ミステリーなこと

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My Mystery Best

 

お正月からこのかた、どういうわけか、推理小説に凝り出した。

ちょっとしたきっかけで、エラリー・クイーンの「オランダ靴の謎」というのが高く評価されているのを知り、まだ読んだことがなかったので、早速買って読んだのだ。

ミステリー、推理小説は、昔好きでかなり読んだ。
ヴァン・ダイン、クイーン、ディクスン・カー、クリスティなど、それぞれ代表作は読んだと思うが、各作家、すべての作品を読破したわけではない。
有名な所のものを少しずつかじった、という程度だ。
重要なものを読み落としている、ということも当然ある。
それがかなりあるはずで、残念でならぬ。
いつかきっと読もうと思う。

最近は、もうずっと何年もミステリーは読んでいない。
たまに突然、思い出したように読んだりするが、それももう何年も前のことだったろう。
ミステリーどころか、小説さえもう随分読んでいない。
だから読む時、なかなか調子が出ず、どういうふうにして読むのだったかな、などと、ミステリーの読み方さえ分からなくなっていたほどだ。そんなわけない。

 

それはともかくミステリーというと、何と言っても本格が好きだ。

本格というのは、探偵がおり、殺人事件が起こり、密室があり、トリックがあり、驚愕の結末がある。そんなミステリーのことだ。

推理小説なら、やはり密室の殺人があって欲しい。
そして、その部屋の見取り図なんかがついていればいっそうわくわくする。
最後の方には、読者への挑戦とか言って、作者が、これですべての手がかりは与えられた、と読者を挑発する。

そんな風な、クラシックな本格推理小説がたまらなく好きだ。
ミステリーならやはり、そういう風でないといけない。
言ってみれば、推理小説はパズルの面白さなのだから、謎解きの醍醐味を味わえるのがいっとう良い。
それだから、社会派だとか、読後がどっしり重い作品などは、推理小説に限り、あまり好きではない。というかあまり読んだことがない。
というかミステリーでそういうことをあまり読みたくない気持ちだ。
出来るだけからっと、謎解きに徹している作品が好きだ。

またタイトルも、「〜〜の謎」「〜〜殺人事件」「〜〜の殺人」なんていう、いかにもな、読む前からわくわくするのがいっとう良い。
推理小説のタイトルは、それで大体内容を推し量るから、思わず読みたくなるタイトルをつけてほしいものだ。

「オランダ靴の謎」はかなりの長編で、文庫の文字も小さい。
1日ではとても読めない。
小説を読む場所は様々で、寝る前の布団の中だったり、マクドでハンバーガーをほおばりながらだったり、電車の中で頭がぐるぐるになりながらだったりする。

 

「オランダ靴の謎」というのは、オランダ記念病院という病院で、そこの出資者でもあるお金持ちのおばさんが手術をしてもらおう、という時、手術室に入ろうとした時に既に誰かに殺されていた、という、病院での殺人を扱ったもの。
ここで犯人は誰かとは言わないので、ご安心を。

1日で読めてしまっていたらことは簡単だったのだが、今回、「オランダ靴」を読んでとても驚いたことがある。
それはあまりにも意外な犯人…ではなくて、かなり短期集中して読んだにも関わらず、読んだ始めの部分を忘れてしまった、ということだった。

 

私は、最近とみに物忘れが激しい。
というか、いつも頭の中が霞みがかかっているような気がして、からっと晴れやかな状態でいることが少ない。
何だかいつも、何か忘れているような、何か違うというような、頭の中が違和感を唱えている。
雲の中にいるようだ。

常がそんななので、久しぶりに本らしい本を読んでも、自分では集中して読んでいるつもりなのに、頭の中に入っていないのだろう、というか、頭に入っていかないようなのだ。

読む場所がいろいろと変化し、それで集中出来なかったということもあっただろう。
電車の中だったり、マクドやロッテリアで読んだりしていると、あまり集中出来なかったのかもしれない。
でも早く続きを読みたい、という気持ちから自ずとそういう場所で本を開いていたのだ。

 

