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10/8 神の作ったものだけが残る
10/14  母の生活態度
10/30  地震報道

10/30 地震報道

地震報道で気になったことがふたつあった。

ひとつは、震度6がどのくらいのものなのか、レポーターが体験するというもの。
もうひとつは、東京で今回の震度6の地震が起きたらどうなるか、というレポート。

このふたつは、災害にあった現地の人に、かなり失礼ではないかと思った。

震度6の体験レポートというのは、たいてい女性だ。女性レポーターが、地震体験が出来る装置の中に入って、きゃあきゃあと騒ぐ。

レポーターは、あらかじめ地震が起きることを知っている。その上、(人工)地震が来ても、自分が死ぬことはないということも分かっている。つまり、あらかじめ安全だということが分かっていて、体験する。
そんな体験など、今の時期にテレビで写して何の意味があるか。

何が立っていられません、だ。立ってられないに決まっているだろう。

きゃあきゃあと騒ぐレポーターを見るのは、今の時期、見苦しいし、気分が悪い。なぜこんなものをテレビで放送するのかと思った。

そしてもうひとつ、新潟で起きたと同じ震度の地震が東京で起きたら…という報道。

やかましいわい。
と思わず思った。

東京がどうなろうと知るか。

今、大変なのは地震が起きた被災地そのものだ。東京がどうなるかなど関係ない。今必要な報道は、新潟のそれであって、東京のことなど知る必要は全然ない。
テレビ局は何を考えているのかと思った。

こういう、無茶なことは私しか言わないであろう。
と思って、言ってみた。

 

 10/14  母の生活態度

ある日、とあるスーパーへ買い物に行ったと思いねえ。

その時、母が常用している手提げ袋を持って行った。中にはスーパーのポリ袋が何枚か畳んで入っている。

スーパーで買い物をして、袋は持っているので要らないと言い、手提げの中のポリ袋(2種)にブツを詰めて帰って来た。

帰って来たら母が、いやあんた、○○へも行って来たんかと言う。

いや、××だけと言うと、そやかて、○○の袋やんかこれ、と母が言う。

私は、いや、手提げの中に入っていたポリ袋を何とも思わずに使った、と釈明した。

2種類のポリ袋のうち、ひとつは○○、ひとつは××の袋であった。

あんた、××に行って、○○の袋に入れて来たんか、と母があきれた。

私は恥じ入り、なお釈明した。

袋の柄とか覚えてへんし。どこのスーパーの袋とか、分からへんねん。手提げの中にあったし使こただけ。

母は、そうすると、いやあんた、スーパーの袋も覚えてへんの、となじった。

 

このコントの中で私が言いたいのは、私の記憶力がとてつもなく薄く、私がスーパーの袋の柄も覚えられない魯鈍である、ということではない。

私が言いたいのは、母が、スーパーの袋を、別のスーパーに行った時には他のスーパーの袋を使うべきではない、と考えているということである。

京都では、大丸に行った帰りに高島屋へ寄るべきではない、という風に言われていることは聞く。

つまり、大丸の袋を持って高島屋に入る、ことは高島屋に対して失礼だからするべきではない、というのだ。

デパートのはしご、という行為自体が品の良いことではないから、あまりなされないとは思うが、そういうことも含めて、この京都の教訓があるのだろう。

けれども私の母は、スーパーに対してさえそのような考えでいるのに驚いた。

 

私はどうだろう。こういうことを気にしたことがあっただろうか。
まったく気にしないことはない。

ごくたまにスーパーのはしごをして、別のスーパーで先に買い物をしていてその前の店の袋を持っていた時は、袋の柄を隠していたと思う。
どうしてもはしごをする時などは物理的に袋を消すことは不可能なので、そういう応急処置をしていたわけだ。

母は、必ず布の袋などを持って歩いているので、どこで買い物をして袋をもらっても、その足で別の店へ行く時は、持参の布の袋に入れ替えるのだろう。

これは、相手の店に対して失礼というより、もはやマナーというか、たしなみの分野なのだ。

ある店に入って、他の店の袋を持っている、ということは、他人にこの人はマナー知らずの不粋なバカ人間だ、と軽蔑されることなのだ。

京都では、マナーとか、他人にどう思われるか、ということが、最大の関心事である。
京都では、他人にどう思われるか、ということが、その人の評価である。

人の目、というのを異常に気にする。
そうすることによってマナーなり、たしなみを覚えてゆくのである。そうして自分というものを向上させてゆくのだ。

母は京都人ではない。富山の田舎の出だが、長く京都で生きているうちに、京都ではどう処するべきなのかという方法を学んだのだろう。

しかし私が別のスーパーの袋に入れて平気でいるのを、まるで人非人のように軽蔑したのは、本当にスーパーさんに対して失礼だろう、と思っているからのようだ。

 

