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02/3/8 古いAV機器のこと
02/3/11
父の誕生日
02/3/31
ビリー・ワイルダー

02/3/31 ビリー・ワイルダー

ビリー・ワイルダーが亡くなった(3月27日)。
享年95。大往生と言ってもいいだろう。

私はワイルダーの映画を沢山見ているわけではない。
映画監督としてはだからよく知らないので、好きな監督といえるかどうかも分からない。

彼の全盛期の作品では、マリリン・モンローの「お熱いのがお好き」を見ているくらいだろう。
「失われた週末」も、「サンセット大通り」も、「アパートの鍵貸します」も、「麗しのサブリナ」も、「昼下がりの情事」も満足に見たことがない。

 

ただやや下降期の作品である「シャーロック・ホームズの冒険」(71年)がやみくもに好きだ。

私はシャーロキアンというほど詳しくないし、中途半端なのだが、探偵小説好きだけあってシャーロック・ホームズがことのほか好きだ。
ワイルダーのその作品は、うるさ型のシャーロキアンでさえ泣いて喜ぶような、凝りに凝ったホームズのパスティーシュ(贋作)だったので、私も大喜びしたのだった。

 

ロンドンのコックス銀行から、50年間封印されていたワトスン博士の遺品が陽の目を見る。その遺品の中には、ワトスンの書いた、未発表のホームズ物語の原稿があった…
という出だしからしてマニアックだ。

コナン・ドイルの書いたホームズの「聖典」には、ワトスンの原稿はコックス銀行に保管されているという一文がちゃんとあるのだ。

ホームズのパスティーシュは、この映画が期になって流行り出したのではないかとさえ思っているくらいだ。
この映画のあと、どんどん「新しいホームズもの」が本屋を賑わすようになったからだ。

ビリー・ワイルダーといえば、その作風は、粋でユーモラスでしゃれている、という風に理解されているだろう。
彼は、相棒のI・A・L・ダイアモンドという人と共同で、脚本も自身で書いている。
そのせりふ回しが粋なこと、愉快でおしゃれなことは比類がない。

「ホームズの冒険」でも、埃だらけの本だなの掃除をした下宿屋の女将のハドスン夫人に、ホームズがなぜ掃除をするのかと怒る。
「だってこのくらい埃がたまっていたんですよ」
とハドスンさんはむっとしながら人指し指と親指を1インチくらいあけて見せると、ホームズは、
「それなら1889年の資料集だ」と言ってのける。

ワイルダーの映画にはこんな粋なセリフが随所に散りばめられているものだから、楽しかった。

「お熱いのがお好き」も、幕切れのセリフが未だに語り草だ。

「完全な人間はいないよ」
"Nobody's perfect."

あらゆる映画の中で、最も有名で印象的な、そしてオカシな名セリフだろう。

 

ビリー・ワイルダーはオーストリア出身のユダヤ人だった。
ドイツに出て来て新聞記者の仕事のかたわら脚本の勉強をしたが、時はナチスの時代。
ユダヤ人狩りを逃れてアメリカに渡り、ハリウッドで脚本を書き、監督として成功した。

おりしも、今年のアカデミー賞が決まった。
受賞者はそれぞれ、感激のスピーチをしたことだろう。
(私は昨年くらいから授賞式を見る事が出来なくなり、そのせいか興味が薄れてしまったが)

ワイルダーは何度もアカデミー賞を貰った(と思う)が、1987年、功績を称えられて、アカデミー賞のひとつアーウィン・サルバーグ賞*というのを受賞した。

*これは事前に受賞者が決まっている賞。

私はその時の授賞式を、テレビで見ていた。
そのころは、オスカーの授賞式を何と民放で放送していたのだ。

その時のワイルダーの受賞スピーチは今でも忘れられない。

 

彼は1943年ナチス・ドイツを逃れアメリカに亡命しようとした。
メキシコ経由でアメリカに入ろうとした時、その国境で止められる。
ワイルダーには正式の入国許可証がなかったのだ。
アメリカ領事館に出頭したワイルダーは、一人のアメリカ人の係官と対面した。

もし入国許可が降りなかったら、ワイルダーはドイツへ強制送還される。
それはユダヤ人である彼にとっては収容所行き、…つまり死を意味する。
彼は覚悟をした。

係官は、ワイルダーに職業はなにかと聞いた。
ワイルダーは、
映画の脚本を書きます write movies
と言った。

係官は、そうかと言い、しばらくして
それでは、良い脚本をお書きなさい、
そう言って許可証をくれた。

ワイルダーは賞を受けたことが、沢山の人のおかげであると感謝をしたあとで、しかし最も感謝しているのはこの、自分の命を救ってくれた名前も分からない係官だと言った。
彼のおかげで今日ここに立っているのだと。
彼の励ましの言葉の通り、常に良い脚本を書こうと努力して来た。
彼に感謝する、とワイルダーは締めくくった。

