しい驚きだ。
たまに東に目を向けて山を眺めたら、深い緑が増えて来たような気がする。
出かける時、何気なく東山を眺めるのは楽しいことだった。
何気なく見ていたことが、楽しかったことに気がついた。東山がこんな状況になってから、それが楽しかったことに気がついた。
この秋には、まだらな東山が見えるのだろうか。それとも深い緑を取り戻しているのだろうか。
どうであれ、毎日見る東山が、思いもかけずこれほどに気になる存在であったことだけは確かなようだ。