再び父のこと

2/4

 

7月7日、私は多分、夕飯の片づけをしていたのだったと思う。

検査の結果を聞いて帰って来た父に、どうだったかと聞いた。

父は、「うん、…肺がんや」
と言った。

私は、冗談かと思い、側にいた母に聞きなおした。
「あんなこと言うてはる」

母は、「そうやて」
そう言った。

父は若い頃ヘビースモーカーで、「しんせい」を1日に何箱も吸っていたが、もう25年以上前にそれも止めた。
それがなぜ今?

愕然とした。

 

父は穏やかに、淡々とそう言った。
私がショックを受けるのを気遣ってだったのだろうか。
なかば冗談めかして聞こえた。
どういう気持ちだったのだろう。
自分に言い聞かせるように言ったのだろうか。
今となっては、父の気持ちは分からない。

「なんで泣くんや、そやからこれから入院して、治すんやないか」
母はなだめるように言った。

私は、父の病名を、父本人から聞いたのだ。

食器を拭きながら食器棚の前に立ち、立ち尽くしていた。
涙を流していたようだった。
すぐに泣くのを一生懸命我慢した。
本人の前で、失礼な気がしたからだ。
まるで、泣くともう諦めているみたいだから…。

*

老人であり、かなり年なので手術が出来ないので、放射線で治療する、ということだった。
7月の末に入院し、30回、放射線を当てた。
当てた部分は、おさまった。

入院中、お見舞いに行った時、父が、今放射線を当てている所の他に、3箇所小さいものがある…と言うことを言った。
そこは抗がん剤で治すのだ、と。

相変わらず穏やかに、淡々とした口調でそう話すのだった。
その時だっただろうか。
それとも、がんだと聞かされた時だったのだろうか。
覚悟をしておかなければいけない、と思ったのは。
今となっては、もう思い出せない。
悲しすぎて。


 

父は、富山の片田舎の生まれ、幼い時は家が貧しく、里子に出された。
里の家で、そこに同じような境遇で来た子供たちと兄弟のようにして育った。

そして小学校を卒業するとすぐ、京都の扇子職人の家に丁稚奉公に出された。
父は小学校が最終学歴だ。

無学で、漢字をあまり書けない。
その上悪筆で、父の字はどう読むのか、素人には分からない。

同じ業者の人は、たいていファックスを持っていて、皆から○○はんのところはファックスがないのかと言われる、と言っていたが、いくらファックスを買って送信しても、かんじんの字が読めないのでは仕方ない、と大笑いした。
父は、ローマ字さえ書けなかったのだ。

でも私は、そんな父を、どんな賢い偉人より誰より敬愛していた。
私自身には誇るものが何一つないけれど、父が何より私の誇りで、自慢だった。

ただただ生真面目で、淡々と自分のすべき事をわきまえ、ひたすら仕事をし続け、奢るでもなく卑下するでもなく、自然体で、苦労したのに決して苦労したと言わず、慎ましく、ただ平凡に、でも限りなく非凡に生きて来た。

丁稚の時はまだまだ子供だった父は、よく寝小便をしたと思い出話をしていた。
今でこそ笑い話で聞けるが、子供の頃の父が、そのことでどんなに辛くみじめな少年時代だったろうか、私はかつての正夫少年の気持ちを考えると、可愛そうでならなかった。

やがて戦争になり、応召されたが戦地へ行く前に敗戦になり、戦地の経験はないままだった。
戦後独立して結婚、その時から、今の家にずっと住んだ。

若い頃は働きどおしで、私が小学生の頃は、私が寝る頃はまだ仕事をしていた。
多分、夜10時、11時くらいまでは仕事をしていたと思う。
日曜日も仕事だ。
だから私は子供の頃、日曜日に家族で出かけて食事をする、という思い出が一つもなかった。

後年…、もう私も40歳近くになってから…、父も母も年を取り、無理が出来なくなって来て休日には休むようになり、外で食事をする機会が増えて来た。
いい年をして私は両親とそうして店で一緒に食事をするということが、無性に嬉しかった。
心が弾むように嬉しかった。
昔出来なかったことを今取り返しているような気持ちだったのだ。
姉は、とうとうそんな機会もないままだったが。

姉はどちらかというと母親っ子で、私は父親っ子だった。

姉は父に触られたり、じゃれついたりするのが嫌いな性質だった。
ましてや父に裸を見られたりするのは、毛嫌いした。
私だってそれは好きではないが、偶然そうなったりしたら冗談で済ませられる。

去年の6月頃、私は腰を痛めたが、父に揉んでもらうとなぜか楽になるのだった。
それで、次の日も揉んでくれと言うと、父は喜んで揉んでくれた。
最後にはお尻を揉んだ。
くすぐったくて、ぎゃははと笑う。

