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10/5 孫の日なんて必要ない
10/20 バスの中の脳が未発達の若い女性のこと
10/25 松坂大輔投手の不始末

10/25 松坂大輔投手の不始末

非常に危険な気がしているが、書かずにおれない(笑)。

 

松坂大輔投手問題である。

私は野球があまり好きではないので(?)、そう関心がなかった、というより、松坂選手がもともと好きでも何でもなかったので、野球、及び彼のファンの人がおられたら、陳謝する。

しかし、意見を翻すつもりはない。

何だか、無免許運転でしかも飲酒運転だったという(うろ覚えなので、間違っているかもしれない)。しかも、運転していった先が、噂になっていた女子アナウンサーのマンション(?)だったという。
この女子アナウンサーは、しかもシドニーオリンピックへ行く直前、松坂選手を泊めたという前科(?)者だった。
さらに松坂選手は免停中だったという。

このしかもしかもの連続する事件は、いかに何でも、誰も許せるものではないだろう。
一つ二つのことならまだしも、こうも醜態を幾つも重ねてさらしたのでは、どうしようもない。

マスコミはしかし、松坂投手に対して何となく同情的なようだ。
野球界のまだ若い才能のある者として、大事に育てていかなくてはいけない、というような意見が多いようである。
マスコミはえらくこの者に甘いようだ。

テレビ番組のコメンテーターで、周りが悪い、という意見の者もいた。
周囲の者がもっと教えておかなくてはいけない、というくらいの意味であろう。

しかし、女のところへ行く、ということはともかく、無免許運転が悪く、飲酒運転も悪い、ということは、小学生でも知っている事ではないのだろうか。
そんなことを教えないといけないほど、松坂選手の頭はぱーぷりんなのか。
良く分からない。
あの顔を見ると、そうかもしれない、という疑問が涌いてこないでもないからだ。

まだ20歳なのだから、という事も言われていた。
しかし、もう20歳なのではないのか?
公衆道徳において、常識において、倫理において何が良く、何が悪いということくらい、わきまえている、またわきまえていなくてはならない年齢ではないのだろうか。

それとも、ちょっとくらいの距離なら無免許運転でもいいではないか、というような気持ちがあったのか。
世間一般ではよくあることなんだから、いいではないか、くらいの気持ちだったのか。

周囲が教えなければいけない、と言っていたのは、多分このことだろう。

たとえ、一般ではおおっぴらに行われている事でも、有名人では許されないこともある。
だから、言動にはよく注意せよ、と周りが言い聞かせておかなくてはならない、という意味だったのだろう。

だが、周りが教えたのは、周りから彼に聞こえてきたのは、少しくらいの飲酒なら誰でもしているよとか、免停を何度くらったよとか、そういう世間の悪しき常識だった。

この世間の悪しき常識を、誰もが少しくらい、私だってやったよと思っているから、松坂選手も少しくらいならどうってことはない、と思ったのだろう。

少しくらいなら、という世間の思いがこういうことをはびこらせるのだろう。
それゆえに、世間も今回の彼の醜態に対して、同病相憐れむように甘い評価を与えているのだ。

聖書には罪を犯した事のない者だけが石を投げよという説話があるが、誰でもふとした間違いはあるであろう。
しかし、それが常識となることが怖いと私は思うのだ。

まだ20歳だから…というのは、まだ20歳だからそんな世間の悪しき常識に染まるのは早すぎるということだ、と思いたい。

松坂選手は、言語道断だと私は思う。
もう、選手生命は絶ったほうがいい。

才能があるから、球が速く投げられるからなどと特別扱いしてもらっているから、頭がぱーぷりんになってしまうのだ。

どんなに才能があっても人間の価値としては同じである。
いかにお金を稼ごうと、いかに有名であろうと、人間としてきちんとしていなければ、何の価値もない。

何も特別な価値のことを言っているのではない。
人間なら誰でも、神様に平等に愛される価値を持っているのだ。

それを自分から捨てる真似はするべきではない。

 

10/20 バスの中の脳が未発達の若い女性のこと

前回の続き。

言い尽くせないほどバス内のエピソードがあるのであった。
によって、どうしてもあとひとつだけ、言わずにはおれない逸話をここに記しておき、記念としたい。

やはり通勤バス内においてだったと思う。
ただ私が乗る時間帯は、通常の通勤時より若干遅いため、比較的すいていて、座ることが出来るのだ。

その通勤途中のバスの中で、私が座っている前の席に、途中から乗って来て座った若い女の子の二人連れがいた。

私には、後ろから彼女らの動作をよく見とおすことが出来た。

二人連れのうちの一人の女の子が、横の彼女に何かを喋りつつ、自分のバッグから化粧ポーチを取り出し、その中から小さい、5センチほどの針金様の物質を出して、バスの窓枠に、何本かをおもむろに置いた。
手には手鏡を持った。

