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02/1/12 お正月の買い物/小沢征爾の言ったこと
02/1/21 成人式が話題に

02/1/21 成人式が話題に

去年荒れた成人式が各地で今年もいろいろと話題になった。
これは、私には良く分からないことだった。

去年、成人式に出て騒いだ人たちも良く分からない。
そんなに成人式がいやなら出なければ良いのに、違うのだろうか。
来賓の話が長くていやなら、欠席すればいいのに。

成人式は、学校の始業式や、終業式でさえないのだから、どうしても出席しなければならないという義務はないと思うのだが。

 

私は、とても遠い昔のことになるが、成人式には出席しなかった。

当時は70年安保の残光をまだ引きずっていたころだったのだろう。
役所のお仕着せの式典などに出るということを、潔しとしない風潮があった。
また、そんなことに意味がないと私も思っていた。
私は日本的な風貌をしているが、晴れ着にさえ興味がなかった。

当時は着物を着ることに何の興味もなかったから、成人式で着物を着ると言うことにも何の魅力も感じていなかった。
その日だけ、皆が着るからというだけの理由で着ようという、そんな発想は、私の気持ちの中には全然浮かんで来なかった。

*今は着物にも興味が出て来て、簡単な着付けが出来ればいいのにと願っているが。

さらに、20歳になる、ということに特別な感慨もなかったし、今の世の中で特に意味があるとも思えなかった。
学校に入り、卒業する、そのことの方が現代ではずっと重要な儀式であって、古来の通過儀礼が現代に残っているとすれば、むしろその方だと思っている。

 

成人式に行けば、昔の友人たちに会える、というのを理由に挙げていた人たちもいるようだが、それならば同窓会を開けばいいのではないのだろうか。
その方が自分たちだけの顔見知り同士で騒げるのだから、公共の場で騒いで顰蹙を買うより、はるかに理にかなった方策だと思うのだが。

なぜわざわざ、退屈で、いやな成人式に出るのかの理由が分からない。

ある新聞では、「公共の場で騒ぎたい、目立ちたい」という気持ちから、若者は成人式を選んで騒ぎを起こすのだという。
そのような幼稚な自己顕示があのような騒ぎのもとらしい。

そうだとすると、成人式という、一生に一度の場でしか、騒ぐ機会がないというのなら、彼らは何だかとても気の毒になるのだが…
だが、彼らはどこへ行っても、何かを口実に騒ぎを起こそうと狙っている人種なのかもしれない。

瀬戸内寂聴氏*は、テレビでインタビューを受けた新成人たちの意見(というかただのお喋りか?)を「中学生並み」と評したが、それは中学生に失礼だ。
「幼稚園並み」というべきだろう。
だんだん、人の精神年齢が下がって来ているのだ。
人のことは言えないが。

*瀬戸内寂聴氏はあまり好きではないが…
(今東光の弟子というところに臭さが…)
でも彼女の言っている事には頷けることが多い。

成人式については、瀬戸内氏が、もうやめたらどうか、と言っていた。
そうかもしれない。
行ったことがないのでどのような式典なのか分からないのだが、式の費用は税金から出ているらしい。
税金であのようなことをやる必要はないだろう。
はるか昔に成人した自分はこのようににべもなく考えている。

今年はディズニーキャラクターが出演した成人式もあったが、今後、このような「ご機嫌取り成人式」が流行るような予感がする。
そんなことにお金を使わないで欲しいものだ。

 

02/1/12 お正月の買い物/小沢征爾の言ったこと

今年…というか、この冬に新しくブーツを買った。
(私にしては)少し高かったが、ワンサイズ大きめを買ったので、ふくらはぎ部分があまっている他は気に入っている。
ベネビスという通信販売で買ったのだが、ショートブーツで、ファスナーが一番上まで引っかからずにさっと上がるのがすぐれものだ。ヒールの高さもちょうどいいし、ただ、つま先が広いので、どうかするとただの長靴に見える所が難だ。

 

