10

02/10/10  紙ものが好きなこと
02/10/13  京都からまたノーベル賞受賞者が出た。
02/10/23  人は7オクターブ出るのか

02/10/23 人は7オクターブ出るのか

私は音域がアルトであり、女としてはかなり低い声で、しかも音域が驚くほど狭い。
まともに歌える範囲は一オクターブもないのではないかと思う。
ボキャブラリーの数くらいの貧弱さである。
しかし普段会話をする時には一オクターブもの音域を駆使するわけではないから、不自由はしていない。

ただポップス界では通常は裏声を使わないから狭い音域と言われてもぐうの音も出ない。
ポップス歌手にならなくて良かった。
ただし裏声を使えばかなり高い音まで出る。2オクターブは出る。低い声ならどこまでも出るからである。
オペラ歌手ならば通用するはずだ。
オペラ歌手になっておけば良かった。

 

それはともかく、数年前、某マライヤ・キャリーというアメリカの歌手が、7オクターブ出るという宣伝文句で売り出された。

この時、関西人のすべてが、
「お前はこおろぎか。お前は超音波か」
という突っ込みを某女性歌手に入れたはずだと私は推測する。

これはキャッチコピーを考えた宣伝会社に責任があるのであって、某女性歌手には責任はないかもしれない。
それにしても7オクターブはあまりにも荒唐無稽である。あまりにも人を馬鹿にしている。

7色の声というキャッチは聞いたことはあるが、7オクターブというのは尋常ではない。
人間ならば化け物である。
まあ大かた、7色の声から連想して宣伝係が勝手に安易に考えついたキャッチなのであろうが、嘘はいけない。
誇大宣伝である。
PL法に違反する。
食品ならば全品回収処分である。
某歌手のCDを店頭から回収されてもおかしくない。

いくら某が高い声が出るとはいえ、昆虫ではないのである。

 

私は某の歌を殆ど聞いたことがないので、果して7オクターブ出ていたのかどうか、それは確めようがない。
テレビかラジオでワンフレーズ聞いたような気もするが、その時に聞いた某の高音は、悲鳴と呼んでも差し支えないくらいの音であった。

あるいは、彼女は本当に7オクターブ出るのかもしれない。
ただ、人間にはそこまでの音を聞き取る能力が、現在のところない。
だから彼女は実は7オクターブ出しているのだが、普通の人間には聞こえていないという可能性もないではない。

たかが宣伝文句にあれこれ言うなと言われるかもしれないが、私は捨て置けない。
マライヤ・キャリーは嘘つきだ、というイメージが定着してしまった。
これは歌手にとってもマイナスであろう。

しかし宣伝係がシャレで7オクターブ出ると言っているのはまだ罪は軽い。

 

マライヤ・キャリーが来日した時、音楽評論家の湯川れい子が何と「7オクターブ出るという彼女の声を楽しみにしている」
などという記事を新聞に真面目くさって書いているのに驚いた。

音楽評論家であるはずの人物が、まことしやかに「7オクターブ出る」など書いている。
疑問さえ抱いていない書きぶりである。
どうやら7オクターブを信じているらしいのだ。
仮にも音楽評論家という肩書きをつけているならば、ちゃんと確めてから書け。
7オクターブがどういうことか、ちゃんと認識してから書け。
と私は憤慨した。
ポップス界はこんなでたらめが横行しているのか。

***

人間は、果してどのくらいの声が出るのか。
どのくらいのオクターブが出るのか。

大体、高い声が出る人間は音域が広い、という認識がポップス界にあるようだ。
高い声が出れば、オクターブが沢山出ると思われているらしい。
だが、高い声の人間が高い声しか出ないのならば、音域は狭いと言わなければならないのだ。
高い声だけがよく出るのではなく、高い声から低い声まで万遍なく出るのが音域が広い人間、と言うべきだろう。
その辺に誤解があるような気がしてならない。


この続きはFrom Kyotoにて書きますのでそちらをご覧下さい。

 

02/10/13 京都からまたノーベル賞受賞者が出た。

先日、ノーベル化学賞に京都在住の島津製作所の田中耕一氏が選ばれ、サラリーマン受賞者として一躍有名になった。

えらい大学の学者さんが受賞するならともかく(前日の小柴氏はこのケースだったから、皆の驚きも少なかった)、一介の市井のサラリーマンということで、もの珍しさも手伝ってテレビでは連日大騒ぎだ。

私も京都の人ということで並々ならぬ興味がある。
京都だからと言って別に関係があるわけでもないのに、人の心持というのは不思議なものだ。
同じ市に住んでいるというだけで誇らしくなるのはどうしたわけか。

