京都の三大みやげもの

 

04/3/26

京都の三大みやげ菓子といえば、古来より五色豆・八つ橋・そばぼうろと相場は決まっていた。

この三つの京都土産のお菓子は、定番であり有名であると同時にまずいということでも名が知れ渡っていた。

例えば大阪の雷おこしなどであれば、まだ、食べたのち噛み砕いて食道を通すことに苦労をしたりしない。が、京都の名産といえば、そのどれを取ってもそれらを胃の中に入れることが苦行であるとしか言いようがないほど、まずい。

なぜ京都の名産がこのようにまずいのか、またまずいまま平気で売られているのか、それを甘んじてお土産として売って、何の反省もないのか、ということが私にはずっと疑問だった。

今この疑問が解けたわけではないが、京都の菓子メーカーで、この状況を憂えている人たちもいないではなかった。
それは主に八つ橋メーカーであった。

思うに、この三つのみやげ物の中で、最も売れ行きの悪かったのが八つ橋ではなかったろうか。
子供心に、あれをどう食べても美味しい、という感想が決して出て来ない、ということに気づいていた。それが、このようなまずいものが平気で売られているのはなぜか、という疑問に直結した。
それほどまずかった。

五色豆もまずいが、まだ彩りという点で、八つ橋より多少、まさっていた。
そばぼうろもまずいが、花の形をしているという点で形体的に多少勝り(色は悪いが)、「他に食べるおやつが何もない時には、それを食べたら美味しいかもしれない」という推測が成り立つ点で、味が他よりはまさっていた。

つまり八つ橋はどの点でも他の名産に負けており、土産ものの存在意義を失いそうになっていたのである。
それは多分、売り上げの面でも微妙に影響したのに違いない。

ニッキ味である、という理由も不明であった。硬くて噛めない、という点も、意味不明のお菓子という印象を助長していた。
こんなにお菓子として失格しているお菓子は、まずないだろう。

メーカーは、さすがにこの状態に危機感を抱いたらしい。
そこで起死回生の策を講じた。
つまり、いきなり生八つ橋という、八つ橋のコペルニクス的転回ともいうべき路線で勝負をかけて来たのである。
しかしこれが大当たりした。

今、本物の八つ橋はどこかに駆逐されてしまい、生八つ橋は京都の土産もののナンバーワンにのし上がった。
美味しさという、当たり前のことを追求したあくなき向上心が、かつてのみやげ物界の敗残者をして、勝ち組にのし上げたのである。

 

問題は、あとのふた組、五色豆とそばぼうろである。

このふたつは、驚いたことにまだ生存している。

そばぼうろは、本家や元祖以外にも、そばを生産しているメーカーから発売されている。そして、忘れ去ったころに贈答品として貰ったりし、水屋の中で、いつまでも食べられないままに放置される。
そばというものが生産される限り、そばぼうろもまた、生存を続けるのだろう。

五色豆は滅多に貰わないが、京都○○ーなどのお土産売り場に置かれている所を見ると生産されているのである。

これらは自分からは絶対に買わないため、なかなか生存が確認出来ない。人から貰うなどして始めて、ああ、まだ生きている、とその存在を思い出し、知るのである。

みやげ物に美味しいものなし、とも言う。
生八つ橋は、その禁断の生命線を越えて、ヒット商品になった(私は生八つ橋を美味しいと思っている)。
他のふた組には、みやげ物の結界を越える気概がないのだろうか。それとも、あえて伝統のみやげ物ラインを超えず、リスクを避けているのだろうか。

ただ言えることは、おいしくなった五色豆はもはや五色豆とは言えないだろう。
かっぱえびせんみたいにどんどん食べてしまうそばぼうろ、などというものは、そばぼうろとしての意義がないかもしれない。ということだ。

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