 

さすがに名脚本家であるワイルダーだけあって、見事なスピーチだった。
古今のアカデミー賞授賞式でのスピーチの中で、最も感動的で、素晴らしいスピーチだったと思う。

丸顔に眼鏡が愛嬌たっぷりで、人柄の良さが現れていた。
ビリー・ワイルダーの冥福を祈ろう。


参考資料  「アカデミー賞」中公新書 川本三郎 1990

 

02/3/11 父の誕生日

母の誕生日は12月の半ばだ。父は、毎年、その日の朝になると「お母ちゃんのケーキ買うてきてんか」と言って、母に内緒で私にお金を渡した。
父が亡くなって始めての母の誕生日、去年の暮れからは、父の遺志をついで私が、と言って母にケーキを買って来たら母はふふと笑った。

私は母に誕生日のプレゼントをしたことがない。
母の日に何がしかしてそれで終わりだ。
でも、いつもは南座の顔見世に私がチケットを買って、毎年二人で行っていた。
それが母の誕生日と、クリスマスプレゼントの代わりだった。

父に対しても、父の日にはいつも何かをしていた。
でも誕生日には何もしたことがない。クリスマスプレゼントも、したことがなかった。

 

私にはクリスマスプレゼントというものは、私があげるものでなく、人にもらいたいという思いが強かったのだ。
いつまでも子供だから、もらいたいと思う。
でも誰も何もくれないから、いつもがっかりしてばかりだ。

年を取るにつれて、年を取ることがだんだんいやになって来て、誕生日になっても少しも嬉しくなくなるものだ。
でも誕生日に何かをもらいたいと思う欲ぞうしさだけは、いつまでも変わらないのだ。

 

父の誕生日に何もしなかったのは、訳がある。

父の誕生日と、私の誕生日が同じ日なのだ。

誕生日が同じ日だから、私から父に何かを上げるのも変だ。
二人ともその日は他の人に祝ってもらうのだから、自分たちでプレゼントをしなくても良いだろう。

 

父が亡くなった年の3月、もちろんその時は、年内に父が逝ってしまうなんて思いもしなかったのだが、なぜかその時、私は思い立って父にプレゼントを買った。
始めて買う、父への誕生日プレゼント。
それは、59円の紳士用靴下だった。

ばかみたいなプレゼントだ。

それを父に渡すと、―もちろん父には金額は言わなかったが―、父は、ひどく喜んで、そうかそうかと言って、嬉しいと言って、おおきにおおきにと言って、受け取ってくれた。
単に、喜んで見せてくれただけだったのかもしれないが。

でも私は思った。
自分の誕生日だから、自分の方が何かをもらいたい…そればかり思っていたけれど、そうして私から何かを上げて―たとえつまらないものでも―、それが喜んでもらえることなのだったら、もっと前から私は、自分から何かをあげたら良かったのだと。

もらいたい、という気持ちばかり強すぎて、喜んでもらうことを考えていなかった。

結局、父の誕生日に何かを上げたのは、その一度だけだった。

 

母に聞いたが、父は、私と誕生日が同じ日だということを、誕生日近くに行なわれる町内の親睦会の時、近所の人たちにいつも言っていたという。
父は、私と誕生日が同じ日だということを自慢していたのかもしれない。

 

いつも一緒に年を取っていたけれど、今は私一人で年を取る。

 

02/3/8 古いAV機器のこと

レコード屋さんというか、CDショップへはあまり行かなくなったが、たまにデパートにあるショップを覗いてみると、このごろ大幅に増えているのがDVDだ。

実はあまりDVDについてはよく知らない。
世の中の進化に遅れ、取り残されているので、DVDというのが録画出来る媒体なのか、とかいうことが分からない。
分からないけれども、世間にかなりの早さで浸透しているディスクであるらしいことは分かる。
その証拠に、昔ビデオを売っていた場所にDVDが侵入して来ている。
ビデオの場所はだんだん少なくなり、種類も少なくなり肩身が狭そうだ。

ビデオというのは、もうすたれているのだろうか。
ビデオを買う人は、だんだん少なくなっているのだろうか。そんなことさえ私にはもう分からないのだ。

***

この間、オリンピックを見るためにテレビを買い換えた。

電気屋の人が取り換えて行ったのだが、私が配線をしていた、テレビと様々な機器を繋いでいたコードをそのまま新しいテレビに付け替えて行ってくれた。
その時も少しく感じたことなのだが、改めてよく考えるととても恥かしいことだった。

私の部屋には、レーザーディスクのプレーヤーがあるのだ!

