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00/2/7 伏見小学生殺人事件、オーストリア極右政党
00/2/14 
バレンタインデーの風習は必要か
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2/18 シュルツ氏の死

2/18 シュルツ氏の死

2月12日、スヌーピーの生みの親、チャールズ・シュルツ氏が亡くなられた。77歳。日本で言えば喜寿だった。
新聞が休みの日で、翌日の夕刊に記事が出ていた。

スヌーピーといえば、誰でもひとつやふたつくらい、そのグッズを持っているだろう。愛くるしいあのビーグル犬を見ていたら、誰でも心が和んだだろう。

私はスヌーピーの本当のまんがは、昔、英語のペーパーバックを一冊買って持っていただけだ。
今のふっくらしたスヌーピーでなくて、痩せていて、まだまだ絵が未熟なピーナッツだった。
それから、スヌーピーのまんがは、読んだ事がない。

でも、読んだ事がなくても、チャーリー・ブラウンの髪の毛が少ないとか、ライナスの安心毛布とか、シュレーダーが弾いているのはベートーベンだとか、そのシュレーダーに、ルーシーが片思いをしているとか、スヌーピーは愛くるしいけれど、性格はひねこびているとか、スヌーピーがリヒトホーフェンに憧れてレッドバロンを名乗っている、とかいうことを、なぜか知っている。
なぜなんだろう。

町にはスヌーピーのライセンス・グッズが溢れている。
それでも、昨年11月、シュルツ氏が引退を表明した時、もう新しいスヌーピーは描かれないのか、とがっかりした。でも、まんがは描かなくてもイラストくらいなら描いてくれるかもしれないな、と思ったりしていた。

でも、本当にもうこれで、2度と新しいスヌーピーは描かれない。
シュルツ氏の訃報を読んだ時、なぜかだんだん目頭があつくなった。
なぜなんだろう。

私はまんがのスヌーピーだけでなく、シュルツさんの人柄が好きだった。あの笑顔が好きだった。
穏やかで、優しくて、見ていたら本当にほのぼのする、シュルツさん自身があの「ピーナッツ」そのままの優しい人柄なんだと、一目でわかるあの笑顔。

人間て、やっぱり顔に人柄が出るんだ。
つらくても、悲しくてもくじけず、有名になって、お金持ちになっても、初めの素朴な気持ちを少しも失わず、…だから、あんなにすてきな、見ているこちらまでが暖かい気持ちになれる笑顔をしていたんだ。と思う。

私はそんな、いい顔を人に向けているだろうか。いい顔で、人に接することが出来ているだろうか。
年を取った時、あんな風に穏やかな顔でいられるだろうか。

…そんな事を思って、本格的に涙が出た。

シュルツさん、ありがとう。

 

2/14 バレンタインデーの風習は必要か

先日バレンタインのチョコレートを町に買いに行った。
私はこのバレンタインデーというのに、ほとほとうんざりしている。

クリスマスのように出自がはっきりしている催しならともかく、始まりが何だかうさんくさい。
その上、お菓子メーカーやデパートがしかけた「チョコレートを贈る」という決まりがいっそううさんくさい。

大体、チョコレートを贈られて、本当に男性は喜んでいるのか。
贈り物をもらうという点では嬉しいかもしれないが、「チョコレート」という物質を果たして男性は本当に喜ぶのか。
それは、実際に男性の口に入るのか。

相手がもらって嬉しいものを贈るのならともかく、なんの根拠もなく(あるのかもしれないが)チョコレート、というのが、何か暴力的である。

どうせ贈るのなら、もうちょっと他のものである方が明らかに親切というものだ。
どう考えてもチョコレートはいかん。

まあ、まれに男性でもチョコレートが好き、という人間はいるだろう。
でも、そんなまれな人間をターゲットにするより、もっと一般的な男性の嗜好をふまえたプレゼントが、なぜ考えられないか。

それでも、最近ではチョコレートばかりでなく、もう少し別の商品を贈る、という風潮も出てきたみたいだ。
その方がはるかに健全だと思う。

でも、それは、問題のすり替えである。
一番問題なのは、なぜバレンタインデーがあるのか、ということだ。

これは、その一月後にホワイトデーというものが発明されて、より問題が多くなった。

ホワイトデーが提唱され始めた当初は、男性もホワイトデーなどあったか?という風に無視していたと思う。
だが最近は、これを無視する男性は、女性から村八分の憂き目を見なければならなくなった。
あの男は、お礼もしないわ。などと後ろ指をさされるのである。

これは、明らかに、女がホワイトデー目当てで(チョコを)贈る、という行為にスライドしてきたためだ。
ホワイトデーのお返し目当てに贈り物をする、などといういやしい考えを女は恥ずかしいと思ってさえいない。

もういい加減に、バレンタインデーなど、やめにすればいいのに。
というのは、しかし、女の側からの一方的な意見かもしれない。

男性は、チョコレートをもらって、案外嬉しいらしいのだ。
たとえ自分で食べなくても、もらう、という行為自体に快感を覚えるらしい。

日頃、いかに男性が贈り物と無縁か、というさみしい事実に涙が出そうになってくる。

***

まあ、なんだかんだ言っても、世間は私をとりまく重要な環境であるので、私はこういう場合、世間に迎合して、やはりチョコレートは買う。

それで、繁華街の(ポルタである)特設チョコレート売り場などに行く。
すると色とりどりの包装紙やリボンで美しくラッピングされたチョコレートが、ずらっと並んでいる。
おいしそうというより、美しい。

私が一番むかつくのはこの瞬間なのだ。
かわいく美しくラッピングされたチョコレートを見ると、自分が欲しくなってくる。
こんなすてきなチョコをなぜ自分は貰えず、人にあげなくてはならないのか。
私は毎年、この悔しさで歯ぎしりをし、歯が擦り減ってきた。

