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02/9/3  日本語本ブーム
02/9/6  引き続き日本語について 〜1000円からお預かりしますはおかしい〜
02/9/10 もう一度だけ日本語   〜させていただいています
02/9/17 ど忘れ …それも度が過ぎると…
02/9/30 エレベーターに関する困ったこと

9/30 エレベーターに関する困ったこと

お出かけをして、市井のデパートなどの建物に入った時、どうしても気になることが私には二つある。
その一つは、エレベーターに関することだ。
今回はこのエレベーターへの疑問について書こう。

*

デパートでは、エレベーターにエレベーターガールが乗っていることが多い。
しかし最近のデパートでは無人のことも多い。
デパート以外の建物では、エレベーターガールが乗っていることは、皆無である。

そこで、乗った人間がエレベーターを操作することになる。
操作と言っても、ボタンを押すだけではある。

しかし、私はエレベーターに乗るたびに、このボタンの操作に常に変わらぬ疑問が横溢するのだ。
そして疑問を拭い去れないまま、操作をし続けている。

 

エレベーターに乗ると降りる階のボタンを押し、閉じるボタンを押す。
これがまず第一に分からない。

まず降りる階の数字のボタンを押す。
しかし、先にドアを閉じるのかもしれない。
先にドアを閉じてから、降りる階のボタンを押すのか。それとも、降りるボタンが先か。

これでいつも私は迷うのだ。

コンピューターの操作なら、もう慣れている。と思う。
また、テレビのリモコンなどの操作、ビデオの録画、電話の転送、クレジットカードの操作などは、まあ出来る。と思う。
自分が特別ボタンの操作が不得意というわけではない。と思う。
しかし、自信はない。

*

私は、デパートなどの建物へ入る時、自動ドアでなく、手で開けるドアの場合にひどく迷うことがある。

ガラスのドアに、押す、あるいは引く、と書いてあるのだが、咄嗟にどちらの操作をしていいか分からないのだ。

 

ある時期、私は押すと書いてあれば引き、引くと書いてあれば押すという行為をしていた。
なぜなのか、自分でも分からない。
自分がこうだろうと思ってすると、大抵書かれてあることと反対の行為をしていたのである。

私はもともと、ドアを押していたと思う。
建物に入る時に、恐らく無意識に自分のやりやすい方法でドアを開けようとしていたのだろう。
私にとっては、押すという行為が、歩いて来た続きにする行為として自然であるとの無意識の認識があったと思われる。

だが、ある時引かなくてはならないドアに遭遇したのだろう。
それで、建物のドアは引かなくてはならない、という、これも無意識の学習をしたものと思われる。
それで、次の時に引いてしまい、実はそこは押すドアだった、ということが、多分あったのではないか。

そこで脳に混乱が生じた。

 

外から建物の中に入る時は、ほんのコンマ0.何秒かのわずかの時間である。

そのわずかの間に、ドアに書かれている「押す」や「引く」の表示を見てからその通りの行為をする、というのではなく、多分、ドアに遭遇したら条件反射的に手が押す行為をする、という風に脳があらかじめ決定しており、その決定どおりのことを、私はしているだけだったと思う。

だが現実には、ドアには押すタイプと引くタイプの二つがあり、どちらであるかを一瞬の間に脳が(無意識に)決定出来なくなったのだ。

すべてのドアが開けやすい「押す」というタイプだったのなら、私の混乱はなかったのだが。

 

エレベーターのボタンも、恐らくは、始めにはエレベーターに遭遇した時は、「こちらのボタンから押す」、という脳の無意識の認識はあったと思う。
しかし、他人の行為を見ていて自分の行為に自信がなくなった。
ひょっとしたら、人は自分とは違うボタンから押しているのではないか、という恐れをある時持った。

それ以来、脳はどちらかに決定することを拒絶し、未だにエレベーターに乗るたびに迷うのだ。

***

エレベーターのボタンで困ることがもう一つある。
実は、その方が私にとってはより深刻な問題である。

エレベーターのボタンには、各階の数字ボタンのほか、しまる、ひらくのボタンがある。

私は、このしまる、ひらくの認識が出来ないのだ。

 