LDプレーヤーというのは馬鹿でかくて重い。こんな大きいAV機器は今ではどこにもないはずだ。
このような代物を今でも持っている人間が果して生息しているだろうか。
もちろん私だって今はもう殆ど使っていない。
レーザーディスク自体が売っていない、ということも原因としてある。
しかし別に壊れてもいないから捨てる理由もないので捨てない。

こんなものまで配線をしてくれなくてもいいのに、電気屋のお兄さんは律儀に繋ぎ直し、動くかどうかを確める。

今は皆、世間の人間は、多分DVDとやらに買い換えて、小さい面積で、置く場所も取られず映像を堪能しているのに違いない。
恥かしさで縮み上がりそうであった。

電気屋さんは、ここは一体いつの時代だ、と息を飲んだことだろうと推測する。
部屋に入った途端、時間が止まっている、或いは、過去にタイムスリップしてしまった、と慌てたのではないだろうか。
しかし件のお兄さんたちはうろたえもせず、顔には心の動揺をおくびにも出さず、淡々と配線をして、何事もなかったように帰って行った。
プロであると感じ入った。

私の部屋にはまた、LDプレーヤーの他、ソニーのピクシーという、いつの頃のものかもはや定かではないミニコンポがあるのだ。

今もピクシーという名前が生き続けているのかどうかも知らない。
それはなんとダブルデッキ(カセットデッキ)つきなのだった。

今は多分、みなはMDとか、CDとか、CDRとか、そういったものを使っているのだろう。
カセットデッキなどという年代物は自然淘汰により多分絶滅しているはずだ。

しかもこのピクシーはカラオケポン機能といって、ボタン一つでボーカル入りの曲のボーカルを消し、即自分でカラオケが楽しめる、という機能がついているのだ。
このような機能がついているMDプレーヤーがあるのかどうかは知らないが、おそらくは皆無であろう。
今どき部屋でカラオケをミキシングして楽しんでいる若者がいるだろうか。
そんな奴はいないだろう。

私は恥かしい。
かつては、カラオケポン機能を楽しんでいたのだ。
ちゃんとボーカルは消えなかったが。

電気屋さんはプロであるから、多分、このミニコンポがダブルデッキつきで、カラオケ機能つきであることを一目で見破っただろう。
心の中の、彼らのせせら笑いが聞こえてくるようだ。

 

私は、このミニコンポをテレビと繋いでいた。
つまり、コンポのスピーカーでテレビの音を聞けるようにという、無意味な接続をしていたのだ。
私にしてみれば、テレビの音を録音することが出来るようにとの配線だった。

こうしておけば、ビデオの、ゲイリー・オールドマンがシド・ヴィシャスを真似て歌っているマイウェイなどがカセットに録音出来るという、実に実用的な配線なのだった。

しかし電気屋のお兄さんたちが首をひねりながら繋ぎ直しているのを見ていたら不安になった。
これはプロから見たら非常にあほなことをしていたのではないか。
或いは、電気屋さんは単に古すぎるコンポを新品同様の状態で保っていることに、感嘆していたのかもしれないが。

いずれにしても、古いコンポでマイクミキシングしたり、テレビ音を録音したりすることは、遠い昔日の、はるかな日の、古きよき、セピア色した趣味なのだろう。

 

もう何年も使っていないが、私が所持するウォークマンは、カセットテープ式のウォークマンである。
テープを聞き終わったら、カセットを入れ替えなければならない。
その時、自分が使っているウォークマンの機種を他人に見られるかもしれない、と思うと、あまりの恥かしさにそんな大暴挙は死んでもしたくないと思う。
それくらい古いタイプの、いつの製造かも定かではないしろものだ。
しかし壊れもせず、いたって丈夫なので捨てる気はない。
使える限りはまた使う。

他人に自分の使っているウォークマンが古いことを悟られたくないという意味のことを書いたが、本当は、私はそういうことは平気である。
いかにそれが古いかということを強調したかったための強調構文なのである。

私は、もの持ちがいい人間なのだろう。
なかなか捨てることをしないし、したくない。
使える限りは、それを使いたいと思う。

しかしまだまだ使えるからと思って使っていると、世間一般ではいつの間にかそれが古いものになっていて、顧みられなくなっている。
慌てて世間を見渡してみると、いつの間にか自分がAV機器浦島になっているのだ。

私は未だにMD関連の機器を持っていなくて、したがって、MDを録音したこともない。
買ったこともない。
DVDにおいておや。

それは私が若者ではない、という事実にも関連するだろう。
音楽を録音するという行為は、若者しかしないからだ。
だから私がMDを持っていなくても無理はないのだと思う。

年よりは年よりらしく、古い機器で、古い音楽を、古い録音のし方、古い聴き方で楽しんでいるのが、その身分に似合っているということだろう。
それで不自由がない限りは、新しいものに変える必要はないだろう。
浦島でもかまわない。
古いピクシーでも、可愛がれば良い音を出してくれるかもしれないから。

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