年が明けてすぐにバーゲンが始まっているので、かばんも買いたいと思った。
すごく可愛いのが欲しかった。
流行りのふかふかのファー素材で、仕事にも持って行けるように、お弁当とA4サイズの本が入るくらいの大きさで、ショルダータイプで…などと構想していた。
そしてかばんの他に、新しいコートも欲しいと思っていた。

コートもすごく可愛いデザインが欲しい。
えりと裾にファーがついていて、少しAラインで、ウエストが絞ってあり、ジャケットより少し長めの丈で…なんて構想する。
今は、ブルゾンとか、中綿入りのビニール素材とかの、スポーツタイプのものが流行りみたいだ。
私は、スポーティなのは好きではなくて、ドレッシーなのが好きなので、流行には目もくれず、ひたすら可愛いのが欲しいのだ。

でも、かばんにコートまで新しくしては、お金がとうてい足りない。
それでコートは諦めた。
かばんは、バーゲンで2000円のものにした(笑)。

お人形にもお金を使うから、自分にはそんなにお金をかけられないのだ。

それでも、本当はコートも欲しかった。
かばんも、春になれば本当にもっと長く使える、あまり流行に関係のないようなものを買いたい。
今使っているものは慣れていて、それが便利なのだが、いろんなものを入れるから、かばんの底がすっかり汚くなっているのだ。
それ以外ではどこも悪くなっていないし、とても気に入っていたかばんだ。

私は出来るだけ物は長く使いたいし、それを実践しているつもりだけど、昔からかばんが好きで、いいデザインのものがあると、つい心が惹かれてしまう。
安いものではないので、なるたけ我慢をするし、今ではお金がないので買わなくなった。
でも、たまにデパートで見たりすると、今こんなのが流行っているのか…と、とても羨ましくなる。
羨ましい、というのは、私には買えないので、こんなかばんを持てる人が羨ましいと思うということだ。

 

でも、デパートではなく、もっとざっくばらんな所に行くと、かばんでもとても安くで売っていることがある。
合成皮革で、皮に似せたものなどはとても安い、ブランド品に似せた、偽のロゴ入りのバッグなども安い。
でも、皮に出来るだけ似せた合皮素材っていうのは、何となくいやだ。
始めからナイロン製、という方がずっといい。

今回買ったのは、ショルダータイプではなくて、トート型だった。ショルダーはなかったからだ。
今はトートバッグが流行りみたいなのだ。
買い物に出て、そうか、今はこんなのが流行りなんだなと確認する。
買ったかばんは、フェイクファーで大きいから、まあまあかなと思うが、やはり私にはショルダータイプの方が使いやすい。
持っていると、腕が異様に疲れる。

仕事の時には、お弁当のほかに水筒も持って行くから、かばんが結構重くなる。
今までショルダーだったらさほど重みも感じなかったのに、トートにした途端、重くてしょうがない。
5分くらい持ったら手が痛くなってしまうので来て持ち方を変える。
トートバッグは、今みんな持っているけど、私にはやっぱり重すぎて向かないようだ。

買ったのはお遊びのかばんと割り切ることにした。

***

私は、物を買うと、何だか、一度は後悔するみたいなのだ。
こんなの、買わなければ良かったとか、もう少し探せばいいのがあったかもしれないとか、つまらないものを買ってしまったとか…。
安くで手に入って良かった、と思うものの、安いから買ったけど、すごく駄目なのを買ってしまった…とか。

どうしてこんなにうじうじしてるんだろうと自分でも思うけど、しようがない。
まだ使えるのに、新しいものが欲しくなるんだから、ものを無駄にするなと神様が怒って、私にそんな風に後悔の嵐を吹かせるんだろう。

ブーツだって、まだじゅうぶん履ける編み上げのを持っていたのだ。
でも、最近のはそのブーツよりもう少し筒丈の長めのが流行りなので、それがとても可愛く見えて、欲しくなってしまった。
コートだって、今着ているのはもう10年くらい着ていると思うけど、まだあまり痛んでいない。そしてまだ2着くらい、あまり着ていないのがある。
バッグだって…。