開閉ボタンにも、エレベーターによって種類があり、漢字で書かれている分には問題はない。
「閉」「開」などと、丸いボタンに書かれている。

エレベーターが皆、これを採用しているなら問題はない。
私にとっては、漢字を一瞬のうちに認識するのはそう困難なことではない。

しかし、中にはアイコンで表示してあるのがある。

 

たいてい、三角形の記号が横になっていて、それで開くのと閉まるのを認識せよというのである。

それも、三角形だけの表示なら、まだ問題は少ない。

開くの時は、三角形がお互いに背を向けている。
閉まるの場合は、三角形が内側を向いている。

これくらいなら、まあまあ認識できる。だろう。

しかし、中にはドアを表わそうとしたのか、三角形にプラスして縦棒が表示されているのがある。
「閉まる」には両サイドに、「開く」には真中に一本縦棒が表示される。
こうなると、だんだん怪しい。

私の認識力が、だんだん怪しくなってゆくのだ。

中には、ご丁寧に矢印が書いてあって、ドアの動く方向を示しているのがある。
さらに私の認識力は混乱する。

一番悪いのは、三角形がなく、矢印だけのだ。
こうなると、もうアウトである。

アイコン製作者は、おそらく頭の悪い人間に分かりやすいように、三角形だけでは足りないとばかりにドアの印を書き、わざわざ丁寧に矢印を添え、間違いがないようにと念を押しているのであろう。

それが、私にとっては仇となるのだ。

私が、エレベーターに乗り、ドアが閉まるまではコンマ何秒かのわずかな時間だ。
そのわずかの時間に、アイコンの深い意味まで認識する能力が、私にはないのだ。

もう矢印アイコンでは、どちらがひらくでどちらがしまるのか、判断が出来ない。

さりとて、学習によって記憶しておき、条件反射として行動する、というにはエレベーターによって表示が違うため、咄嗟に記憶が引出せない。

漢字ならほんの一瞬で認識出来るのに、なぜなのであろうか。
そういう意味で、漢字は素晴らしいと思うのだが。
すべてのエレベーターのアイコン表示を漢字に変えてくれといいたいくらいだ。

 

私の頭からは、どんどん記憶と知識が抜け落ちてゆく。
脳味噌が、溶けてゆく音がするようだ。

 

 02/9/17 ど忘れ …それも度が過ぎると…

以前、仕事場でふとしたことからロシアの話になり、ロシアの前の大統領は何という名前だったかなと思ったが、その時咄嗟に名前が出て来なかった。

ゴルバチョフやろと話相手が言うと、いやゴルバチョフのあとで、プーチンの前、と言うが、そんな人いたっけ、と埒があかない。
そこをちょうど通った同じ仕事場の男性にも聞いてみるが、ああ、あの白くまみたいな人やろ、白い髪で顔がこんなで(とくしゃっと顔をつづめて見せる)、いたいた、あの人。
でも名前が出てこん。

結局、その場では分からずじまいだった。

しかし、名前が思い出せないと、妙に気になって落ちつかない。
思い出すまで、脳の中枢がむずむずしてしかたない。気持が悪い。

次の日、家で聡明な私の姪に聞いてみた。
姪は京都のR大学にストレートで合格した、見た目はとてもそうは見えないが、賢い娘である。
ほらあの人なんて名前やったっけ。
そうしたら、
ごめんなさーい、覚えてませーん
と言った。

ど忘れは私だけではないようだ。
誰しも突然に自分とは関連のない、興味もさしてない人物の名前を言えと言われても、咄嗟には出て来ないものなのかもしれない。

私と母が「利家とまつ」を見ていて、秀吉の母役の女優の名前を誰だっけ、と言い合ったこともあった。
二人ともその名前が出て来ない。

数日たって突然、草笛光子やろと母に言うと、母も合点していて、うんそうやったな、と母も既に思い出していたようである。

母に「昴」を歌っている歌手は誰だったか、と聞かれた時も、うーん…と名前が出て来ない。
顔や、歌声などはちゃんと記憶に残っているのだが、咄嗟に名前は出ない。
もとアリスで、もう一人が堀内孝雄で…と関係ないことばかり出て来る。