去年…いやおととしの冬には、私は手先が冷たくなる性質で、仕事から帰ると手が冷たい冷たい、といつも言っていた。
父は、どれ、手をお貸し、と言って暖かい両手で私の手を包み込んでくれた。
父の手はいつも熱いほどなのだ。

私たち親子は、こんな、もう中年の娘なのに、もう老人の父なのにそんな風にじゃれあい、いつまでも恋人どうしのように仲が良かった。

姉だったら、こんな風に父に手を預けたり、腰を揉んでもらったりは絶対しなかっただろう。
そう言う意味では、残ったのが私だったのは、父にとっては良かったのだろう。
私と同じで、父は人を触りたがった。
この点でだけ、…私は父に孝行をしたかもしれない。

*

放射線治療を終えて退院し、次の病院へ入院…という時になって、医者に、高齢だから抗がん剤はかえって体力を消耗させるだけだ、という風に言われた、とこのことは母から聞かされた。

母は、医者があまり薦めないので、父と相談の上抗がん剤は止めるのだと言った。
どういうことか、私には咄嗟に何一つ分からなかったが、今になって思えばすでに手遅れで、末期だったという事なのだろう。
発見された時…というか、検査を受けるのが遅すぎたのだ。

それでも次の病院に入院して、最初の頃はまだ元気で、私がお見舞いに行くと、必ず病院の玄関まで、玄関から出て見送ってくれた。
母にもそうだった。
見舞いに来てくれた人には、そうやって見送っていたのだ。

父は相変わらず淡々と、穏やかで何一つ不平不満をもらすわけでもなかった。
あのころ、父の心持ちは一体どういうものだったのだろう。
どうしてああも穏やかでおれたのだろう。
それとも心の中では、さぞや葛藤があったのだろうか。


平成10年に父は、京扇子・京団扇伝統工芸士会の会長に選ばれた。

それまでずっと会長をしていた徳田さんが高齢で体の具合が悪いため、会長職を勇退することになったのだ。
徳田さんが相談役になり、それまで会計をしていた父が会長になるのだった。

父は最後まで会長になるのはいやだと言っていた。
雑務ばかりでじゃまくさい、というのが理由だった。
だがそれでもとうとう会長にさせられた。

父は嫌がっていたが、私は嬉しかった。
伝統工芸士会と言っても、たかだか3、40人くらいの集まりなのだが、父がその会長だというのは、私にはとても誇らしく、自慢だったのだ。

その年の、全国大会が静岡で開催された時は、一家総出で大騒ぎをした。
下宿している姪までが荷造りなどの準備を手伝い、やっとのことで静岡に送り出した。

そのあげくに、徳田さんは冴えてた、と言って、私と姪の失笑を買った。
物忘れが激しいから、こんな役は無理なのだとぼやく。
徳田さんかってやってはったんやろ、おとうちゃんより年上やのに、そやし出来るって、…と言って私は励ましたつもりだったが。

その会長職も、夏で辞めた。

もうやめるねん、と言った。
病気やから?
と聞いたらうんと言う。
相変わらずたんたんとして。

私はとても寂しかった。
父はせいせいしていたかもしれない。
でも徳田さんは何年も続けていたのに、父は1年ちょっとだけだった。

徳田さんは、お通夜とお葬式に来てくれた。
足が悪いので、杖をつきながら…。

「京の名工展」で何度も会った事があり、話もした。
素晴らしい扇の絵を書く人だ。

父も「京の名工展」には毎年作品を出品していた。
私は出来る限りいつもその展覧会を見に行っていたが、去年の最後の名工展は、休みと重ならなくて、どうしても行けなかった。
既に歩けなかった父は準備に行けず、母が準備に行ったのだったが。
最後の展覧会になるだろうことは分かっていたけれど、行けなかった。
それが、残念だ。

今年の4月には、どこかから勲章がもらえる事も決まっていて、その準備も進んでいた。
でもそれにも間に合わなかった。

*

父は何度かテレビ出演をしていて、それの最後のものは去年の春ころ、スカイパーフェクTVで放映されたものだ。
今私のもとに、テレビ会社から送られてきたその時のビデオがある。
検査前だったが既に痩せて来ていたころだ。

扇を折る手の動きも、若い頃と比べるとよほどスピードが遅くなっていた。
それはわざとゆっくりして、手の動きをよく見てもらうためだと父は言っていたが。

そういえば、私はそのビデオを、七夕の夜…父の病気を知った日の夜に一緒に見たのだった。

うちはスカイパーフェクTVには入っていなかったので、父もそれを見るのが最初だった。
ビデオの操作が分からないので私と一緒に見たのだ。

私の部屋で、二人きりで並んで座って、見た。
ほら、のらくろのぬいぐるみも写ってる、ひどい格好やな、などと言いながら二人でビデオを見た。

…ビデオを再生すればいつでも少し痩せた時分の父が出て来る。
残しておいてもらって良かった。
相変わらず穏やかで、たんたんと扇を折る父が、そこにいる。

 

[TOP| HOME]