受賞の発表の時、スエーデンのおじさんが、コウイチ・タナカ、シマヅコーポレーション、キョウト、ジャパンと言った時の何とも知れない嬉しさ、誇らしさ。

 

しかし、島津製作所といえば京都では有名で、あの河原町通りに面して古い社屋があり(決して新しく建て替えない)、その鉄柵には、ここまでおいで下さったら1度島津博物館へどうぞ、というような看板ナビゲーションが出ている。
時おり今なら入館料は無料、などという表示が出ていることもある。

その看板を見るたび、何だか涙ぐましいなとか、いじましいとか思っていたものだが、失礼なことを思ったものだ。
島津は明治から医療機器など、数多くの優秀な機器を作って来たのだった。
それらを誇り、展示するのに何ら不思議はない。

私はよく雛人形の島津と同じ会社かと混同していたのだが。
(だがマークが同じだという気がしたのだが…)

**

ところで田中氏は、その人柄もあり、まるで先ごろまでアイドルだったタマちゃん並みの人気である。
というか、マスコミにもてはやされているというより、遊ばれているような気がする。

どうにもいじくりやすい人物だからだろう。

はじめに作業着に不精ひげで会見に現れたのがまず受けた。
会見のさなかに妻に電話するさまもなぜか受けた。
何の肩書きもないのも、自分でも信じられないという素朴さ普通さも受けた。

こんなことでもなければ市長に会うこともないだろうから、と言う発言や、急にマスコミにさらされ狼狽するさまが見ていて面白い。

普通の人がとうとう首相にまで会うことになった。
グリーン車に初めて乗った、ということまでネタにしてマスコミは面白がっている。

田中氏は、ノーベル授賞式でダンスをしなければならないと、また困っている。
困るさまを見ているのが面白い。

思うに、このごく普通の人ぶりが日本列島全体でこうも受けた理由なのだろう。
マスコミと我々は、普通の人が突如有名になったらどのような反応をするのか、その狼狽ぶりを見て楽しんでいるようである。

*

でも田中氏は、あのように普通の人ぶっているが、決して普通のサラリーマンではないと思う。

その証拠にイギリスへ長く行っていただけに英語はぺらぺらだ。
(英語が出来ると普通の人ではないと思っている私)
たんぱく質がどうのこうのというあの研究だって、普通の人がやることとは思えない。

 

サラリーマンというが、いや、私が思ったのは、彼がサラリーマンだとすると、サラリーマンって、すごいんだ、ということだ。

取材を受けている子供たちは、すごいと言って目を輝かせていた。

日本は、特に若者や子供にとって、将来の展望が絶望的な国だったような気がする。
将来に夢を馳せることが出来るような希望の持てる国だっただろうか。

でも、田中氏は特別な人間ででなくとも、何かに特化した人間でなくとも、単に、日本人に一番数が多いであろうサラリーマンであろうとも、努力次第ではノーベル賞も可能なのだということを示した。

このことは、ひょっとしたら日本にとって、ものすごいことだったのではないだろうか。
何の変哲もない(かのような)人間だって、ひょっとしたら突然、脚光を浴びるかもしれないのだ。
将来、サラリーマンにしかなれなくても、ノーベル賞を貰えるかもしれないのだ。

いや、ノーベル賞を貰えなくたって、サラリーマンとは、あのようにすごいことをしている人なのだ。
普通だけれどすごいことをするのがサラリーマンなのだ。サラリーマンだって、捨てたものじゃない。それどころか、とてもすごい職業だ。それを田中氏はきちんと示してくれた。

そんな未来への希望を、子供たちや若者に紡いでくれたのが田中氏だったのではないか。
そんな風に思う。

 

02/10/10 紙ものが好きなこと

えらく前になってしまったけれど、9/17付けの日記で謎のままに終わってしまった人名のうち、最初の二人は判明が容易だろう(谷村新司と山村美沙)。
あと一人、マニエリスムの画家というのは、パルミジャニーノという。

この画家は大変面白い作風だったので、詳しく書いておきたいところだがそれはまた別の機会に…
「凸面鏡の自画像」という作品を挙げておこう。うーん、面白い。

さて最近、ファッションビルに入っている文房具売り場をうろついた。
そう言えば文房具売り場に行くのは久しぶりだと気づいた。

以前は、割と文房具など好きで、よくうろついていたような気がする。

 

紙ものが好きだったことを思い出した。
ノートが好きで、どういうわけかノートを集めていたのだ。

学生の時は大学ノートを使っていた。
大学になったら、確かファイルというのかバインダーというのか、それにルーズリーフを綴じておく。最早ノートさえ使わず、全教科をバインダーに一まとめにしていたと思う。それも黒い表紙の何の変哲もない、面白味のないものだった。