 

仕事場では、先の同僚の女性と、京都出身の女流推理小説家の名前は何だったかと首を捻り続けたこともあった。

あの縦ロールのすごくうざいヘアスタイルで、東山に住んでいる、家中ピンクだらけの人やろ、娘の名前が紅葉で…って、娘の名前まで出ているのに、なぜ本人の名前が出て来ないか。

 

まあ、このようなことはしょっちゅうである。

芸能人や政治家などは、関心がなければこのようなものだろうか。

では私の関心のある、というか極めて関心のある、愛してやまない絵画方面ではどうか。

私が勝手に「マニエリスム三羽烏」と呼んでいる3人の画家がいるが、ある時、もう何年も前のことなのだが、ブロンツィーノ、ポントルモ、もう一人が思い出せない。
(ある時どころか今も思い出せない。)

多分、絵画関係の本を本棚から引っ張って来たら、そこにちゃんと書かれているだろう。
しかしそれをすることは、私の頭がよしとしない。

バスの中でも、食事の時もあと一人、あと一人、誰だっけ…
と考え続けた。
しかし、どんなに考えても、どう頭を捻っても思い出せない。

その画家の描いた絵は思い出せる。
その絵のタッチ、妙に細長い人物、凸面鏡に描いた自画像、などは詳しく思い出せるのに、名前はとうとう出て来ない。

そうして思ったことは、ああ、昔ならこんなことを忘れたことはなかったのに。
即座に○○と出て来たのにどうしたことか、ということだった。

 

その時、非情に情けなかった。

他のものの名を忘れることはあっても、大好きな画家の名前を忘れるとは。

記憶というものは無くなってゆくものなのだと悟りはしたが、自分が記憶を無くしてゆくことに、無性に腹が立った。
自分が自分で信じられなくなってゆく、だんだんそうなっていくのではないか。
そんなような危機感。

それがショックだった。

今では、忘れていることがあると、あ、またか、で終わってしまう。

あとで思い出す事もあれば、とうとう思い出さないこともある。
何が思い出せなかったかを忘れてしまうこともある。

年を取ると、記憶力がだんだん鈍くなるのだ、と当面は自己弁護に走るが、頭のどこかでは近い将来、アルツるのでは、という懸念がある。
その可能性はかなりあるのではないか、とそれだけは冷静に考える。

 

買い物に出て、何か買わなければならないものがあったのに思い出せない。
ハガキをポストに入れ忘れて、数日間バッグの中に入ったままである。

冷蔵庫を開いて、何を取り出すのだったか忘れる。
2階から1階へ降りる。すると何をしに降りて来たのか忘れる。

だんだんひどくなっている。

集中力が衰えて来ていることと、関係があるのではないかと思う。

若い時は何かをしていても、そのついでに冷蔵庫を開けて、無意識に取り出すものを覚えていて取れるのである。

しかし、年を取ると、「何かのついで」や、別のことを考えたりしていると、頭がそちらに働かず、肝心なそのことに対する集中力が途切れてしまうのではないか。

集中力が衰えていることは、物がきちんと掴めず、すぐに落としてしまうようになった(笑)ことで明らかだ。

物を落とすのは握力が落ちたからではなく、指先にいたる神経に集中力が欠けて来たからであろう。

年を取ると、集中力を高める努力をする必要があるのではないか。

***

後日、母にロシアの前の大統領の名前を覚えているか、と聞いた。

すると、母は即座にエリツィンと答えた。

私と姪は、驚嘆した。

おばあちゃん、すごいー
と姪は言った。

母は、ニュースが好きで、政治家の名前も良く知っている。
しかし普段からもの忘れの多い人間なのだった。
あれ、とかほれ、とか、あの人、など、会話に代名詞をあまりにも多用するので、意味が良く分からない。

しかし、その日から、私と姪は母に対する尊敬の念を隠さなくなった。


 

文中、3人の人物の名前を明記しないままであるが、答えは、次回のDiaryの更新にて
それまでに思い出すであろう。

分かった方が教示していただくと景品が当たるかも??

