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00/7/3 電気を節約しよう
00/7/19 1万ヒット越え
00/7/25 食中毒事件への人々の関心

7/25 食中毒事件への人々の関心

雪印の食中毒事件に対する人びとの関心も、沈静化したようだけれども、社会派の私(?)としてはやはり、ここに書き留めておくのが筋かと思い、ひとこと書いておく。

事件の後半では、他のメーカーの製品までが異臭がするとか、黴だとか言うことで、回収騒ぎがあった。
牛乳を飲むことさえ、皆が神経質になった。

雪印は、たった9日間で長年のスノーブランドの信頼を失ったと書かれた。
私は事件の詳しい経過と、事実を把握しているわけではなく、殆どテレビと新聞が騒いでいるのをうろっと、そうかと聞いていたに過ぎない。
だから中毒した人々の正確な症状や、災禍の規模や、雪印の最初の対応がどのようなものだったのか、あまりよく知らない。
知らなくて書くのもどうかとは思うが、雪印の初期の対応はいかにもまずかった。
私が見た、「寝てないんだ」というわずかなニュース映像ひとつで、これはまずいと確かに思った。

しかしそれはそれとして、そのあとの、人々の超過敏的パニック症候群はどうだろう。

私は雪印の牛乳を飲んだことはなく、中毒とは無関係だったので、呑気なことを言っているかもしれないが、しかし私は事件の最中に雪印のとろけるチーズを毎日食べていた。
これは神戸工場のものだから大丈夫だと母が言っていた。
牛乳も(森永だが)飲み、ヨーグルトも食べていた。
普通の乳製品生活をしていた。
毎日のことなので、意識することはなかった。

私は、期限切れの食品も、食べる。
食べてみて、味が別に変でなければ食べる人間である。
単に期限切れになっているからと言って捨てるなど、勿体なすぎて到底出来ない。
この時期はものが腐りやすいので、あまり日が経ったものは口に入れない方がいい、とよく言われるが、私には、そんな言葉は馬の耳に念仏であって、よっぽどでない限りは、私の口に入ってしまうのである。

それで、最悪の場合は下●をするが、それだけのことだ。
それは、しかしアイスクリームを二つ食べてしまった時の症状と何ら変わりがない。

今回の食中毒事件の後半の、どこもかしこも異臭だの、何だのと言う人々の過敏さは、ごく普通の、これまでの食生活の中では、決して顧みられなかったほどの些細なものなのではなかっただろうか。

なぜ、ああして我も我もと、変な匂いがすると言いたがるのだろう。
事件が有名になったため、神経が過敏になって、些細なことまでが気になる。
普段なら気づかず通りすぎてしまうことさえも、大騒ぎの対象にしてしまう。
私はこの大衆心理が我慢できないのだ。

なぜ、大衆の、或いはマスコミのこのような騒ぎにつられ、乗せられ、しょうもないことで大騒ぎしてしまうのか。

自分の生活、自分の精神、自分の価値観、…そういうものが、きっちりと自分の中に根づいていれば、決して騒ぎに我を見失い、乗せられるはずがないではないか。
それほど、…他人の言うことに右往左往しないではいられないほど、人は自分の価値観を信じられないのか。
人の噂を簡単に信じてしまうほど、自分というものがないのか。

不思議な現象だった。

今後、雪印のとろけるチーズが売っているのなら、私は買って食べるであろう。

 

7/19 1万ヒット越え

さて、私のページもとうとう1万を越えて、これでどうにか一人前のネットの住人になれたかなという気がする。 

最初は、ネットの世界の片隅にでも、自分の場所があるということが嬉しく、それを頼りに無我夢中でコンピューターにしがみついていた。
ただひたすら毎日ページを立ち上げ、見てくれているのかさえ分からない誰かに向けて、何かを訴えていた。
それが楽しみで、かすかな満足で、この新たな世界の発見に、私は有頂天になっていた。
インターネット社会の是非が囁かれている。でもそんな難しいことは私にはどうでもいい。
ここが、居心地がいいから住みついた。それだけだった。

まだ、迷いがあり、不安もある、そして希望も、やりたいこともある。
人形を愛する自分がいて、人形だけでない自分がいる。
その折り合いをどこで、どうつけ、どのように自分に納得させるのか。

肩の力を抜くこと、をおぼえて来た。
特別な、すごいことをやっている、そんな意識をどこかへ押しやり、毎日のごく自然な、ありきたりの、日常的な行為へとスライドして行く。
それが理想だ。

見守ってくれる人がいるなら、私は続けたい。
自分のために、自分の心の満足のために、心の趣くままに、自然に、でもやっぱり、見てくれる人がいるなら、ささやかな共感を感じてくれる人がいるなら、それを頼りに私は続けて行きたい、と思う。

 

7/3 電気を節約しよう

家庭の電気をオール電化にすると電気代の割引があるという、関西電力のコマーシャルを見た。

ということは、例えば普通はガスを使っているお風呂とか、台所のレンジだとかを全部電気に変えるということだろう。
それはどういうことなのだろうか。

私たちは、普段の生活の殆どを電気に頼っている。
オール電化と言わないまでも、その殆どを電気に依存していることは、間違いない。
そして、現在その電気は、原子力によって供給されている。