推理小説の中において、最も重要な殺人の場面…誰が何をし、どのような状況で殺人が起きたか、その時の人物の動き、会話、といった、クイーンの苦心の殺人現場の状況は、これはのちのちの、謎解きで最重要となる場面なので、絶対に覚えておかなくてはならない場面だ。

それなのに、私はその場面がかなりうろっとしか頭に入っておらず、またもう一度そこを読み直そう、という気概が、もうなくなっているのだった。

謎解きが行なわれる前にもう一度殺人の場面を読み直せば、きちんとした理解も出来たのに、ええい面倒だと、読み直す気にならなかった。

若い時は、推理小説を喜んで読んで、こんなことはなかったと思う。
読み直すのが面倒だなんて。
年を取ると、そういうことも大儀になってしまうのだろうか。
とても悲しい。
また覚えているはずと思い込んでいたこともあるだろう。

 

そして、クライマックスの謎解きの場面。

エラリー・クイーンがトリックの驚愕の事実を言い放つ。
あの時、あそこでこういうことが行なわれ、だから…

この時、読者はええっ、この人物がこの時、このようなことを…
と驚愕する。
はずだ。
しかし…

私は、
あれ?
そうだったっけ?

こんな反応だった。

あの時、こんな状態だったっけ。?

覚えていなかったのである。

我ながら非情に情けなかった。
最もカタルシスを感じるはずのクライマックスに、この鈍感な反応。
エラリー・クイーンもかたなしである。

この時思ったのは、推理小説を読む時は、集中して、ちゃんと起きた事柄を忘れることなく、きちんと覚えておくこと、そうでないと推理小説は楽しめないのだ、ということだ。

こんなことは、考えて見たらごく当たり前のことだ。
若い時は…以前、読んでいた時はそんなことは意識しないでも覚えられていたのだ。
でもそれが出来ないほど私の記憶力は弱っていたのか…。
ショック…。

それからというもの、ずっと私の頭の中は、霞みがかかりっぱなしである。

***

ついでに極私的なミステリーのベストを、別項にて掲げてみた。
重要なのにまだ読んでいない作品も沢山あり、不充分でありすぎだが…。


蛇足

もう1つ、久しぶりに推理小説を読んで意外だったこと…。
トリックがあまりにすごくて解決が分からなかった…
ということでは決してなくて、途中で殺されてしまう人物が、殺されるなんて可哀相だ…、と思わず思い入れをしてしまったことだ。
この人が殺されてしまうなんて…と、憤慨してしまった。

昔はミステリーを読んで、殺人が起こっても、殺された人物を可哀相だなんて、思ったこともなかった。
昔の私が非情だったというのではなくて、推理小説において殺される人物というのは、大概殺されても仕方がない、という設定だったからではないだろうか。

精神衛生のためにも、推理小説上で殺されるのは、やはり、なるべく人から疎まれ、憎まれ、殺されてもしょうがないような、大悪人である方が望ましい。
どこから見ても善人で、誰にも憎まれたことがないような人物が殺されると、とても後味が悪い。
現実はそうはいかず、悪人こそが世にはびこるのかもしれないが、小説だからこそ、そのような理不尽な現実味は避けて欲しいという気持ちがある。

テレビの火曜サスペンスなど、大抵が殺されるのは悪人で、殺人者はのっぴきならない理由があって殺人を犯すのであって、後半は、その殺した理由をとうとうと説明する描写が延々と続くのだ。

 

今回読んで、殺された人物が可哀相…と思ったのは、昔は登場人物にさほど思い入れもなく読んでいたのが、今となると、読み方がかなり情緒的になり、感情的になっていたからではないかとも思う。

冷静に読んでおらず、その場の状況だけしか読み取っていない。
全体の構成を把握できなかったようだ。
要するに、読解力がかなり落ちていたということだろう。
可哀相、というよりも、その人物が殺されたことが意外だったのだろう。
小説のコンテキストからいったら、それくらいのことは把握しないといけないことだったのだ。

記憶力も、読解力も減って来ている私。
これからも私は推理小説を楽しめるのだろうか。疑問だ。

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