大阪

05/2/3

 

大阪について、まったりとした速度で書いていたら、不祥事が次々と明るみに出て来て、テレビでの告発も相次ぎ、ついには大阪市に税務調査が入るという、大阪は大恥をかく羽目になった。
私が以下に書いたことは、税務調査が入る前のことであり、かなり的外れの古いものになってしまった。まったく大阪には困ったものだ。

関東の人には分からないと思うが、大阪市の不祥事や、ずさんな経営に関しては、大阪の各テレビ局が最近積極的に取り上げるようになって、びっくりするような事実を連日スクープ(?)している。
そしてこうした告発が、税務調査へと繋がった。さすがの大阪人も、大阪市に対してとうとうキレたのだろうか。

大阪市の問題については、私があれこれ言わずとも、大阪人の方がより的確に言うべき言葉を持っているだろう。
私はせっかく書いた私のまったりした大阪論を、没にするには忍びないので、ここに一応上げておくことにした。

 


 

さて大阪については、日本中の人が思い描いているイメージが既にあると思うが、それと、私が思い描いているそれとはそんなに違わない。
ある意味で、既存のイメージをさらに強固にするものに過ぎないが、京都にとっての大事な隣人であり重要な存在でもあることにおいて、敬意を表することにヤブサカではないので、ここに私の思い描くイメージを描出して、よりいっそうの大阪の発展を願うものとする。

 

大阪は、日本においてとても特殊な都市である。日本のみならず、世界中で見てもかなり特異である(イタリア南部あたりには似ているかもしれない)。
特殊ということでは、京都の比ではない。
大阪は、都市というより、日本の中の独立国であり、大阪という独立国家を形成していると言ってよいだろう。

そのわけのひとつは、日本とは(世界においてもだが)法律が違うことである。

ほかの国とは違う法律の最大のものは、交通である。特に信号機である。

日本では(世界でも)、青が進め、黄色は注意、赤は止まれという風に決定されているが、これは大阪の道路交通法では適用されていない。

大阪では、青は進め、黄色は進め、赤は注意して進め、ということになっている。

京都では逆に、信号が青になってもなかなか進まない、という風景が多く見かけられる。
それは、京都で歩いている人の半数以上が老人であり、老人は信号機を見ず、隣の人の行動を見て、信号機の色を判断する傾向があるからである。
その場合、隣の人も老人であると、いつまで経っても横断歩道の前で待ちつづける、ということがある。

京都でも横断歩道をフライングする人がたまにいるが、それは必ず大阪から遊びに来ている者か、大阪から仕事で来ている者である。
京都の人間は、独立心が強いので、フライングをした人間に合わせて思わず自分も歩いてしまう、ということはなく、フライング人間をさらし者にしてさげすむ、という傾向がある。
信号で待っている者の半数以上が老人であるため、足がついて行かない、という事実もある。

 

大阪ではまた、くわえ煙草、持ち煙草、手煙草の者の数が異常に多い。

歩道または車道を歩いている人間の、3/4が煙草を手にしている。
横断歩道のフライングの数よりもさらに多い。
そのため、大阪の町じゅうに煙草の煙が充満している。

大阪で禁煙しても意味がない。大阪人のすべてが否応無しに喫煙者である。
煙草の苦手な人には住みにくい国(独立国なので…)である。
逆に、最近肩身の狭い喫煙者には天国のような国であり、喫煙したい人は大阪国に移住するとよいだろう。

 

大阪人はケチだとよく言われるが、私の感じる所では、決してそうではない。

確かに店に入れば値切るものだと(代々親から)教えられているようだが、しかし、払うべきものにはぱっと払う。使うものにはお金をどんどん使う。
お金の使いどころを心得ている。それが大阪人である。

大阪人は、意外と気前がよいのである。
第三セクターの、湯水のような無駄使いを見てもそれが分かる。

出すべきものにも出さない京都人とはえらい違いである。
大阪よりも、京都人の方がはるかにケチであることは、論を待たない。
京都人は、出すものにも出さないから、祇園祭も時代祭も、近い将来なくなるかもしれない。
金閣寺は国の補助で建て直すことが出来たが、現在国の指定はなくなったので、将来もし火事があると、もう2度と建てられない。

京都は出すべきものがないのではなくて、出すものがないのである。
大阪はその点、やはり金持ちが多い。

 

大阪人がケチだと思われるのは、ひとつには、彼らがものを判断する時の基準がお金によっているからであろう。

これは光琳の作った硯箱で…と言っても、彼らには通じない。
この硯箱は一億円する、と言って初めて、ほおー、と感心する。

古い、とか希少である、というものの価値は分からない。お金に換算して初めて理解するのである。

しかし、古いものを見捨てることはしない。
大阪国はまた人情に溢れているので、古いとか、無駄とかを分かっていてもむげに切り捨てたりしない。
法善寺横町を、法律を変えてまで残そうとした。それなりに、分かっているようである。