 

 02/9/10 もう一度だけ日本語  〜させていただいています

日本語というのは大変にむつかしくて、きちんと喋るためには、神経を非情に鋭敏にし、細部まで間違いがないか確めてからでなくてはならない。
そのため、いつまで経っても相手に喋りかけられない。
外面的には、口を開けたままぼうっとしているという態度が見受けられる。

私が普段ぼうっとしているように見えるなら、それは言葉を吟味しているためなのである。

*

 

「ちょうどから」という言葉は接客という業界の接客用語だというが、いつ接客用語なるものが出来たのだろうか。

文法や、活用、語尾変化などを無視した、都合の良い言葉を使う風潮はいつから登場したのだろうか。
一体どういう理由で、「勝手な日本語」は使われだしたのだろうか。

日本人は、流行が好きだ。
流行にはすぐ乗り、すぐ忘れる。

言葉は、流行や時流にもっとも乗りやすい媒体だ。
簡単に覚えられるから、簡単に使われる。

流行が好きだという根底には、みんながしている、やっている、だから真似たいという、日本人独自の「皆がやっているから自分もやりたい」、「みんなと一緒がいい」思想がある。
流行に乗ること、あるいは先端を行くことがカッコいい事とされ、流行のものを使っていると、最先端と言って威張れる。

逆に言うと、流行にすぐに乗る人間は、確固たる自分自身のものがない人間、ということかもしれない。
自分自身の考えを持っている人間なら、世間で何が流行ろうと関係ないはずである。

***

 

少し前に、テレビを見ていて一番気になった言葉が、「〜じゃないですか」。

これは白状すると、私も少しく使ったことがあったが、「〜でしょう?」に置きかえることが出来たので、使用をやめた。

英語でもWhy don't you〜という言い方があるから、否定形を用いて問いかける、という技法はあながち良くない構文とは言えないような気もした。

しかし、これが流行った時、識者は「若者の、断定する事をきらう自信のなさを表現している流行語」、という分析をした。

とにかく、北原照久が言っている分にはふーんと聞いていたが、テレビに出ている誰もが使っているのを聞くと、鼻につき始めた。
耳障りな言葉になって来たのだ。
聞いていて不愉快になる。

流行語として我々が取り入れる時、それは聴いても発音しても不愉快にならないからだろう(例 何ですかー?、すんまそん等)。
不愉快になる言語は、やはりどこかがいびつで、耳にさわる。正常ではないのだろう。

私が今発見したことは、流行語として認められるのは、他に置き換えがきかない言葉、あるいは置き換えると面白味がなくなる言語ではないか。

〜じゃないですか、は他の言いまわしに置きかえることが出来、またその方が自然だし快い。
それでも業界人に流行ったのは、その言い方が安易で、「そう言っておけば安心」という、お手軽言語だったからだろう。

***

少し前に流行り、今も流行っているかもしれない言いまわしで、主に、「笑っていいとも」のテレフォンコーナー等(笑)で良く聞く言葉がある。

「○○さんと共演させていただいた時に…」
「○○(番組名)に出させていただいたんですけど」
「今度、○○さんの舞台に出させていただくんです」

 

敬語は日本語でも習得が一番難しい。

私もおろそかな事は言えない。自分でも正しい事を言っているとはとても言えない。
だから人の事を批判できる身分ではない。
けれども、この言い方は正しいだろうかと常に反芻し、常に正しい言い方で言おうという努力はしているのだ。
日本人であっても、100%正しい言い方をしている人の方が少ないかもしれない。
でも間違っていると気づけば恥に思い、正す、それが一般的な日本人のあり方だろう。

 

テレビタレントのような、○○○が○○のような人間の言語をあれこれ言うのは適切ではないかもしれない。

しかしテレビというものは大衆に影響の大きい媒体だ。
テレビを見ていて、いつ、聡明な一般大衆がばかなタレント言葉を真似ないとも限らない。

敬語も、丁寧過ぎると嫌味である。どころか、滑稽にさえ聞こえてしまう。
使い道を誤ると墓穴を掘るのが敬語だ。

 

