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8/13 小旅行 ♪北陸線旅情
8/27 尾形光琳 紅白梅図屏風の謎

8/27  尾形光琳 紅白梅図屏風の謎 

NHKで、オリンピック放送の合間に、ひっそりと尾形光琳の「紅白梅図屏風」の謎について放送していた。

以前、この図をX線(?)検査にかけたら、背景の金箔が、実は金箔を貼ったのではなく、手描きされたものだということが分かった、という報道があったことは、私も大変興味を引かれ、注目していた。

NHKの放送は、検査の経緯を詳しく説明し、なぜ、光琳がそのようなことをしたのかの謎を解いてゆくという構成になっていた。

ただ私は、金箔が描かれたものだと言われても、どうしてもそれは金箔を貼ったようにしか見えないし、いくら調査の結果がそうだと言っても、それでも金箔は描かれたのではなく、貼られたものであるはずだと、信じていた。
なぜかというと、そんなにしてまで金箔をあたかも貼ったように手で描かなければならない、という根本的な理由がないからだ。
描かれたものだとすると、その理由があるはずだ。

四角いマスを、わざわざなぜ手で描く必要があるのか。金箔を貼ったと見せかける必要があるのか。その謎が解けなければ、それが描かれたことに納得が行かない。まあ、誰でもそう思うと思うのだが。

 

テレビ番組では、光琳が、なぜわざわざ手でバックの金地を塗ったか、塗らなければならなかったかを、見事に説明していた。
私もそれならありだと納得した。

光琳が背景に塗ったものは金ではなく、金泥といわれる植物から抽出した材料を用いた絵の具であった。この金泥でなくては、梅の木の「たらし込み」技法がうまく機能しないのだった。

ただ、なぜ金箔に見せかけたかということは、いぜんとして説明していなかったように思う。

前景の木を効果的に描くために金泥を使ったのだとしても、それではなぜただ金泥を塗るだけではなく、金箔に見えるように塗らなければならなかったのか。

でも、私なりの結論はある。

それは、金地をただ一面に塗っただけだと、背景の金の部分があまりにも単調になるからではなかったかということだ。

 

本来ならば、背景を塗る、という根本的な作業においては、誰が描こうと、背景に四角いマスがくっきり写っている状態というのは、背景としてはNGのはずだ。
なるべくならば、四角いマス目などのない、金一面の背景が、背景として理想なのだと思う。

金を使って、絵を豪華に見せたい。けれども、金箔を貼るとどうしても四角いマスが見えてしまう。
四角いマスは、本来ならば邪魔だし、出来るだけ目立たない方がいい。
これまでの画家は、それを屏風や絵画の欠点として、仕方が無いものとして受け入れていたのではないか。

筆で描かれた写実的な描写に対し、四角く区切られた金箔の背景はあまりにも違いすぎて、遊離している。描きたいテーマの邪魔になる。画家たちはそう考えていたはずだ。

だが、光琳はあえて自分でそれを描いた。
そこが光琳の光琳たるところなのだろう。

 

光琳は、かきつばた図では実際に背景に金箔を貼っているという。

かきつばたと梅図と、どちらが先に描かれたかのは知らないけれども、自分の金箔を貼った図や、他の人の描いた金箔を使った屏風を見て、本来なら邪魔なはずの金箔の四角いマスが、デザイン的にかえって面白いことに光琳は気がついたのだ。

背景を金地一色に塗ってしまうと、のっぺりしすぎて絵が死んでしまう。
幾何学的な金箔の背景と、前景の写実的な描写を対照的に描く方が効果的だ。

…光琳は、このように考えたのではないか。

呉服屋に生まれた光琳は、着物のデザインもしたし、有能なデザイナーであった。そのデザイナーとしての感覚が、屏風図にも生かされたのだ。

こういう手法で描かなければならない、というような西洋的なしゃちこばった考え方は光琳にはなく、ただ感覚的に、こうすれば効果がある、このほうがよりインパクトがある、そしてより美しい…そのような考えで、絵を描いて行ったのではないだろうか。

「紅白梅図屏風」、実物を残念ながら見たことはないので、本当は何も言えないのだが、でも、あれを画集などで見ると、私は必ずクリムトを思い出す。

幾何学的なデザインと金地の豪奢、という共通項で、梅図が、まるでクリムトの作品ではないかと思えてしまうのだ。

クリムトも、画家というよりはデザイナーであった。両者の距離は、東西の隔たりと時代の差にも関わらず、意外と近いのではないだろうか。

もちろん、光琳とクリムトとでは比べ物にならないほど、光琳のセンスの秀でていることは明らかなのだが。

紅白梅図屏風

 8/13 小旅行 富山へ

すこしく日記らしいものを書いてみよう。旅行をしたという話だ。

8月はじめのある日、母方の田舎に、叔父のお見舞いのために行って来た。
母の田舎は富山県(父もだが)の石動という所だ。

(正確に言うと、石動駅が最寄の駅だということだ。住所は小矢部市K寺)