その女の子は、次に、髪をいじり出した。
そして、窓枠に置いた針金様の物を自分の髪にさし始めた。
それは髪を結うためのUピンであった。

彼女は、そうしてバスに揺られながら、ピンで自分の髪を結い始めたのだった。
しかも出来上がっていくうちに、そのヘアスタイルが、その時流行の、髪の先端を散らした髷スタイルになってゆくのであった。
それはあまりにも手際が良く、見事な結い様であり、私は後ろの席から、思わず感嘆せざるを得なかった。

しかし、何より一番驚いたのが、ちょうどヘアスタイルが結い上がったと同時に、彼女らの降りる駅に着いたことであった。

女の子は、隣の子に髪がきれいに出来上がっているかを確認し、相棒がうん、良く出来ている、というような事を言い、そうして二人は席を立ち、静かにバスから去って行ったのであった。
あまりにもベスト・タイミングであった。

一人残された私は、髪を結うなら家でやってこい!という無言の叫びを心の中で叫んでいたが、誰に聞こえるはずもなかった。

私は思った。
自分の、この叫びは果たして正しいのだろうかと。

何故なら、件の彼女の手際はあまりにも見事で、私はある種の感嘆さえしたのだから。
難しい摂理である。

 

10/5 孫の日なんて必要ない

10月15日は孫の日だと、デパート、小売店などが勝手に定めたようだ。

これほど卑しい記念日の決め方はないというほど、卑しい決め方だ。

老人は金を持っているからと、敬老の日の一月後に、孫に何かを買う日として、10月15日を定めたのだと言う。

まあ、建前の言い訳をせずに、老人は孫に金を使えと堂々と言っているところは、いっそ清いのかもしれない。
確かに老人はお金を持っているだろうし、かわいい孫にはお金を使いたくてたまらないだろうから、狙いとしてはアタリなのであろう。

しかし何にしても卑しいことに変わりはない。

おじいちゃん、おばあちゃんは年に一度だけ孫に物を買う、ということはないだろう。
お正月、クリスマス、お盆、子供の日、お誕生日…、このような特別な日だけではない。
老人は、殆ど毎日曜日になると孫を連れ、デパートへ行って何かを買ってやるのではないか。
夕方の買い物に孫を連れて行くと、退屈した孫が何か買ってくれとせがみ、甘い祖母は仕方ないと呟きながらちょっとしたものを買ってやるだろう。

あえて、孫の日など作る必然性などないと思うが。

だからこそ、デパートなどのがめつい商戦だということが全面に出すぎて、卑しいという印象が拭えないのだ。
不景気なデパートの苦肉の策なのであろうか。

***

さてまったく関係のない話になるが、バスで通勤していると、様々な人間に出会う。

独り言を言う人間、自閉症の人、けんかを売る人、優先席に平気で座る若い人間、いろいろいるが、今まで私が目撃した中で、最もすごいと思ったのは、まだ若い女性で、一番前の席に座り、何故かパック入りの「お寿司」を箸を使って食べていた人だ。

私は彼女のななめ後ろに座っていたが、がさがさという音が絶えないので、その席に注目した。
すると女性がパックのお寿司を食べていた。

よほどお腹がすいていたのであろうか。
どうしても外で食べる時間が捻出できなかったのか。
いろいろ事情はあろう。
うら若い女だ。

私はそこに、さまざまなドラマを想像しつつ、このように恥を捨てることの出来る若い女がいるという事実に、いささか肝を冷やしていた。

ある時は、若いカップルが座っていて、その女の方面からチョキチョキという音がする。
私は彼らのすぐ後ろの席に座っていた。
何の音なのか、気になる。
私には、どうしてもあの音にしか聞こえない。
ちょっぴり首を伸ばして見ると、女は俯いている。
私が先に降りるので、彼らの横を通りつつ、真相を確かめてみた。

予想したとおり、女は爪を切っていたのだった。
バスの中で、えんえんとである。

私には、最近の若い女性の行動が、どうも読めない。
特に、市バスの中での行動は、読みづらいものがある。

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