「させていただいている」とはどういう意味か。
どういう意味で使っているのだろうか。

「させていただく」とは自分自らがでしゃばったのでは決してなく、誰かが自分に「いいように」計らってくれた、いいようにしてもらった、
という意味合いだろう。

自分がへりくだって、相手を立てる謙譲語のつもりだろう。
あるいは、相手(自分を番組に使ってくれたプロデューサーあたりか?)に対する尊敬の意味をを込めているのかもしれない。

(話しているその場にいない相手を立てるというのは、変だと思うのだが…)

ただ、問題なのは、自分がへりくだる事により、いかにも自分がへりくだった人間である、ということをアピールしているように聞こえてしまうことだ。
というよりも実際、そのことが目的なのだと思う。

必要以上にへりくだる事により、自分がいかに謙虚な人間であるか、を最大限にアピールするために使っているのだ。

この言葉を使う目的は、タレントがこのように「自分が謙虚である」「礼儀正しい」ということを(タモリや聞いている人に)知らしめるためであって、決して本気で「番組に出させてもらった」と思っているわけではない。

普通に、「あの番組に出演しました」で話は通る。

共演についても「誰それと共演しました」でいいのだが、しかし共演相手が大女優だとか、大俳優だった場合は「共演しました」ではそっけないと取られかねない。
だから、とりあえず「共演させていただきました」と言っておけば間違いはなかろう、という感じだ。

謙譲語を使っておけば間違いはない。
間違いはないが、普段使いなれない言葉を使うと、浮いて聞こえる。

あるいは、謙譲語というものを使ったことがないので、使い方が分からず、必要以上にへりくだるのかもしれない。
だから聞く側に、不自然で取ってつけたような印象を与えてしまうのだろう。

(ひょっとしたら、タレントマニュアルに書いてあるタレント用語なのかもしれない。
またはマネージャーにこう言えと言われているのかもしれない)

言葉というものは、その人となりを表わす。
普段から謙虚であれば、言葉使いをわざわざ云々しなくても、謙虚な人間だと分かるだろうし、その人の身についておらず、言葉だけでしかないものは、すぐにばれてしまうのだ。

タレントのような、「自分が自分が」というような性格の人間に、そんなものが似合うわけがない。

またタレントは、そうでなければやっていけない。
必要以上に謙虚だったら来る仕事さえ来ないだろう。
そんな人間には、謙譲語は似合わない。
別に使う必要はないと思うが。

 

 02/9/6 引き続き日本語について 〜1000円からお預かりしますはおかしい〜

前回の日本語の続き。

最近店に入り、物を買うとレジのお姉さんの言葉づかいが気になる。

「1000円からお預かりいたします」
というのだ。

これは、私が1万円を出したのに1000円と間違えられた、とか、私が1000円以下のものしか買わない、ということを言いたいのではない。

「1000円から」の
「から」がおかしいというのだ。

からとはどういうことか。

からとは、どこそこからどこそこへ、という方向を意味する助詞であろう。

主語が、移動する時に使うべき言葉なのではないのか。

1000円という金額を主語として、これに「から」をつけるのは、どういうことか。
あなた「から」、1000円をお預かりする、というのなら話は分かるが、1000円から預かって、どこに持って行こうというのか。

いつの間にレジ語では、金額を主語としてこの助詞が使われるようになったのだろうか。
この言い方は、いつの間にか使われるようになり、今では大変蔓延しているどころか当たり前の用語になっている。

私の父は、生前、休みの日にデパートへ行き、物を買って帰って来ると、いつも、
"レジの女の子が「から」お預かりします言いよんにゃ。からて。
ともこ(私の名である)もそない言うんけ"
と言うのだった。

*訳

からお預かりします、と女の子が言うのです。からなどと。
わが娘であるともこも、そのように言うことがあるのですか。

父は、喫茶店でも、レジの女の子が支払いの時に「から」て言いよる、と不満げだった。

父にはやはり、日本語として成立していない珍奇な言い方に思えたのだろう。

 

私が推測するところでは、この「から」は、恐らく
ただ「1000円お預かりします」だけではぶっきらぼうな感じがして、客を敬う感じがしない。丁寧な感じを出したい。
という、接客サービスの観点から、客に丁寧に対している、という印象を与えたい為に、簡単な言語で一見丁寧に対しているように思える言葉をくっつけて、丁寧に言っているように見せているのだ、ということではないか。

