本屋

00/4/28

大変ローカルな話題になってしまった。

最近、京都の本屋事情が変わった。

何年か前、老舗の本屋京都書院がなくなった。
ちょっと変わった本屋で、私のお気に入りだったので、大変寂しい思いをした。
四条河原町にあったそのあとに、カレー屋が出来た時は、悲しかった。
そのカレー屋も、さらにそのあとに河原町オーパが出来て吸収されてしまった。

その河原町オーパには、最上階に、オーパの出来る前にその地にあったオーム書店(オウムではない)が入っていたが、つい最近、オーパのその店が閉まってしまった。
あとには、CDショップが入っているようである。

さらに、老舗で、何店も支店を持っていた駸々堂が倒産してしまった。
これはショックだった。

三条河原町、ポルタにあったのが、次の日から急になくなっている。

それほど、本屋はもう流行らなくなったのだろうか。
今日日の若い者は本など読まないのであろうか。
その割には立ち読みしている者は大変多いような気がするのだが。

京都の知性はどこへ行ったのか。
私は暗澹たる思いで、本屋の凋落をはたで眺めるのみであった。

だが、新しい本屋が出来ることもあった。

京都タワービルという、おのぼりさん専用のみやげ物ビルの何階かにフロア全体が本屋という本屋が誕生した。
タワービルは経営方針が変わったようだ。
刷新を図って目を見張るリニューアルぶりである。

この本屋は広くゆったりしていて見やすい。
置いているものは基本的なものだが、見やすいというのは良い。

タワービルの隣にプラッツ近鉄としてリニューアルした近鉄にも新しく旭屋書店が入った。
しかしここは極めて見にくく、好きではない。

さらに、駸々堂のあとには、阪急の書店だったかが、そのままの体裁で入るという。
プラスマイナスで言うと、本屋はかえって増えている。

私はさほど嘆かなくても良かったわけだ。

***

 

インターネットが一般的になってきて、いろいろなサービスがインターネットで行われるようになってきた。

本も、まずCD-ROMに収録されるようになり、次にはインターネットで配本、さらにインターネット上で小説を連載する、ということまでなされるようになってきたようだ。

だが、これらのサービスには、本物の本と決定的に違う点というか、ある決定的な欠点が、ある。

それは、CD-ROMにしても、インターネット小説にしても、本としての装丁がないということだ。
まあ当たり前であるが、本屋の本には本という実態が、装丁と共に、ページをめくる本としてある。
だが、新しいメディアでの本には、装丁がない。

私が本を買う楽しみには、実は装丁を楽しむという事も含まれていたのだ。
塚本邦夫の凝った装丁の本を懐かしく思い出す。

本はまず紙であり、紙に装飾された活字、挿絵、扉、箱、帯、その他もろもろの紙が本の主体であった。
本を楽しむという事は、それらの紙を楽しむ事なのであった。

棚からお気に入りの本を探し出し、取り出す楽しみ、箱からそろっと出す楽しみ、ページを繰る楽しみ、寝転がって読み、不自然な姿勢でいたため腕がだるくなり、何度も姿勢を変えてついにそのページに指を挟んだまま、寝てしまう楽しみ…。

紙から繰り出される本の楽しみは、ただ読むという行為だけでなく、読むことにまつわるさまざまな、ほんの些細な出来事をいつくしむ行為でもあったのだ。

箱入りの本の中に、薄紙が付けられているものがある。
箱から出したり、しまったりしているうちに薄紙が破れ、本体から分離し、その処理に困ったものだ。
だが、決して、それが面倒で、いやだったわけではない。
だからといって薄紙を取り外してしまわず、律儀に元通りにして、箱にしまうのだ。面倒だと思いながらも、元通りに丁寧に直して。

本を読む、という行為には、ものを大切にいつくしむ、という思想も含まれていたのだ。

なつかしいフランス装の本を、今夜あたり、読みたくなって来た…。

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