砂の器/ミステリーの映像化
(ネタばらし多少あり)

04/4/3

 

テレビドラマ「砂の器」を見た。
私は松本清張の原作も読んでおらず、映画も見ていなかったのだが、かねてより評判の高いこのミステリーを、この機会に知っておこうと思ったのだ。
SMAPの中居正広と「砂の器」という取り合わせが新鮮だと思った。中居ファンだからかもしれない。

ドラマ終盤になって、気になって原作を読もうという気になった。
そして読んだが、松本清張のこの原作は、はっきり言って、名作というほどではないと思う。

リアリズム派にしてはトリックがかなり?だし(はっきり言って噴飯もの)、動機のハンセン病にしても、「意外な動機」のために導入しただけという感じがして、病気の認識、悲惨さへの配慮とかはあまり感じられない。
下手をすれば、奇をてらったというだけの印象になりかねない。
刑事が元浦千代吉親子のことを詳しく調べるに至る、その経緯がなぜかが全然分からない。偶然が多すぎ。すきまありすぎ。等々。
推理小説としては疑問点だらけ、社会派というにしても問題ありと思われた。
だがそれは、結末を知っていたからであって、もし何も知らないで読んだら驚いたかもしれない。
普通、推理小説はこのような読み方はしないものだ。有名作品だからこその、宿命だろうか。

 

私は、教養として松本清張の「点と線」「ゼロの焦点」などは読んだが、それらは推理小説として納得のいくものだったような記憶はある(昔のことで忘れた)。
だが、私の性質として松本清張はあまり好きではないのだった。

私の好きなミステリーはいわゆる本格とか、パズラーと言われるもので、ミステリーはパズルでなければならない、と考えているからだ。

そのころ閉塞していた日本の推理小説界に、松本清張がリアリズムを導入して、社会派といわれる路線を築き、一時代を画した。これは大流行りし、日本の推理小説は以降、社会派リアリズムが主流となった。このリアリズム時代はやたら長く続き、そのためだんだんつまらないものになって行った。

つまり、事件に何の関係もないうだつの上がらない刑事の日常や、刑事の家での妻とのやり取りなどを長々と描写し、伏線でもなんでもないベッドシーンを描くことがリアリズムだと勘違いされた。
長い推理小説冬の時代が続いたあと、若い作家たちが新本格派と称して、パズラー系の小説を次々と発表し始めるまで、日本のミステリー界はこの「社会派」に牛耳られていた。
その頂点に立つのが松本清張だったわけで、私は彼こそが、日本ミステリーを閉塞させた張本人だくらいに思っていたのだった。

 

「砂の器」が、名作だといわれるようになったのは、映画のおかげだったのではないか。
私は映画を見ていないのだが、中居テレビ版には、この映画版の脚本家たち(山田洋次、橋本忍)を潤色としてクレジットしてある。原作よりも、映画版に影響を受けた作りである。
映画がある意味原作を越えた名作だったことの証明だろう。

 

ミステリーとか、推理小説というのは、それがミステリーとしてどれほど出来が良くても、小説としてみた場合、いびつであって、上等のものだとは言えない。
アガサ・クリスティーであれ、横溝正史であれ、文学として認められてはいない。
ミステリーとは、そういうものだ。娯楽であって、パズルであって、文学ではないのだ。
(私は、文学としても成立するようなミステリーは好きではない)

文学として小説として未成熟だからこそ、映像で膨らませ、それを補完することが出来る。
ミステリーの映像化は、だから出来の良いものが多い。
映像作家が、想像力を羽ばたかせる余地があるからだと思われる。
「オリエント急行殺人事件」にせよ「犬神家の一族」にせよ、むしろ原作よりもよく出来ている。
映画「砂の器」も、この範疇なのだと思われる。

 

ミステリーが映像化される時は、犯人あてや、動機、トリックの解明といった、推理小説を読む時の楽しみは、映像化の時点で、なくなっていると思う。
多少は、犯人が誰かなどのスリルはあるけれども、それはあまり重要ではなくなる(犯人は、大俳優や、名優がやることが多いから)。
また、有名ミステリーなら、人々はすでに原作を読んで、オチをひととおり知っているだろうから。
それでもあえてミステリーを映像化する時、重要になって来るのは、「オリエント急行」のような俳優の演技の楽しみとか、「犬神家」のような映像美などの雰囲気的なもの、そして、「砂の器」のように、原作では触れられているだけのバックグラウンドを膨らませてメッセージを導入するなど、映像ならではのしかけ、作り方だと思う。

パズラーは映像にしにくいと言われているが、それだけに挑戦する楽しみもあるのではないだろうか。
映像化は、文章を読む時に与えられる人の想像力を奪ってしまうこともあるが、ミステリーの場合には、うまくすれば原作の解説以上の豊穣さを持つこともあるのだ。

テレビ版「砂の器」は、映画「砂の器」の完全再映像化、と開き直った方が良かったようにも思う。
ハンセン病という動機の部分を変えて新奇を狙ったが、それ以外は映画版に囚われすぎたようだ。映画が、あまりにも偉大だったということだろうか。
原作には疑問点や突っ込みどころが沢山あるので、それを補完する形で作ってくれていたら良かったのにとちょっと残念に思った。


と、ここまでテレビ最終回を見ないで書いたのち、最終回を見た。
テレビ版の最終回があんな大泣きだとは、予想もしていなかった。

私は、テレビドラマをこれまでまったく見ないので、また中居正広のファンといっても「笑っていいとも」で見るくらいで、スマスマも見なければ彼の他のドラマも見たことがないので、ただ彼の「砂の器」が見たかった、というだけなのだった。

泣かせたら名作だ、とは思わないが、禁じ手の「和賀と父の再会場面」を見せてしまい、それを力技で、心ならずも道を踏み外した親子の哀れとした演出には不意をつかれた。
原作とはまったく別物になっていて、映画にインスパイアされ、そこからストーリーを発展させたのだろう。

テレビ版はハンセン病を回避し、「30人殺し」にしたことで、「砂の器」の根本を変えてしまったのだが、そしてそのことでだいぶ批判されたが、和賀の、父に対する愛憎相半ばする気持ちを主軸に据えた物語として再生したかったのならば、父が殺人犯という設定も、和賀を主人公とする理由もあったことになる。
そうしたらもちろんもはや「砂の器」ではなくなるのだが、そんなことはもうどうでもいいや。

総集編として、クールで冷酷だった和賀が最後に父ちゃん、と泣き崩れるさまをいっきに見たいと思った。

映画「砂の器」について
「砂の器」についてもう少し

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