実際には、この場合「から」は全然いらないと思う。
いらない方が正しいと思う。

もし正しく丁寧に言うなら、では1000円をお預かりさせていただきます
くらいになるのではないか。

それをいちいち言うのが面倒で、「から」で済ませているのだとも言える。
そこで選ばれたのがなぜか「から」で、でも「まで」とか、「より」などでも良かったのではないか。
たまたま「から」が選ばれたのではないかと私は睨んでいる。

*1000円までお預かりします
とか
1000円よりお預かりします
とか

この「から」は、日本語として成り立っていない。

1000円を預かって、そこ「から」おつりを出す、という意味をも込めているのかもしれない。
2つであるべき構文を「から」で無理やり(でたらめに)一つにして、長く言うのが面倒なのを省略した、と言えるかもしれない。

 

しかし、レジ係は、おつりがなくて、ちょうど支払った時でも「から」と言う。
990円からお預かりします
などと言う。

ちょっと話が逸れるが、お金をちょうど貰ったら「お預かりします」ではなくて、「頂戴します」ではないのだろうか。

ちょうど頂戴します、でいいのではないだろうか。

しかし、つわものがいて、
ちょうどからお預かりします
という人がいた。

ちょうどから
とはどういうことか。
冷静に聞いたら爆笑ものだと思うが。

それで私はこの間、そしたらクレジットカードを差し出したらどう言うかな、と漠然と考えていた。
まさか、カードからなんて言いやしないだろうな。

しかし、現実にそれは起こった。

この前、京都駅前のP○鉄で買い物をし、支払いにクレジットカードを差し出したら、とても丁寧な応対をする男子だったと記憶するが、

ではカードからお預かりします

とはっきりと言ったのだった。

私ははっとして、思わず復唱する所だった。

カードから何を預かって、どこへ持って行くのか。

なぜ「を」と言えないか。この場合「を」で良いではないのか。
という疑問が深く残った。

丁寧なのは良いことである。
接客業には欠かせない。
しかし、丁寧に見せかける為に間違った用語を使うのは、客に失礼である。


追加

今日も買い物に出かけ、1000円からに遭遇した。
これは私がいつも買い物の時に1000円札しか出さないと言うことではない。

そのレジ女は、
1000円からでよろしいですか
と聞いた。
確認してから、では1000円からお預かりします
と言う。

そこで少し謎が解けたのだが、レジ女の言いたいのは、
1000円を預かって、そこから差し引いておつりを渡したい、
と言うことなのであろう。

全部言おうとするとあまりにも長くなるので、省略して件の言い方にしているのではないかという推測が成り立つ。
ちゃんとした構文で言えば、

預かった1000円から、おつりを払いたい
で、とりあえず1000円を預からせていただく

このような意味が見えてくる。

しかしそれにしても、今ひとつ釈然としない。

 

 9/3 日本語本ブーム

最近急速に「日本語本」と呼ばれる本群が売れているそうだ。

「声に出して読みたい日本語」だとか「これだけは覚えておきたい日本語」(あったかな?)「教科書の日本語」(うろ覚え(汗))だとかいう類いの本のことだ。
私も、低価格の文庫本に限り買って読んでいる。

私の買うのはおもにことわざの本当の意味、とかいう類いの本だが。

日本語に関しては自分でも興味があるのかないのか、今までは判然しなかったが、そういう本が発売されていると注目し、買って読んでいるのだから、自分の中ではきっと興味があったのだろうと思われる。
今までそのような本が書店で目に付かなかったため買っていなかったということなのかも知れない。

それはともかく、この日本語本ブームについてだいぶ前だが週刊文春が対談形式で取り上げていた。
8月始め頃だったかもしれない。
その時に日記に書きたかったのだけれども、どんくさく反応の鈍い私はそう思いつつ、忙しさにかまけてなすことが出来ず、つい忘れてしまって今ごろになった。