関西電力は、黒部ダムから電気をもらっているというのが、私たちの小さい頃の認識だった。
それが今もある程度、黒四ダムから来ているのか、それともすべてを原子力に頼っているのか、それはわたしは知らないけれども。

一般家庭をオール電化にするという思想は、原子力の時代ならではの考えだろう。
オール電化を奨励するくだんのコマーシャルは、原子力をどんどん使いましょうというコマーシャルのような気もする。

けれども、それでいいのだろうか。
本当に、オール電化にしてしまっていいものなのだろうか。

昨年の臨界事故を持ち出すまでもなく、原子力は、危険性を常に併せ持っている。
少なくとも私には、そういう認識がある。
でもだから、原子力が悪い、というのではない。
ただいくらどう言っても、原子力はプルトニウムを使っているのだ。
原子爆弾と同じ材料を使っているのだ。

そのような、リスクがないとは言い切れない物質を使わざるを得ないところにまで人間が来ている、ということに私は無念を感じるのだ。

人間は快適を追及して電気を発明し、快適を求めるために、より電力に依存をし始めた。
もし人間が、もっと便利に、もっと快適に、という欲望を持たなければ、原子力というリスクは背負わなくて良かったのだ。
黒部ダムのみで、じゅうぶん供給できただろう。

何年か前の、これも電力会社のコマーシャルだったが、

人間は快適さを求め、ここまで快適さを実現してきた。今さらあと戻りは出来ないのだから、原子力について、理解をしていただきたい、

というような啓蒙的な内容のものだった。

この時も私はちょっと待て、と思ったのだった。

そのコマーシャルでは"後戻りはもう出来ない"と決めつけている。
そこに私は引っかかったのだ。

私自身、電気には、大変依存して生活している。
このコンピューターにしてからが、電気そのもので、電気がなければただの箱である。
だから、えらそうな事は言えない。また、言うつもりもない。
テレビも見るし、音楽も聞く。
夜になれば電気をつけるし、掃除機を使い、洗濯機を使う。
電気づけである。

それでも、あえて言いたいことは、
"後戻りは出来ない"なんて、決めつけるのはおかしいのじゃないか、ということだ。

ここ何年かで少子化が進み、日本の家庭内の人数は減ってきている。
それなのに冷蔵庫は何年か前に比べて、異様に大きくなってきている。
あれは、無意味に大きすぎるのではないのか。

冷蔵庫の肥大化には、女性の就労率が増えているとか、いろいろな原因があげられると思うが、やはり何と言っても、あの大きさは無駄であろう。

テレビも、大きくなるだけ大きくなってきた。
しかしもう十分だろう。
横に長くしたり、縦に長くしたり、壁に貼りつけたり。
もういいのではないか。
普通の家庭ならば、25インチくらいで我慢できないか。

こういうことを何とも思わないではなく、少し疑問に思うことくらいは、出来るだろう。
電気の無駄は、少し気をつけてみれば、沢山発見できる。
私たちが、ほんの少し我慢すれば、実現できるのが電気の節約だ。

後戻りできない、などと決めつけず、少しだけ後戻りしてみようという気持ちを持ってみたらどうだろう。

暑い時、寒い時、エアコンは必需品である。
しかし、あれは非常にエゴイズムに満ちた商品である。

自分のところさえ涼しければいい。
外は、自分が涼しい分だけ、かえって暑くなる。
それでも、外のことなんかどうでもいい。
自分さえ涼しければそれでいいのだ。

エアコンをつける時、そのように考えながらつける人は少ないに違いない。
しかし、それが事実であり、その事実を知ってしまったなら(今これを読んで、でもいい)、もう人は、このことにイノセントではいられない。

これからは、エアコンをつける度に、

"自分だけが涼しくなるのだな"

という若干の後ろめたさから逃れられなくなるはずだ。
そうしたなら、例えば、5回に一度くらいは、エアコンをつけるのを躊躇うだろう。
10回に一度くらいは、まあ我慢をしようか…と思うに違いない。

それでいいではないか。
自分に出来る、ほんの少しのことから、我慢をすることを始めよう。

私は確かにコンピューターを長い間使っており、その消費電力は相当のものになるだろう。
私にとっては、コンピューターは、最早なくてはならないものになってしまった。
だからこそ、他の部分では、なるだけ節約したい。
我慢をしたいのだ。
それが、たとえたったひとりの、ほんの僅かな努力であって、そんなものは大海の中の一滴だと言われようと、私はそうしたいのだ。

たとえば、水の汚染のうちで、一番汚染のパーセンテージの高いのが、工業用水などではなく、家庭排水なのだという。
この事実など、各家庭が常に意識し、気をつければある程度の成果は上がると、私は思うのだ。

人間は自然を破壊しつづけ、そうすることによって人間の文化と歴史を築いて来た。
人間は自然に反する存在であり、人間の文化とは、自然と対立する営みであった。

しかし人間の過去がそうだからといって、これからも、未来も、人間が自然を破壊し尽くし、地球を駄目にしてしまっても良い、という理屈にはならない。
人間はエゴイズムに走りすぎたのだ。
ほんの少しでも、見直したい。
今までの人間のあり方、文化のあり方、人間の暮らし、そういったものを、今は見直すチャンスだと思わないだろうか。

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