これらのチョコレートは、明らかに男性よりも女性の方がもらって嬉しいはずだ。
男はこんな、かわいいラッピングなどどうでもいいに違いない。
私の方が、絶対欲しい。
なぜこんな不条理が世の中にはびこっているのか。

ところが私はこの不条理を解決する策をあみ出した。
私が自分で自分用にチョコレートを買うのだ。

自分で買って自分で食べる。
何の疑問点もない普通の行為である。
しかし私はこれで非常な満足を得るのだ。

そして今年も自分用のチョコレートを買いに、私は町へ出た。

 

2/7 伏見小学生殺人事件、オーストリア極右政党

京都・伏見の、小学生が小学校校庭で遊んでいる際、侵入してきた何者かに刺し殺された事件で、重要参考人が事情聴取の途中で逃げ出し、自殺したと、新聞、テレビがいっせいに報じた。

重要参考人(岡村容疑者)が事情聴取を受けたという公園、住んでいたアパートは、伏見の、多分Mニュータウンなのではないかと思う。
そこは、私がよく行く宇治のトイザラスのごく近くの団地なのだ。というより、トイザラスがその団地内にあるといえるだろう。
参考人がエスカレーターを逆行したというKSストアも、近くにあるので、多分間違いない。
そんな訳で、私はこのセンセーショナルな事件の結末を、さらに驚きをもって受け止めたのだった。

本来ならこんな事を書こうとは思わなかったのだが、思うところがあり、覚え書きのために記述しておく。

ローカル新聞は「前代未聞の失態」と報じ、「失態のそしりを免れない」とも書いた。
まったくその通りで、みすみす容疑者(死後逮捕状が出て、容疑者となった)を手の内に押えておきながら、取り逃がし、自殺されてしまったのだから、何とも弁解する余地もないと思う。

京都府警は、そもそも問題が多かった。神奈川県警には負けるが、覚醒剤を横流ししたとか、警官自身が服用していたとか、いろいろあった。警官がそんなだから、こんな重大な局面で大失態をさらすのだ、と言われても、申し開きが出来ないだろう。

それでも、現場の捜査官は地道な捜査を続けただろうし、そのおかげで重要参考人を割り出せたのだ。教習所だかどこかに残っていた男の筆跡を鑑定して、容疑者のそれと酷似していることをつきとめたという。

マスコミがこういう場合、批判を展開するのは分かっていたが、やはり鬼の首を取ったかのように、われもわれもといっせいに非難轟々である。

土曜日の夜やっている番組のコメンテーターだか何だかよく分からないおばさんの発言に、私は引っかかった。

「警官はマラソンの練習をしないのか」
参考人に逃げられた、ということを受けて、このような意見を言っていた。

私はその高飛車なもの言いがどうしても納得できない。

そりゃ警察は私らの税金で動いている。私らの安全を守るために尽力するのは当然だろう。
だが、良い捜査をして、犯人を逮捕しても、それが当然としてほめられる事はないが、犯人を逃がすとたちまちものすごい非難を浴びる。
その経過を知ろうともせず頭から非難する。

そこにはおまーらは税金で働いているのだ、市民のために動くのがとーぜんなのだ、というおごりの気持ちがあるような気がする。

先のコメンテーターの意見にはまた、こういう事があった場合には、警察を頭からガンガンと非難しておけば良い、とでもいうようなマニュアル的対応がどこかに感じられた。
皆が非難するだろう、だからここはどんなに口汚くののしっても、賛同が得られるだろう、というようなニュアンスもやや感じられた。

こんな風に感じたのは、そのおばさんが、さも対岸の火事を見るように、他人事のようにさも軽く言い放っていたからだ。

オマエはいったい何様なのか。
他人をそんなに非難できるほどのえらい人物なのか。

そのような憤懣を私は感じた。

この記述を読んで、むかついた方がおられたら、陳謝する。

***

さて、話はこれで終わりではない。
本当は知事選のノック知事のことについても触れたかったが、長くなるのでいずれ別の機会にゆずろう。

もうひとつだけ、オーストリアの極右連合政権については、ぜひとも言っておかなければならない。

なぜこんなことになったのだろうか。
私たちは、あの不幸で悲しい戦争から、一体何を学んだのだろう。
それとも何も学ばなかったのだろうか。
あのように悲しい思いをしておきながら、人間は何もそこから学ぶことが出来なかったのだろうか。
だとしたらこんなに残念なことはない。

あの戦争から50年経った。だから若い人はもはや戦争には鈍感で無関心なのだろう。
新聞でも、オーストリアの若者が極右政党の自由党を支持していると報じている。

また、オーストリアの民族主義も背景にあるだろう。
日本のような島国の、単一民族には理解できない民族的な問題があるだろう。
民族主義というのはだから恐いのだ。

私たちがこんなことに関心がない、知らない、と無関心でいることが、一番罪深いのではないだろうか。
関心がないから誰かの言ったことを鵜呑みにする。それが正しいのだと何となく思う。

日本でだって、ブッチホンとか言って浮かれている人物が、何とか傍受とかいう悪法を成立させたのではないのだろうか。
無関心でいて、気がついたらとんでもないことになっているかもしれないのだ。
私たちのいい加減な態度が、実はオーストリアをあのようにさせた原因かもしれないのだ。
ファシズムは、本当は、私たちのそういう、どうでもいいから右へならえ的態度が作り出しているのかもしれないのだ。

気をつけなければならないと思う。

これもよけいなことを書いたかもしれない。
兵隊ドールを愛している身なのでこういうことははっきりさせておかなければならないと思うのだ。
いずれ兵隊さんたちについて、私の態度を表明しましょう。

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