発掘捏造になぜ興味を持ったか

 

02/11/4

 

さてなぜ、私はこの発掘捏造問題に異常なほどの興味を持って来たか、である。

 

どうやら私はこの手のことがとても好きらしいのだ。

この手のことというのは、たとえば、猿の着ぐるみを着て歩いているところをビデオに写した「パターソン・フィルム」がいんちきだと暴かれたとか、宇宙人の解剖フィルムがいんちきだと暴かれたとか、またユリ・ゲラーのスプーン曲げがジェイムス・ランディにいんちきだと暴かれたとか、というようなことである。

 

妖しげで非科学的な主張を論理的に暴く、というシチュエーションが何よりも好きなのだ。と思う。

昔関西系の昼のワイドショーで、心霊写真の特集を毎週組んでいたテレビ局があった。

これは視聴者から送られて来た心霊写真を見て出演者が怖がる、という通常のパターンの心霊番組ではなく、その心霊写真が、必ず写真のトリックで出来ている、ということをプロのカメラマンが暴く、という趣旨の番組だったのが特筆される。

そのカメラマンが、写真が撮られた場所にまで赴き、出来る限り同じシチュエーションでもういちど写真を撮る。
そして、なぜ普通の写真が心霊写真になってしまったか、ということを暴いて、写真を撮った人を、あなたが撮った写真は決して心霊写真ではありません、「だから安心して下さい」と言うという、今から思うと良心的な番組だった。

このように、「分からないことを、理屈にあったやり方で分かろうとする」ということが、私の最も望むことで、この世における不明なことに対する態度なのだ。

私は、世の中のことどもをこのようにして、自分なりの理屈で分かることを望む。
分からないことを、そのままにしておく態度というのが、自分で我慢出来ないのだ。

分からないから超常現象だ、とか、分からないから原人はいたとか、曖昧な検証しかなされていないまま結論付けることが大嫌いなのだ。

 

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勿論科学的に証明出来ないもの、理屈に合わないもの、論理的に説明出来ないものなどは、世の中に山ほどあることは確かだと思う。

論理や科学が万能であり、至上のものであるとは言わない。

金持ちになりたいといくら努力しても金が出て行く。
戦争がなくなればいいと思うのに、なくならない。
人殺しはいけないと思うのに、人を殺す人間がいる。

理屈に合わないことは、世の中にいくらでもある。

しかし、事物が論理で説明できるもの、科学的に証明できるものであれば、それはその結果をすみやかに受け入れ、納得しなければならない。
論理的に説明されているのに、それをわざと不明であることにしておく、ということは、最も忌むべきことだ。

分からないことを何とか分かろうとして努力して来た。それが人間である。
だから科学が発展した。人間が進化した。
分かろうとすること、それが人間を発達させて来た原動力である。

 

愚かなことを、ただ愚かだと笑っているのではなく、それは愚かなことなのだと、きちんと論理的に科学的に実証し証明する。
それが、我々の社会では一番必要なことなのだ。と思う。

それだから、そのことがいかに愚かでお馬鹿で、情けない、呆れ果てた、畜生のすることか…ということを順々と説く、という行為が何よりも好きなのだ。と思う。

 

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発掘捏造発覚の発端は、毎日新聞のスクープだった。

これは、私の思う、論理で説明というパターンではなく、いきなり患部にメスを入れる外科手術のようなもので、そこがちょっと理想の展開ではなかった。
人類学者の馬場悠夫氏は、科学的に実証したかった、というようなことを語っていたが、それが私にも一番望ましい理想的な暴き方、と言えるだろう。

 

毎日新聞のスクープは、やはりスクープでしかない。

もちろん藤村氏のした行為は責められるべきだが、毎日新聞は、結局、スクープ記事を書きたい、世間をあっと言わせたいなどというような動機から捏造を暴いたに過ぎない。

この発掘捏造において、何が最も深刻な問題だったのかというと、捏造によって偽の歴史がまかり通っていたこと、報告書もなく、考古学協会の認証や学者の間での議論もなかったのに、その偽の歴史がいつの間にか本物の如く一人歩きしていたことである。

藤村氏のしたことは学問的に許されることではなく、彼の周囲にいた学者たちが、捏造を見抜けなかったばかりでなく、その発見を徒らにただ賞賛するだけで、吟味、分析、調査を怠った事も許されることではない。

しかし、それ以上にその発見を「日本最古」などというお題目に乗せられてその魅力に負け、それを既成事実のように理解してしまった誰か、が最も許されないのではないのかと、私は思うのだ。

 

***

 

藤村氏はとても良い人だったらしい。

藤村氏と接したことのある人は、誰も彼のことを悪く言う人がいないという。
皆一様に良い人だというのだ。
「いい人、としか表現のしようがないほどいい人」なのらしい。

確かに、宮城県というか、地方自治体というか、考古学好きの仲間レベルでは彼はいい人であったことは間違いない。

みな、発掘に協力している人は、大変な努力をしている。
穴を掘る学生や有志の人は、来る日も来る日も石器が出るのを楽しみに、穴を掘り続けている。
学者は一生懸命研究をしている。
ここで石器が出なかったら、みな意気消沈するだろう。
石器さえ出れば、みなの努力が報われる。
自治体も大喜びするだろう。
石器さえ出れば目出度し目出度しだ。
石器が出なければ、みなの努力が全く無駄になってしまう。

だから出した。

みな大喜び。目出度し目出度しだ。

藤村氏のしたことは、皆にとって、とてもいいことだったのだ。

 

確かに仲間レベル、地方レベルではそうして彼の発見を喜び、いくら彼を神と呼んで崇めても構わなかった。
ただし、それは学問ではない。
一地方での、発見ごっこである。
町おこしのためだったならば、それも構わないと私は思う。

しかし仲間レベルでそのように楽しんでいる間はそれでも良かったが、ただ、このことをマスコミが記事にし、やがて考古学という学問をも、巻き込んで行った。
本来学問ですらなかったものが、学問のような顔をし、大手を振って、日本の歴史を書き換えてしまった。

これは、許されることではない。

 

いくらその「発見」が魅力的であろうと、その発見が日本の歴史、世界の歴史までも変えてしまうものであろうと、それだから信じる、のなら考古学はいらない。

東北が、日本で最古の歴史を持つ事を「信じたい」。日本が世界で最古の歴史を持つ事を「信じたい」。
それが動機で石器を掘るのは本末転倒である。

それがいくら魅力的な命題であろうと、それは「1たす1は3であって欲しい」とか、「1たす1は3であることを信じる」と言っているのと同じだ。
自己の恣意では学問はならない。


捏造問題については、まだつづく

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