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9/5 アテネ・オリンピックはひどかった
9/20 オランダ・フランドル絵画展を見たあと、泣きたいくらいどんよりしてしまった

9/20 オランダ・フランドル絵画展を見たあと、泣きたいくらいどんよりしてしまった

この間「栄光のオランダ・フランドル絵画展」を、つまらないと書いたら、きついと言われた。ショックだった。

いつものことだけれど、私も随分ひどいことを言っている。今、この展覧会について書こうとしたら、下にアテネ・オリンピックがひどかったと書いている。
我ながら随分な言い方だ。にべもない。
このサイトを見に来る奇特な人は、私のことをよっぽどひどい女で、箸にも棒にもひっかからない、食えない女だと思っていることだろう。

ひとこと言っておくけれど、現実の私は他人に文句のひとつも言ったことのない、大人しい、あかんたれなのだ。
現実には何も言えないから、こうして言葉で誰も見ていないすきに、言いたいことを書くのだ。

ますますひどい女になって来る。

…これでは自己嫌悪で何も書けない。
自分のことはひとまず、置こう。

「オランダ・フランドル絵画展」のことだ。

私のことをきついと言うが、きついのはこの絵画展の方だ。私の身にもなってくれと言いたい。

 

これは神戸で開催された。

京都から神戸までだと往復で運賃が2000円くらいする。入場料は忘れたけれど、1500円くらいだったと思う。
海外の展示会は値段が高いのだ。
合わせて、人形が1個分くらいかかる。
リカちゃんかジェニーが1個買える値段だ。

だから、この絵画展は、人形者の単位で行くと、一リカちゃんである。

値段だけではない。時間がかかる。
京都から神戸までは1時間強、往復だと2時間半はかかるとみなければならない。

それだけの時間とお金をかけて見に行くのである。それで、「画家のアトリエ」1枚だけか、と情けない。

 

いろいろ言うのもしんどくなった。

「画家のアトリエ」1枚だけを見に行くのに、要するにそんなに時間とお金をかけて損をした、という気になってしまったのだ。

もしこれが私の近所で開催されたなら、こんな文句は言わなかったと思う。

でも、会社帰りについでに見に行くのとは訳が違うのだ。思い入れが違う。

こんなにお金をやりくりして(私としてはなけなしのお金をはたいて)、時間をかけて、苦労して見に行っている、という思いがある。

 

神戸の博物館には前に「伊能忠敬展」を見に行った。

その時は、こんな気分にならなかった。
見られたことがただ嬉しくて、ハイになり、美術館の中にある喫茶室に入ってパフェかなんかを食べた。

今回も、絵を見たあとはその喫茶室に入ってひと休みしよう、と思っていた。
きっと絵を見たら疲れるだろうから。

けれども結局、あまりにもがっかりしてしまい、喫茶室に寄る気持ちも失せた。

実は、神戸から帰る途中に大阪に寄ろうと予定していた。
けれども、何だかその気持ちも萎えてしまい、途中下車せず、まっすぐ京都に帰って来た。

 

なぜ、あんなにどんよりした気分になってしまったのだろう。

もし、「チェチリア・ガレラーニ」が神戸で展示されたのなら、それ一枚だけでも見に行って、満足していただろう。

あの絵ほどには、見る時の心構えが中途半端だったのだろうか。

或いは、期待しすぎていたのかもしれない。

結局、私にとっては、リカちゃん1個と、3時間半(絵を見ていた時間を含む)をかけるほどには、「画家のアトリエ」は割に合わない、ということだったのだろう。

そう結論づけるしかないではないか。

フェルメールを好きだし、見に行きたいと思っていた。けれど、それがこんなにどんよりしてしまうとは私だって思っていなかったのだ。

好きなフェルメールを見に行って、こんな状態になるなんて、こっちの方が泣きたい。

この気持ちを正直に書いた。それが悪かったとは思わない。

 

さて気持ちが激昂してしまって、感情的になった。

少し冷静になろう。

私の場合、展覧会は絵一枚だけではいやなのだと思う。展覧会として、トータルで均衡が取れているかどうかを基準にしたい、という希望がある。
どんなに無名の作品ばかりであったとしても、展覧会として質がいいものもある。そうしたものを見たいと思う、ということがある。

それと私はケチであるということだ。

私は貧乏である。

そして、もともとは私は人形者であって、第一にお金をかけているのは人形である。だから、それ以外のものにかけられるお金は限られている。

その他に、大量の本を買うということもある。なるべく文庫本に限っているが、それでも欲しい本は限りなくあるので、どうしてもそこにお金がいってしまう。
展覧会は、要するにお金的に言えば私には3番目以降の価値になってしまう。

今回は、その1番目、2番目を差し置いて第一だと、自分で決定したのだ。
1番目と2番目を犠牲にしても見る価値がある、と、推測した。

そして失敗した。

 

