京の七不思議

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リニューアルしたついでに、久しぶりに新しく書いてみよう。

私の家は、京都駅から歩いて10分、四条から15分、三十三間堂から15分と、非常に簡便な所にあると言えるだろう(まあ、京都が狭い、という風に言い換えることが出来るかもしれないが)。(註1)

だから私は京都駅などにはいつも歩いて行く。
駅の近くには京都近鉄デパートがあり、そこは我が家御用達のデパートであった。最近経営不振のため名前を変えリニューアルを図るということで、市内外にも少なからず話題になった。
私たち一家も一生懸命近鉄の売り上げに協力していたというのに、残念でならない。

そもそも、その昔は京都近鉄は「丸物」という、いかにも物産店的名称だったが、我が家はその頃からのおとくいさんであり、私も子供の頃から、そこへ歩いて通っていたという、なじみの深いデパートなのである。

で、話はこの近鉄ではない。
私の家から近鉄へは、烏丸通を歩いてゆく。
烏丸通を隔てて西には東本願寺があり、東側の舗道には仏具屋、数珠屋、旅館などがずらりと並ぶ。

この界隈は、数珠屋が多いのだ。町名や通り名に数珠屋町だの仏具屋町だのというのがあるくらいである。歴史は古い。

その昔、応仁の乱(註2)より以来、本願寺へ参る人たちのために、このような店や旅篭が出来たものと思われる。
今でも報恩講という催しがお東さんで行われる時は、この烏丸通、東の舗道に怪しげなテントが立ち並び、賑わうから笑わせる。

ここら辺はまた、蓮如ブームの時は、数珠屋といわず、仏具屋、旅館、ありとあらゆる所に蓮如ポスターが貼られ、さらには、繁華街のポルタにさえ「蓮如物語」アニメのポスターが進出するという、実に抹香くさい展開を見せ、それなりに壮観なものがあった。

ええ、話がちっとも進まない。

烏丸通の東を、本願寺の北の端あたりから南へと歩いて行くと、この仏具店や数珠屋が並ぶ界隈を経て、七条通へ近づいた頃、やがて土産物屋が何軒か、現れる。
自衛隊のビルを挟んで、古くから軒を並べている土産物屋だ。

この、みやげ物屋が、七不思議なのだ。

私は、先ほども言った通り、子供の頃からこの通りをずっと歩いてきた。そして、この土産物屋の前をずっと通って行き来してきたのだ。

だが、正直に言うが、これらのみやげ物屋に客が入っているのを、今まで金輪際見たことがないのだ!

それも不思議な話なのだが、それ以上に不思議なのは、これらのみやげ物屋が、客が入っていないにもかかわらず、未だにつぶれず、店を張っていることだ。

店は古い佇まいで、私の子供自分から、店構えがひとつだに変わったという様子は、ない。
そこで売られている物は、おたべ(註3)だったり、饅頭だったり、新撰組のちゃちな羽織だったり、舞妓さんのペナントだったり、まあ京都のトラディショナルなみやげ物なのだが、それらが新しいものに変えられていたという覚えがまた、ない。

客も入らず、売り物も古いままのものの店など普通に考えれば、とうに潰れてしかるべきだろう。
にもかかわらず、今まで、昔と変わらぬ佇まいで何事もなかったかのように、そこだけが時が止まったかのように、泰然として店は、ある。

この時を超えた自若たる店々を不思議と呼ばずして、何と呼ぶべきだろう。

しかし私はある時、大変な発見をした。

歩く道すがら、かの店先で、抹茶色のおたべが売られているのを発見したのだ。

抹茶味のおたべである。
これは新発売のものだ。

そうすると、かの店では、新製品を売っているのだ。
店先の商品は、更新されているのだ!

これは私にとって発見であった。

古いように見えるが、実は、あれらの店は、本当は流行に敏感なのだ。
おそらく、商品は十年一日の如く見えて、1週間単位で更新されていることであろう。

なにはともあれ、良かった。
あれらの店でも、時は動いていたのだ。

それにしても、未だに客が入っている所を目撃したことは、まだ一度も、ない。
やはり、七不思議というにふさわしいのではないか。

(つまらんことを書いた)
(記述はフィクションであり、実在の人物、店等には関係ありません)

 


 

註1)この記述で、私の住む場所が通人には分かったかもしれない。

註2)これは、でまかせの記述だ。
蓮如上人が親鸞上人の命日を偲んで報恩講をひらき、それ以来信者が命日に本願寺に集うようになり、それが、このような本願寺前の店の発展のいわれではないかと思う。

註3)あん入り生八橋の商品名。

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