またある日、居候している姪が珍しく早く帰り、9時ごろに夕食を食べていたと思いねえ。

その時私は既にお風呂に入り、出て来たところだった。

台所には明日出すごみ袋が置いてある。

母に、このごみ袋を(表に)出しておこうか、と言うと、母は、

いや、○○ちゃんが食べてるさかい…、と言う。

台所から表に行くには、姪がご飯を食べている居間を通らなくてはならない。

食べている横をごみを持って通るのは姪に失礼だから、というのであろう。

私は再び恥じ入った。

例え年下でも、どんなバカ姪でも失礼なのは失礼なのだ。
どんなに普段アホで、軽蔑すべき相手であっても、それとは関係なしに礼儀は礼儀なのだ。

姪(孫)にしたら、食べている横をゴミを持って通られたら不愉快だろう。(例えアホでもそれくらいの人間意識があるだろう)。
そう推測して、母はゴミを、あえて姪が食べ終わったあとに持って行こうと思っていたのだった。

ちなみに、母は、前の晩にゴミを町内の所定の位置に出すことはしない。そういうことをしている家庭もあるが、母は、前の晩に出すとカラスや猫が来てゴミを散らかすから、と必ずその日の朝に出す。

私の家でごみ袋を表に出す、というのは、表の玄関の間に出しておいて、翌日外へ持って行く準備をしておく、という意味だ。

 

母は、このようにいつも相手の不愉快にならないようにという態度を、貫いている。

それは時には、愚鈍なようにも思える。

人の前を通るということは絶対しないし(逆に自分の前を通れと人に促す)、人が列を作って待つような状況がある場合、母は必ず他の人に先をゆずる。
バスに乗る時も、他人を先にうながすので、一番最後に乗り、時には自分の前でバスが満員になってしまい、乗れなくなる。
そうすると大人しく次のバスを待つのだ。

私はいらいらして、切れそうになる。

だがどんな時にでも一刻も早く、という私の態度はひょっとしたら、大きな間違いなのかもしれない。

 

10/8 神の作ったものだけが残る

 

ものすごい本を読んでいて、それは、薬師寺の棟梁という人の話を聞き書きしたものなのだけれど、その本を読んでいると、古いものほど良いものが多いという一節があった。

寺の建築は、古いほど作り方が丁寧で、いい木を使い、手間をかけ、いい工人が作っていたからだ。江戸時代になると建築はもう駄目になるという。しかして現代においておや。
現代建築で、千年のちに残っているようなコンクリート建築があるだろうか。残したいと思う建築があろうか。

 

それで今まで何となく感じることがあったのが、人間が作ったもので、古いもので今だに残っているもの、というのは、それが古ければ古いほど、人間が作ったもの、という感じが薄れていって、自然物に近づいていく、のではないかということだ。

例えば、レオナルドのモナリザという絵は、確かに何百年か前に、一人の画家が絵の具を使って描いたものだろう。

でも、描かれてからあまりにも時間が経ってしまったので、何となく、それは、誰かが描いた、という事実が次第に曖昧になって来て、まるで有史以前からモナリザという人が、そこで微笑んでいた、というような感じがしてしまっている。

…これは、もしかして私だけが感じることなのだろうか。

法隆寺の五重塔は、確かに1000年前に誰か、当時の人間が建てたものだ。

けれども、あまりにも古すぎて、もはやそれは人間の作ったものというより、神様が作ったもののような、もはや、作られたものというより、存在しているもの、という感覚しか、ないのではないか。

 

私は「モナリザ」も、五重塔も、実際には見たことがないのでこんな事をいうのかもしれない。

実際に絵を見たら、それが確かに人間が描いたもの、その筆遣いを間近に見たら、その描かれた時の息吹などが感じられ、確かに作られたものだという実感は沸く。

五重塔も、実際の、屋根の下の入り組んだ組み立て方などを見れば、それが緻密な計算を必死にして、精魂込めて作られた建造物だと実感は出来る。

けれども、そういう塔の下にはひょっとして根が生えているんじゃないか、枝が生えて来ているんじゃないかとか、そんな風にも思う。

あまりにも長い間、そこに動かずに立ち続けていたら、それはもう、山がそこにあるように、川がずっと流れているように、そこにあることが当然であって、倒れることなんかなく、もしかしたらもう生命さえ芽生えているかもしれない。

たとえ人工的に作られたものであっても、長い間残っておれば、それは周囲と溶け合い、同化して、やがて自然と化して行くのだ。
風景と同化し、それはあって当然となり、ないと落ち着かなくなる。

そういう時、人工物は人工であることを越え、見る人に生命を与えられて行くのだろう。

まるで神の手が作ったかのように、人工の痕跡もなく作られているので、人はそれをあがめ、称えるのだろう。
それを作った人間は、そうして、逆に、神と呼ばれるようになる。

古いから神となるのか。そうではなかろう。古くていいものだから、神となる。
古くても古いだけのものもある。

そうして淘汰され、良いものだけが残り、神に近づいたのだ。

現代で、神に近いものがあるのか。まったくないと言っていいだろう。

現代は、歴史に残らない。そういう宿命を背負っている。残す価値のないものばかりを生産して来た。
だから、少し古くなればあっさりそれを捨て、どんどんどんどん刷新して行った。

新しいものだけしか価値がない、という風潮には、もう飽きた。私はもう、飽き飽きしている。
だから古いものにしか興味がなくなって来たのかもしれない。

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