ワールドカップ

02/6/28 ワールドカップ

02/6/28 ワールドカップ

ワールドカップの6月。いろいろなことがあったな…。
サッカー音痴だったはずの私がすっかり詳しくなって、ラインの上げ下げ、3バックなんて解説者の専門用語もクリアするくらいになってしまった。

 

サッカーは苦手だった。
というか、疑問だった。
はっきり言うと、嫌いだった。

運動音痴だから、もちろん自分で行なったことはない。だからスポーツとしての面白さは分かっていない。
また見るにしても、スポーツとしてルールが分かりにくいということがあった。

だらだらと走っているばかりで休憩がなく、山場もいつ来るか分からず、油断しているといつの間にか点数が入っている。
見ているのがいやになるスポーツという思いがあった。
点数が入りそうで入らない。これがいらいらする。

今回、日本でのW杯で世界から強豪が集まり、それらのチームの試合のレベルが高く、退屈しないで見ていられたことが、少しサッカーを理解することになったかもしれない。
点数が入らないにも理由があり、また入らなくても見入ってしまう試合があることも分かって来た。

 

だが私がサッカーに苦手意識があったのは、Jリーグ誕生時のあの騒ぎがあったからかもしれない。

選手はゴールが決まると変な踊りをしたり、走り回ったりする。
それに抵抗を感じた。
また、サッカーを見るファンのことを、ファンとは言わずサポーターと言って自分たちを差別化することにもむかつく思いがした。

 

ゴールをするといろんなリアクションをするのは、今回のW杯の各国の選手も行なっていた。
でもそれはいい。W杯だから。世界の強豪だから。
だけど、日本のたかがJリーグで1回ゴールにボールが入ったからと言って、どうしてそんなに大げさなリアクションをするのか。

これはバレーボールの選手が点数をいれた時、大きな男たちが肩を寄せ合って喜び合っているのと同じくらい見苦しいのだった。
とにかく、Jリーグは見苦しい。それが私の正直な思いだった。

すべて、形だけを、形から取り入れようとしたからだと思う。

新聞で読んだが、日本は子供がサッカーをしようという時、まずユニフォームをそろえる。靴をそろえる。
ボールを蹴る前に、まず形から入るのだと。

パラグアイのチラベルト選手は、子供の時家が貧しくてボールさえ買えず、グレープフルーツを蹴っていたという。
日本と、世界の違いはここだろう。

世界の選手がゴールすると踊っていたから、Jリーグでそれを真似する選手が続出した。実力も無いのに、形だけ真似るのだ。

 

サポーターにしても、自分たちがサポーターだと言って、ただのファンではないと何か特別な存在か何かのように勘違いしている人たちにいらついた。
彼らだってただのファンではないか。
阪神のファンと、どこが違うのか。

阪神のファンは、自分たちがどういう身分で、どういう存在か、ちゃんと分かっている。
その分だけ、阪神ファンの方が清いと私は思った。

ゴールを決めて、変な踊りを踊って、それで自分がすごい選手だと勘違いしてしまう。
結局それで満足して、世界との差など気にもかけない。醜悪だ。

 

大体ドーハの悲劇というのが気に入らなかった。

私はドーハの悲劇が何年に起こったことなのか殆ど覚えておらず、ただそのタイトルだけが記憶にあった。
フランス大会に出られなかったことだろうと思っていたら、日本はフランス大会には出ていたらしく、ドーハは94年のことらしい。
フランス大会に日本が出ていたことさえ知らなかった。

 

それはともかく、なぜドーハで負けたのか、それは日本が弱かったからだろう。弱かったら負けて当然だ。
それなのに惜しかったとはどういうことか。おこがましい。
実力がなかったから予選で負けたのだ。それだけのことをなぜ悲劇というか。

その頃の私の考えはそのようなものだった。
今も、「ドーハの悲劇」についてのその考えに変わりはない。

フランス大会(98年)は一勝も出来なかったという。
弱かったからだろう。
弱かったなら勝てなくて当然である。何の疑問もない。

 

世界に出ればそのように弱いのに、自国では惜しい負けと言い、悲劇と言い、自国のリーグでゴールを入れたら踊る。
サッカー選手というだけでちやほやされていい気になっている。
この意識の低さに、私はいらだっていた。

実力の低さにも関わらず、恰好だけは一人前、サッカー選手はスター並みに扱われ、選手もスターだと勘違いし、芸能界の女性は選手に群がる。
この程度の低さ、幼稚さ。
だからサッカーが嫌いだった。

形から入り、恰好だけは一人前な日本。
井の中の蛙。

サッカーはイギリスで始まったという。もともと裕福な階級のスポーツだったのかもしれない。
しかし、サッカー王国となったのは南米。
南米の貧しい国で、若者が一攫千金を狙おうとしたらサッカーしかない。
そんな状況で必死になって練習を積んだ者たちが発祥の地よりも強くなるのは当然だろう。

日本のように物に恵まれ、まずユニフォームを作ってからボールを蹴り始めるお坊ちゃん気分の国が太刀打ちできるはずが無い。

***

2002年、私がテレビで見た日本の選手たちの姿は、あのころのJリーグとは、まったく違うものだった。

あのころの奢りかえった選民意識はない。
ただひたむきにボールを追っている。
自分たちが世界の中でどのような位置にいて、どこまで世界に通じるのか、どこまでやれるのか。それに真摯に挑戦する姿があった。

インタビューに答える選手の姿にも、地に足のついたしっかりした考えが各選手にあることを伺わせた。
ゴールを決めて喜ぶ時、大げさな動作はなく、しかし自然で嫌味もない。
そのことが、成長だと思った。

しかも、世界と互角に勝負出来ている。
トルコに負けても、悲劇という言葉は使われなかった。それだけでも成長だ。

***

お坊ちゃんサッカーには、悪い面もあるがいい面もある。

外国のスター選手に対する、純粋な憧れ。
上品なサッカー。人の良さ。
それは勝負の時には欠点になるが、でもそんなうぶなところが日本の良い所でもある。

他国の選手にも声援を送る。
負けても相手を罵倒しない。
ただ、ロシアに勝った時の馬鹿騒ぎだけがいただけなかったが。

 

日本人は、多分、あの競技場内(ピッチというのか?)で、ひどい反則技は出来ないと思う。
審判の目を盗んで行なう反則技は、私はあっても仕方がないと思う。
でも、日本人の中に進んでやろうという選手はいないだろう。

日本人は世界一公平な人種だ。

イギリスの選手を応援し、イタリアの選手に黄色い声を上げ、ブラジルの技に舌を巻き、ドイツの選手に拍手する。
いいプレイを見たら賞賛する。

そんな日本人は、いいなと思う。
特に日本が敗れたあと、各国に対する日本人の態度は誇ってもいいものだ。

それは、日本人の考え方がグローバルというのではなく、ただのお坊ちゃんの、おぼこい人の良さなのだ。
そこがいい。
何が何でも、とがつがつしていない。
勝負になればそれが必要にもなるが、上品ではない。

今は、日本は上品でいて欲しい。
上品なりに、うんと頑張ればもっと上も望めるだろうから。
限界を感じた時に、下品なり、がむしゃらなりの戦い方を覚えればいい。
でも出来るならば、日本はその良さを磨いて欲しい。

世界の中で自分の位置を確め、そのことで自分を高めることが出来た日本。
日本が好きになったのだった。

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