石が動くと書いて「いするぎ」と読むのだが、何か非常に曰く因縁のありそうなネーミングの土地だ。
どういう意味なのかと母に聞いてもうーん?という答しか返って来ないので、母もこの名前の由来を良く知らないらしい。

石動へは、金沢まで特急に乗り、その後どんこ列車に乗り換える。

金沢へはむかし雷鳥、今サンダーバードでゆく。
サンダーバードは新しい車両で、北陸の新幹線とも言いたい快適さなので、乗るのが嬉しい。

しかし、行きしなは禁煙席が取れず雷鳥で行くことになった。

雷鳥は、黒部にいる天然記念物の鳥で、それを列車の名前にした、北陸線名物の列車だ。今も元気で走っているのだと安心する。

昔ながらのベージュの車体に赤いラインを引いた雷鳥がホームに滑り込むと、訳も分からず心が踊った。なつかしい。うれしい。
叔父の見舞いに行くというのに、なぜか心が華やいでいる。

列車に乗るのが嬉しいのだ。
子供か、私は。と一応突っ込む。

 

そうだ、久しぶりの列車なのでうきうきと楽しいのだ。

学生の頃は良く旅行をした。今でも、阪急に乗るのさえ好きだ。
車両から景色を見るのが好きだ。
旅行は、列車に乗れるので好きなのだ。

私の親戚が田舎から京都に来る時は、車で来ることが多いが、車では旅行とは言えない、という感覚がある。
車では旅行すべきではない。旅行をするなら、断然列車だ。
私にとって旅行は、列車でしかない。
私に運転免許がなく、車を持っていないからだろうか。

電車でも私鉄では旅行と言いきれないが、JRだと途端に旅行だ。
たとえ大津や大阪ヘ行くのでも、JRに乗ると旅行だと思ってしまうから不思議だ。

私はもしかしてJR・旧国鉄フェチなのだろうか。

 

ともあれ、京都駅で北陸線に乗ろうとすると、ホームは駅を入ってすぐそこ。駅の入り口から、駅に入る前からもう北陸線が見えている。番線で言えば0番線。
0番線なんてあったっけ、と驚く。
前は確か1番線だと思っていたが。ゼロになったらしい。
あんまり入り口から近すぎるのでゼロなのだろう。そうに違いない。

京都駅の外観はグロテスク(?)に変身したが、内実はあまり変わっていない。
京都駅のこういうところが好きだ。

北陸なんて遠いところに行くのに、駅に着いたらもうそこがホーム。
金沢ヘ行く、富山へ行く、などという心構えをする暇もなくいきなり雷鳥やサンダーバードが見えてしまうのが笑える。

ああ、列車に乗って遠いところヘ行く、と感慨にふけるのが私にとっての旅行である。
切符を買い、時間を確め、列車の到着を待つ。待ち時間にお弁当を買い、普段決して飲まない缶ジュースや、ペットボトルを買う。
いろいろの段取りがあるのが旅行の嬉しさ楽しさである。

京都駅の北陸線ではそのような段取りが相殺され、あたふたしてしまうがそれも悪くない。

京都から東側(いわゆる上り)方面に行く時には、まずトンネルをくぐる。
何はともあれ、まずトンネルがある。
トンネルを出ると、ああ、他府県へ来た、という感慨がある。

京都の人間は、誰しもこの感覚を持つはずだ。山科を出るとトンネルがあるからだ。
この感覚が楽しいのだ。トンネルをくぐると、ああ、旅をしている、ああ、京都以外のところに行く、という感覚になる。これが楽しい。

あたふたしながら感慨もなく列車に乗り込んでも、トンネルに突入することで、ああ、とうとう…という感慨にふけることが出来るのだ。

 

ところで時刻表の上り、下りという表記がどうしても馴染めない。

東京駅を起点としているからだろう。

京都の人間は、どうしても京都を中心に考える。
日本の中心は京都だと、今でも京都人の誰もが無意識に思っている。

だから、自分のところ(京都)に来るのが上り、自分のところから出るのが下りだと、そういう感覚があるのだ。
京にのぼる、という表現があるではないか。

いっそ、ややこしい上り下り表記はやめたらどうか。東京中心主義というのは、その他の46道府県に失礼だ。混乱を招く。
46道府県の便宜を無視し、たった一都の便宜を優先するなどは、おごりも甚だしい。

 

というわけでトンネルを抜けて他府県に突入すると、待っていたように田園風景が見えて来る。
今回車窓から見た田んぼは、久しぶりだったのでことのほか思うものがあった。

列車から見る田園風景は十年一日の如く変わらない。その変わらないことが驚きなのであった。
ケータイ、PC、薄型テレビなど、日本人を取り巻く日常は瞬く間に変わって行く。けれども、田園風景は変わらない。
変わらないものと、あっという間に変わり消えてゆくものとの狭間で、私たちは生活している。
その落差を埋める精神の支柱を私はしかし見出すことが出来ない。