私は自分の情熱を第一に人形に注いでいるのであり、それ以外のものに対する情熱はあくまで、2番以降だ。

絵一枚を見るために、新幹線で遠くまで行く人もいる。海外ヘ行く人だっているのだ。私にはそこまでの情熱と予算が(絵に対して)ない。

そこまでするのは、人形に対してだけである。(海外へは行かない)

フェルメールとリカちゃんとどちらが大事か。リカちゃんなのだろうな、私の場合。

 

ただし、「画家のアトリエ」を見たこと自体は後悔していない。この機会に見なかったとしたら一生見られなかったに違いないし、見なかったことを一生後悔しただろう。
見てよかったと思うし、悪い絵ではなかった。

けれども、その絵をもってしても、私のどんよりした気分を払拭してくれなかった、ということなのだと思う。

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 9/5 アテネ・オリンピックはひどかった

オリンピックがあった。

いつものように、今回は興味が今ひとつ持てないな、と思っていたら毎日深夜まで起きて寝不足になった。

前回のシドニー・オリンピックの時に、オリンピックについてこの日記にあれこれ書いたことがある。

その時からもう4年経つのだ。
月日の経つのはなんと早いことだろうか。そしてこのサイトを4年以上続けていることにも感慨を持つ。4年という時間は多分、短いのだ。

日記は、その時の、その時代の記録だから、その時何があったかを残しておくことは、有益なのではないかと思う。
4年前の日記を読み返してもオリンピックのことが書いてある。
そう思う時、日記を続けて書いて来てよかったと思う。

 

今回のオリンピックは、いつになく不満だらけのものだった。
ひどさから言えばこの前の冬のオリンピック、ソルトレイク大会に次ぐものだったかもしれない。

こんなにミスジャッジの多い大会なんて、見たことがない。不公平きわまる審判ばかりであった。

そして最後まで、男子マラソンに乱入者が出て来るわ、男子ハンマー投げでごたごたするわ、手際の悪さ、印象の悪さが目立った。

にも関わらず、日本のマスコミ、テレビは感動のオリンピックだの何だのとはやしたてる。
日本が沢山メダルを取ったということで有頂天になっている。このマスコミの浮かれぶりも変だ。
オリンピックといえばアスリートたちの汗と涙、この一辺倒で、アスリートの努力を感動的に盛り上げればそれでいい。それで一丁あがりとばかりにそのラインに沿った特集でお茶を濁すばかり。

すべてオリンピックという、敷かれたレールに乗せた以上の報道は何もない。
わずかに室伏選手に関連したドーピングが問題になったくらいだ。

ドーピングに関しても、選手たちが薬物づけになっていることが事実なのだとすれば(事実メダルを剥奪された選手が複数いるのだから)、ただ単に選手を賛美しているだけでいいのかと思ってしまう。

日本の選手が関わっている場合だけに興味が限られていることにも疑問を持つ。

 

オリンピックが終わった翌日、NHK(総合)は特集をしたが、私はかなりしらけてしまい、見るのをやめた。
まださんまのおちゃらけたインタビュー番組の方が見ていて慰めになった。

さんまはアスリートをリスペクトしていない、とこきおろされたが、私はそういう人もいることの方が健康だと思う。

確かに、努力して4年に一度しかないオリンピックに出て勝利を勝ち取った選手は賞賛するべきだろう。けれども、人間に差異はないのだ。

笑いを仕事とし、それで大金を得ている人間や、汚職をして金を溜め込んでいる政治家と、アスリートとどちらが偉いかなど、そのような差は神の目から見たら無に等しい。どの人間も同じなのだ。運動をしている人間だけが偉い、ということはないと思う。

ましてや、運動をすることが、金メダルを取って、国の権威づけに貢献する、という動機にスライドしてしまえば、それが果して正しく運動をすることなのかどうか。

 

NHK総合の特集番組は、私のそんなオリンピックに対するわだかまりを一切無視して、ただ各国の選手たちが、逆境にもめげずに頑張った、というだけの(相変わらずの)選手賛美に終始した。
それは、私の気持ちとはすでにあまりにも遠すぎ、遊離してしまっていた。

日本の選手が頑張り、いつになく沢山のメダルを取った。
そのことは大したことだと思うし、私も深夜まで、いや朝方までテレビにかじりついていたのはそのためだったことは、疑いがない。

私だって、フィクションよりも感動的な場面を、どんなドラマよりもドラマチックな場面を望んでいたのだ。そしてそれはある程度叶えられた。
人は、感動をしたくてオリンピックを見るのだ。

けれども、今回は、感動もしたが、感動だけでは終われない何かぶすぶすしたしこりが残ったことも事実なのだ。
感動もしたけれど、しきれなかった。
そのことをきっちりと記録しようとしないメディアには失望した。

このしこりをきちんと対象化してくれる情報が欲しかった。

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