ノートに興味を持ったのはいつ頃だったか。
でも学生の時から、勉強に使うのではない、ただ何となく買ったノート、というのはあった。

日記はきらいで、間違いなく続かなかったし、日記を書く習慣もなかったが、ただ当時映画が好きで感想を書いたりするのに使ったり、物語を書いたりすることもしていて、そんなことに使っていたのかもしれない。
(もう思い出せない)

***

学校を卒業してだいぶ経ったある時、文房具屋で一冊のノートを見つけた。

それは表紙がモノトーンのゴシック調のデコラティブなもので、中に使ってある紙も凝っていて、わら半紙色というか、真っ白でなく、ちょっと古めかしくしつらえた焼けたような色の紙で、そこにも表紙と同じデコラティブなイラストが一ページごとに刻印されていた。

そのしつらえがひどく気に入って、そのノートを買った。
別に何に使うあてもないのに。
そして案の定、私はそのノートを使わなかった。

使うのが勿体無かったのだ。
あんまりきれいなので、鉛筆でノートを汚すのが嫌だったのだ。

ノートというのは、大体において、使ってこそその役目を果たすものだろう。
おおかたの人は、使うために買うであろう。

 

でも私は、ただノートという文房具が好きになったのだった。
文房具というより、紙で出来た美しい物体、という認識だっただろう。

それからノートというものを買うようになった。使うためではなく、ただ集めるために。強いて言えば、ノートがノートであるがゆえに、買うのだった。

私の好みの、デコラティブな装飾のされているノート、表紙とおそろいのワンポイントが入っていたりするような美しいノート、
スヌーピーや、アリスのキャラクター入りのノートも買った。
アリスは好きで、幾つか集めた。
アリスの絵がついていて、なおかつ特殊な版形のものはお気に入りで、それこそ使うなどとんでもなかった。

今でもそれらのノートは本棚にあり、使われないままのものもある。
アリスのさらのノートは今でも大事にしている。

もう何年も、少なくとも10年以上は前に買ったノートだ。
今思えばこれらのノートも、意識はしていなかったがコレクションということになるのだろう。

 

便箋と封筒も好きだった。

一時、「100の便箋」とか「100の封筒」とかいうシリーズで、全部違う絵の便箋や封筒がセットされているのが発売されていた。
私はあれが好きで、本屋などにも売っていたので、買わないまでも見るのさえ好きだった。
だがいつの間にか製造が終了して、店頭から消えた。

ワンパック買い、また欲しいと思って見に行けばもうなくなっている。
後悔した。
そのようなことは数多い。

 

便箋も封筒も、もうあまり使わなくなったし、使う人も少ないことだろう。
でも使わないにしても、きれいな便箋や封筒が好きだ。

滅多に行かなくなった文房具屋だが、この間行った時、とてもきれいな便箋と封筒が売っていた。
最近は一筆箋というのが流行っている。
皆おそろいの美しい絵柄で売っているのだ。
ロココ調というのか、装飾的で、うっとりするような色調の淡い色の写真が使われている。

何ときれいな便箋だろう…。
欲しくてたまらなかったが、衝動買いはしないと決めているので買わなかった。
だが、買おうかどうしようか逡巡しながら、昔、便箋や封筒や、ノートが大好きだったことを思い出し、少し懐かしくなった。

*

私は、これでもエコロジーを心がけているので、紙をむだ使いするのはいけないと思っている。
トイレットペーパーを使う時も毎日気にかけながら使う。

紙は木から出来ているから、紙を使うということは、木を無駄に伐採していることなのだ。
だから紙はなるたけ使わないほうがいいと思う。
大量に刊行されている漫画の週刊誌はまったくの無駄だと思う。
一刻も早く、漫画がすたれればいいと願っている。

町で手渡されるティッシュペーパーは何という資源の無駄使いだろうか。
あれを有効利用するため、私はなるべく市販のクリネックスなどは使わないで、町でもらったティッシュを使うことにしている。
であるからなるべく私に手渡されるように、配っている人に近づくのである。
私ならあれらのティッシュは絶対に無駄にはしないからである。

それほどエコロジーには気を使っている私であるけれども、紙ものが好きだという心の叫びはどうしようもない。
だから無駄とは知りつつ使わぬノートを買い、使わぬ便箋を買った。

 

あえて言い訳すれば、確かに使わぬノートは、書くことを用途として買ったのであれば無駄かもしれない。
だが、ただ欲しくて買ったノートは今も本棚にある。
何も書かれずに、だが大事に宝物のように、ただ眺めるだけのために。

大事にされ大事に残されているのなら、それはノートにとっては無駄ではない用途だったのではないだろうか。

02/10   TOP/

2style.net