田舎に着けば、変わらない風景はきっともっと出て来るはずだ。そこは、変わる必要がなくて変わらないのだ。
その揺るぎのなさが眩しい。
私たちは、その田舎の風景が永久に変わらないようにと願う。それが極めて自己本意な、身勝手な欲求だとも意識せずに。
田舎に変わるなと要求するなど、日々変わりゆく私たちにそんな権利はないのに。

 

石動は散村で有名な所だ。

家が田んぼの中にほつぽつと点在している。家と家が離れている。

子供の頃から何度も行っている母の実家なのだが、いつ行ってもどういうわけか懐かしいという気持ちは起こらない。
いつ行っても初めて来たように思え、よそよそしく感じる。
母方の先祖の墓にも参り、近所のばあさんたちにも挨拶に行ったのだが、ほとんど初めてという感覚だ。

それでも鍵もかけないで昼寝していたり、顔を見せたら、桃やたまねぎやぶどうや、ありったけのできものを持って帰れというのが田舎らしい。

田舎は家と家が離れているので車が必須だ。女性でも必ず運転が出来る。車の運転が出来なければ二進も三進も行かない土地なのだ。
私のいとこ(叔父の息子)はポルシェを乗りまわしている。
田舎は贅沢だ。

 

小旅行というのは日帰りだったからだ。

石動の駅まで、叔父のお嫁さん(といってももう孫もいるが)に車で送ってもらう。
石動は、有名建築をミニチュア化して学校やらにしていることでも一時有名になったが、車から見て方向が違うのか、良く分からなかった。

石動から金沢まで行く途中に倶梨伽羅峠を越す。
倶梨伽羅は源平の古戦場であったと駅の看板に書いてあった。

芭蕉の奥の細道も、ここを通る。ほんの一行触れられているだけだが。

どんこ列車は意外と空いていた。
あの、ぴゅんと直角に伸びている座席の背中が妙にいとしい。
どんこに乗るのは10年ぶり、いや20年ぶりくらいかもしれない。だから嬉しいのだ。

 

帰りにはサンダーバードに乗った。サンダーバードは、雷鳥に比べるとやはりゴージャスだ。座席がゆったりしている。
ただしやはり禁煙席が売り切れだったので喫煙席になった。

列車の喫煙席は困る。2時間煙草の煙でむせなければならない。この2時間で、私は一生分の煙草の煙を吸ったような気がする。
自分で吸う煙草の煙より、人が吸う煙草の煙を吸う方が毒だという。
喫煙席は車両の中でも一つか二つくらいしかないので喫煙者が集中するのだろう。

金沢の待ち時間の間にお弁当を買い、ソフトクリームを食べる。
母は方向音痴の上に要領が悪いので、駅の構内に入ると途端におたおたする。どこがどこか分からなくなるのだろう。
そんな母を見ているのが面白い。

金沢はたいてい、通過するだけだ。金沢駅から出たことがない。それがとても残念だ。いちどゆっくり観光してみたい町なのに。

 

敦賀あたりでむき出しの観音さま(多分)をやり過ごし京都に向かう。北陸線は大昔は琵琶湖の東を通っていたが、今は湖西線をゆく。琵琶湖がすぐ横に見える。

行きしなは、反対側の席だったため見えなかったのだが、帰りは琵琶湖が良く見えた。
湖西線を通るなら、やはり琵琶湖は見ておかなくては。
走っても走っても琵琶湖。この琵琶湖の威容をたっぷり見るのが湖西線をゆく楽しみである。

日が暮れて来て、大津を過ぎれば再びトンネルがやって来る。
トンネルに突入すると、座席がざわざわとし始める。トンネルを出ると京都なのだ…、降りる支度をしないと。
サンダーバードは大阪までゆくので、京都では少ししか止まらない。そそくさと降りなければ大阪まで連れられて行ってしまう。
駅に近づくと東寺の五重塔よりも京都タワーが目立つ。
それでも京都に帰って来たという臨場感は変わらない。ほっとする感じが全身を貫く。

北陸線は、蒸気機関だった時から利用していた。トンネルをくぐる時、乗客がいっせいに窓を閉めて、煙が入らないようにしていたことも覚えている。
もっと長い時間かかっていた。ほとんど半日くらい、汽車に乗っていただろう。
それでも足で歩いた芭蕉の時代よりは楽だったのだ。
蒸気機関車は、梅小路へ行けば会えるのだが、今だに行ったことはない。

北陸線の帰りは、0番線ではない。駅玄関へは少し歩かなければならない。
駅を出て、京都タワーへ向かって歩き始めると(歩いて家に帰るのだ)、暑さが体にまとわりついて来る。
富山は暑いと地元の人が言っていたが、なんの、風が爽やかで涼しかった。
ねとっとした、しんねりした、人を腰砕けにするような熱のこもった暑さは、ひょっとしたら京都独特のものではないか。
それでもやっぱり京都がいい。
小旅行であっても、帰って来ると、ああ、京都はいい…と思ってしまうから不思議だ。
故郷がいい、としみじみ思うのも旅行の一種の醍醐味か。

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