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00/6/5 日本語表記はむつかしい

6/5 日本語表記はむつかしい

日本語表記について、少し言及してみたい。

日本語は、難しい言語だ。
常々、私は最近の雑誌などで、ある助詞の表記が気になっていた。
それが間違いではないかと考えているのだが、はっきりした根拠が分からない。
だが自分の感覚から言って、あきらかに違和感がある。
それをじっくり考えてみたいのだ。

最近、「トンデモ本の逆襲」という本を読んだのだが、その項目の中のひとつ、唐沢俊一という人の書いた、五島勉(ノストラダムスを流行らせて有名になった)の小説の、とほほぶりを暴いた一文の中に出てくるフレーズである。

この銃は……バズーカ砲になるは麻酔銃になるは、催涙銃になるは通信機になるは酸素ボンベになるは手術道具になるは、携帯ロケットになるはウソ発見機になるはポータブルラジオになるは……

この調子で延々と続くのだが…。

この文章の「は」の使い方がおかしいと私は思う。
ここは、「わ」ではないのか。
なぜ「わ」なのかという根拠が、私にはもうひとつはっきり説明することが出来ないのが歯がゆいのだが、たとえば、この「は」の使い方は、

久しぶりにパチンコに行ったら、思いがけず玉が出るわ、出るわ…

という使い方と同じだと思う。
この場合の「わ」は、「は」ではなく、「わ」と書くであろう。

この書き方は、唐沢俊一ひとりが書いているのではない。
最近の雑誌では、時々見かける書き方なのだ。

またこの「トンデモ…」の記述が、実際に本人が原稿にそう書いたのか、或いは編集に直されたのか、或いは校正の段階で書き直されたのか、それは分からない。とにかく最近の雑誌業界で「流行っている」(?)書き方なのかもしれないが…。

私は、あなたは、という場合は、発音は「わ」でも、表記としては「は」を用いる。
というのは、小学生でも間違わないであろう。
私を、あなたを、というのを私お、あなたお、とは書かない。

文章として書けば「そういう」だが、発音は「そーゆう」。これとほぼ同じ例だと言っていいだろう。

この「いう」を、ひと頃、「ゆう」または「ゆー」と表記する雑誌等が氾濫していたことがあったと記憶する。
それらは、おおむね、わざとそう表記していたのだろうが、

……そう表記することによって、「若者っぽい」或いは「流行っぽい」と、編集者たちが考えたのかもしれないが……、

あまり頻出すると、そしてあまりそうした表記を使いすぎると、それが認められているのか、そう表記しても別にかまわないのではないかという、一般的なムードが大衆の中に広まってゆくのではないかと、私は危惧したものだ。

若い、あまりちゃんとした本を読んだこともないおばかな若者が、そういう雑誌を読みつづけていたら、そういう表記が当たり前なのだと、誤解するのではないか。
編集者はわざと使っているつもりかもしれないが、受け手の中には、絶対それを真に受け取ってしまう者もいることだろう。

使っているうちに、それが、別に構わないんだ…という意識が生まれ、だんだん常識のようになっていく…。
それはちょっとちがうのではないか…といいたいのだ。

だが、「は」の場合、これは冗談でも、流行でもない。ちょっとおしゃれっぽい言い方をしたくて「出るは、出るは」と書いているのではない。
書く方は大真面目にそう書いているのだ。

***

「は」は、辞書で調べると、助詞。係助詞、終助詞、格助詞となっている。
このうち終助詞が、文末にあって余情・詠嘆の意を表す、とある。

いっぽう「わ」は、やはり助詞で、終助詞。
この意味は詠嘆・感動を表すとある。
「は」を終助詞として使う場合とほぼ同じ意味合いになってしまう。

これは困った。
反論のしようがない。

だが、パチンコの玉が「出るは出るは」では、どうにもおさまりが悪い。
ただひたすら、自分の感覚がそれを拒否する。
私の気持ちが収まらないのだ。

かろうじて、終助詞としての「は」の使い方は、たとえば

何という人だろう、この人は。

という風に、主語(名詞)につき、いっぽう「わ」は、

出るわ出るわ…

と、動詞のあとにつく。このあたりの違いではないだろうか。

これ以上は、文法に詳しい人や、国語の専門の人に考察してもらう他はないと思うが…。

それでも地球は廻っている…

それでも、「出るは」は明らかな間違いだと私は思うのだ。

こういう表記が、素人ならともかく、出版界で蔓延しているらしいことが、残念でならない。
唐沢俊一という名前は私でも聞いたことがあるくらい、まあそこそこ著名な著述家だろう。
それがこういう収まりの悪い表記を平気でするというのは、考えものだ。

***

いろはにほへとは、本来いろはにおえど…と発音した。
時代が進めば、発音がどう変わるか、分からない。従って、これが正しい、間違っている、という風には、断言できないのだろう。

近年「ら抜き言葉」が問題になっているが、ある言語学者は(誰だか忘れた)遠からず近い将来、それはスタンダードな言葉になるだろうとクールに予測している。

見る→見られる→見れる

来る→来られる→来れる

食べる→食べられる→食べれる

食べることが出来る、という意味のことを言う場合、食べられる、と言う人の方が、少ないのではないだろうか。

また、
走れる(走ることが出来る)を、→走られる

とは言わないだろう。

難しい問題なので一概に結論が出ない。
専門家に任せるとしよう。

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