ただ彼らには、文化、とか美、というものへの理解力はない。彼らは実用的なものについてしか理解出来ず、その結果文化的な教育がなされない。
だから、スラム街のすぐ隣りに美術館を置いたりする。
必要だということは分かっているが、理解が出来ないのである。

 

お金に換算して価値を判断する、といっても、だからと言って東京のように、値段の張るものだけがもっとも良い、という拝金主義ではない。
単に、ものを考える基準がお金だというだけである。
人間国宝の桂米朝師匠をこよなく尊敬していることからも、金に替えられないものがある、ということは理解している。
時には、まいど一号のように、お金にならないものに投資をしたりする余裕も持つ。
それでも、お金をもうける人を羨ましく思っていることは、変わらない。
(京都では、金を儲けようとする者は金の盲者と言って蔑まれる)

このような大阪人の金銭感覚はずばり、どんぶり勘定、ということである。

日々のスーパーでの買い物には一円単位で値切り、惜しむが、儲け話があると聞くと、ぱっと大金を投じる。その結果大損をして借金を余儀なくされる。
借金がかさむとヤミ金に走り、それでも足りないと詐欺や汚職や、横領などをしてその場を凌ぎ、それでも駄目だと強盗に身を投じる。
すべて場当たり的な、将来の見とおしが全くないままの行動である。
第三セクターがこれである。

このような哀れな大阪に、隣人である京都がアドバイスすることがあるとすれば、お寺を増やすということであろう。
京都で唯一金を儲けていて、儲け主義者でありながら市民に尊敬されてさえいるというミラクルを成し遂げているのがお寺の住職だからである。

 

また大阪は、建前のない国である。本音で通す国である。

京都人のように腹黒く、お腹の中では何を考えているか分からない、ということは一切なく、単純で、直截で、欲望むき出しである。隠す、ということがない。

本屋に、裸の(水着の)お姉さんのしなを作ったポスターが、縦横無尽に貼られる。
京都なら、一筋入った裏通りの本屋の2階にしか貼らないようなものを、堂々と表通りに貼り巡らす。
彼らには、恥という感覚がない。
みずからの欲望を堂々と公表し、欲望の趣くままに暮らしている。
欲望のままに食べ、煙草を吸い、女を追いかける。ある意味男らしさ満点である。

言っていることと、心の中で考えていることに差がない。
「その服、よう似合うたはるなあ」という言葉が、「何を着ても似合わない田舎者」という意味になる京都とはえらい違いである。

お調子乗りという事では、一般の風説どおりだろう。
「ええ儲け話がありまっせ」という言葉に極端に弱く、すぐに乗る。けれども成功する事は滅多にない。
堅実という言葉が彼らにはない。
がつがつ儲けるか、借金だらけか、どちらかだ。

 

ところで、京都人は大阪を毛嫌いしており、大阪と京都は仲が悪い、と言われているが、私自身は(純粋)京都人ではないためか、決して大阪を嫌いではない。

ぼろかすに言っているように受け取られるかもしれないが、それは事実を言っているまでであり、だからといって自分が(大阪を)嫌いだということではない。

むしろ大阪人に、京都は学ぶべきものは多いと感じている。

伝統でがんじがらめになり、滅多に本音を吐けない不自由さの中で暮らしていると、大阪自由人を心の底から羨ましく感じる。
開放的な心のありようを、大阪ラテン人から学ばねばならないだろう。

何しろ、「あの人は今こういうことを言ったが、それはどういう意味だろう」とあれこれ頭をひねる必要がないということは、どれほどストレスのない生活であろうか。
京都で毎日、このストレスを感じながら暮らしていると、ラテン大阪が羨ましくなるのも無理はない。

京都にとって、大阪はすぐに行ける大都会、である。大阪にとって京都がすぐに行ける観光地であるように。
近場にある便利な場所としてお互いを利用し合っている。先入観を持たず、気持ちよく付き合えるスタンスを保ちたいものだ。


註) 記述にフィクションを含みます。

 


ここまでが、私の書いた全文だが、大阪市の(自分たち=市職員だけが得する)無駄使いの実態を知れば、いかに大阪人というものがお金にルーズか、ということが明らかだ。
儲けるにしても、損をするにしても、横取りするにしても、詐欺をするにしても、とにかく金銭勘定がルーズ。
金に泣き、金に笑う大阪人の悲哀が浮き彫りになっている。

しかしルーズなのは金銭だけではない、すべてにおいてルーズなのだ。公衆道徳、犯罪(引ったくり件数日本で最大)、公私混同、特に大阪人のモラルはルーズだと思える。
それは、本文で書いているとおり、ある意味でいい面もあったりするのだ。でも、悪くなるとどこまでも底無しに悪くなる。下限がない。
線引き、と、けじめ、を大阪人が身につければ恐いものはない、と思われるのだが、こんなことを言うのは大阪人にとってはよけいなおせっかいであろうか。

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