文春の対談では、なぜ今日本語本ブームなのか、という私の知りたかったことにはあまり触れられず、ただ良く分からない三者対談でしかなかった。
そこで、私は私自身で、なぜいま日本語本ブームなのか、を考えてみた。

しかしそう考えなくとも、すぐ分かってしまう。

それは昨今、急速に日本語が乱れているからだ。

乱れているのは、日常的に使う口語としての日本語である。

さんざん言われている、若者の流行語や、ら抜き言葉など、会話の中での日本語の使い方は、かなり激しい勢いで変化し、推移し、スタンダードな日本語が見えにくくなっている。

そのため、今一度正しい日本語とはどういうものか。それを検証したい、という大衆の無意識の日本語への危機感がこのブームを呼んでいるのではないか、
というのが私の分析なのである。えへん。

 

昨今の日本語の会話の乱れは著しい。
若者の流行語は推移が激しく、大流行した言葉でもすぐに死語になる。
チョベリバなど、今では誰も使わなくなっている。

ネットの人形用語でも、私がかねがね気になっていたのは、「バコドール」という言葉で、
「バコ」という言葉は、今までの日本語では絶対に変化しない音のはずである。
それでも強引に「バコ」と読ませて通用させてしまう。

私は、流行語が使われることに別に異存はないし、流行語がきらいでさえない。
できればどんどん使いたい方なのだ。
但し、その言葉が本当はブロークンな使い方で、本来は間違った用法である、という事をちゃんと認識してから使って欲しい、ということを強烈に思っている。

「バコ」と言って、さんざんそれを使っているうちにそれが普通だ、と思うようになって欲しくない、ということなのだ。
使っているうちに、それが当たり前のことになり、何ら疑問を感じなくなって来たら、怖いと思うのだ。

「バコ」という発音は、フランス語ではリエゾンと言い、前の音につられて語頭が変化する発音のことだ。
単体で発音する場合は変化しない。
「箱」と書いてバコと読む人はいない。

 

日本語本ブームは、危険な兆候であると先の文春の対談では言う。
反動につながり、歴史教科書の改ざん問題ともつながる、ナショナリズムの流行の兆しではないかというのである。
日の丸の法令化、教科書問題、靖国問題と通底するのではないかと。

私はナショナリズムはごめんだが、日本語本ブームをそれらと一緒くたにするのはいかがなものかとも思う。
昨今の国の右傾化には腹立たしい思いをしているし、このブームがそれらに利用されることは多いに考えられるかもしれないが、ただ今のブームは、単に日本語の乱れに対する反動だろう。

 

私は、日本語は美しいと思う。

豊かで深い言葉だ。
ナショナリズムではなく、言葉として日本語は優れていると思っているのだ。

無味乾燥な英語などと違い、ニュアンスに富み、含蓄があり、先人の知恵がつまっており、この言葉を使う人種は、それだけで豊かな文化を築けたと思う。

日本語にはさまざまな言いまわしがあり、ひとつのことを言いたい時に、自分でどれが一番的確かを選択することが出来る。
俳句という、言葉遊びによって四季の移り変わりを表現する文化も出来た。

その素晴らしい日本語という遺産を、日本人は失ってはいけないとも思っている。

漢字、ひらがな、かたかな混在の、何でもあり語でもあるが、それだけに奥行きも深く、世界でも類を見ない豊穣さを持っているのではないか。

この豊穣な日本語の、ほんのひとかけしか知らずに、殆どを使わないで終えてしまうのは勿体無い。

自分たちで考え出した言葉を使うのも面白いかも知れないが、もっともっと、日本語の奥の深さを知るとそれ以上に面白い世界があると思う。

日本語を大事にしようなどとは思わない。
もっと日本語を知り、楽しみたい。

言葉を知る事は楽しい。若い人には、もっと日本語を知って楽しんで欲しいと思うのだ。

日本語本ブームに、真に信用出来ないいんちき臭さも感じる。
確かに単に先人の知恵を称えているだけではなく、何らかの操作があるのかもしれない。
しかしブームに乗り、このチャンスに、日本語がいかに美しく、いかに豊かな表現を持った言語であるかを知っておくのは悪いことではないだろう。

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