もっと、無駄をなくさなくちゃいけないなあ…


この前のウィーンフィルのニューイヤーコンサートの項で、小沢征爾について書きそこねたことを書いておこう。

私は、小沢征爾が好きでもきらいでもなくて、はっきり言えば、あまり関心がある方ではない。
でも、小沢氏の人となりについては、何となく岡本太郎的だと思っているのだが、どうなのだろう。

あの指揮者には、何だか、あっちの方にイッているようなそんな雰囲気がそこはかとなく感じられるような気がするのだ。

だが一番似ていると思うのは、オノヨーコだ。

小沢征爾も、オノヨーコも、感覚がグローバルである。
日本人という、狭い人種としての考え方をしていない。
というか、日本人の島国根性とか、外国に対する独特のコンプレックスが、彼らにはちっともない。

世界人として、日本人としてではなく、人間として自分の信念を持っており、その結果、世界へ行っても臆することなく自己を声高にではなく、しかしきちんと、しなやかに通している。
日本人には珍しいタイプの感覚を持っている人たちだと思うのである。

 

その小沢が、例のNHKのニューイヤーコンサートの放送でのインタビューで、
"昔は音楽は、人にとっては必要のないものだと思っていた。何の役にもたたないと思っていた。でも最近そうではないと考えるようになった。
音楽は、世界中の人びとの気持ちを楽しませたりなごませたりすることが出来る。
だから少しでも、人々の心を楽しくしてあげたいと思う…云々

大体このような発言だったと思う。*

 *違っていたらすみません。

明らかに昨年9月に起きた、同時多発テロを踏まえての発言のように思えた。

 

私も、趣味の領域に関するもの…映画とか、本であるとか、音楽、絵画…そういったものは、人間が生活していく上で、人間が生きていく上で必ずしも必要な物ではないし、そういったものは多分無駄なんだと思っていた。

映画を見たりしても、そんなことより、ご飯を作ったり、掃除をしたりすることの方が大事なんだと思っていた。
だからそんな無駄よりも、生活することをもっと見つめなくてはいけないんだと思っていた。

でも、イエス様も、ある家に招かれた時、こういうことがあった。

その家でイエスが説教をしている。
その家の姉は炊事に忙しく働いている。しかし妹の方は、仕事などせずにイエスの言葉を、イエスの傍らに座って聞いているだけ。
姉がたまりかねて、妹は忙しいのに全然手伝おうとしない、イエス様どうか妹を怒ってくださいと言う。

イエスは、妹は正しいことをしているのだから、怒る必要はない、とその時言ったのだった。

イエスは、或いは、忙しさにかまけて自分の大事な説教を聞こうとしない姉に気を悪くしていたのかもしれない(笑)。
日頃の仕事より、今の自分の言葉のほうが大事なのだと、
この解釈はひょっとしたら私の勘違いかもしれない。
違ったような気もするのだが。

 

でも、私の言いたいことは、やはり普段の仕事や、しなければならないことは、生きていく上であるはずだが、でも、それだけでは人間という生き物は充足出来ないんだということだ。

人間は物質ではないのだ。
心というものを持っている。
その心は、ただ生き、ただ生きるために働く、食べる、寝る、それだけでは満足が出来ないのだ。

もしそれだけで充足していたのなら、とうに音楽などこの世から消えていただろう。
絵画も映画も、人間に本当に必要がなかったのなら、とうにすたれていたはずだ。

でもそうはならなくて、人はむしろ、音楽を求め、映画や本を求め、それがない生活の方が少ないほどだ。
そうした娯楽…趣味…、を求めるのは、まるで人間の本能みたいだ。
誰もが、それらを求めている。
決して無駄なのではない。

人は、何もない無味乾燥な人生は、耐えられないのだ。
何かそこに楽しみが欲しい、何か心に訴えるもの、心を充足させるものを求めているのだ。切実に。
生きること自体が楽しければ、娯楽などは必要あるまい。

でも、生きることは、大多数の人にとって、楽しいばかりではないのだろう。
だから、人は娯楽を求めるのだ。
それは決して逃避ではない。
人の心の切実な要求なのだ

小沢征爾の言ったことは、とても正しいと私は思った。

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