7/6 夏のパジャマ
7/31 世界遺産
7/31 世界遺産
「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録された。
日本で12番目の世界遺産だ。日本で最初に選ばれたのが法隆寺。「古都奈良の文化財」を経て奈良県では3つ目の世界遺産登録になる。
京都も、1994年に「古都京都の文化財」として、京都市・宇治市・大津市がひとまとめに登録された。
宇治は平等院、大津は比叡山延暦寺のことだろう。
奈良が3つで京都が1つとは…と、京都人民としては、物足りないなと無意味なライバル意識を奈良に燃やす。
金閣寺・銀閣寺、延暦寺、竜安寺地区と、清水寺、西本願寺、東寺、平等院区域で北と南に分けて、京都その1、その2で登録出来なかったのか、などと無理なことを考える。
いや、あまりにも近くにありすぎて、やっぱりひとまとめということになるのだろう。けれども三十三間堂とか桂離宮とか登録から漏れている処もあるのだが…。
もし京都でこれから登録の可能性があるとすれば、むしろ北にある天の橋立くらいか。私は行ったことがないように思うので(記憶が定かでない…)、それほどすごいのかどうか分からない。天橋立が指定されるとすれば、日本の他の地域でもっとふさわしい処があるはずだと文句が出るかもしれない。
ところでこの前テレビで、明治時代の新政府の方針(神社合祀?)で、紀伊山地の霊場にある神社が次々に壊され、神木が倒され、紀伊の自然が破壊されようとした時、あの南方熊楠がそれを阻止しようとして自然保護運動を行なったということが放送されていた。
南方熊楠は、私らのようなひと昔前のJUNE世代のやおい必読のあの「浄の男道」の熊楠である。
彼にとっては、自然を守ることはそこに住む人を守ることであった。人は自然によって生かされているのであり、人と自然は循環し、輪廻のようにぐるぐる回っていると熊楠は考えたのだろう(私の勝手な解釈)。
であるから自然を破壊することが許せなかった。しかも、紀伊の山に生えている木々は神木である。
古来、日本人は木や滝や、山を神としてうやまい、崇めて来た。そこには聖霊が宿り、その美しさゆえの神秘を人はいつくしみ、称えても来たのだ。
日本人にとって、自然とは恵みをもたらす神であり、時に怒りや罰を下す荒ぶる神であり、だからこそ共存してゆかねばならぬものであるはずだった。自然を、つまり神を人の手で崩壊させて行った時、熊楠はどれほど嘆いたことだろうか。
今、紀伊の自然が保たれ、保護され、そして世界遺産に登録されたのは、この熊楠の精神を、彼が守りとおした紀伊の自然を受け継いで、次世代に残そうとする地元の人の努力によるものだろう。世界遺産に登録される、ということは、そこが観光地として栄える、というだけのことではない。その遺産を受け継ぎ、次世代に残してゆかねばならぬ使命を負うことである。またそういう努力をしているところが、認定されるのだ。
番組を見ている時、母が富士山は世界遺産に登録してもらえなかったのだ、と言った。
私は寡聞なことにこのことをまったく知らなかった。
要するに、富士山を、日本から世界遺産に登録の申請をしたのだが、通らなかった。
認定する人が来日して、富士山を見てみたら、あまりの汚さに、登録は出来ないと言ったのだという。このことに、ちょっとショックを受けた。
富士山といえば今も昔も日本の象徴として、内外から愛されて来た。画家も作家もこぞって富士を描いた。
私も新幹線から見る富士山が、それは絵に描いたような当たり前の光景であるはずだというのに、窓から見えて来ると、その雄大さ、ゆったりとした大らかさ、その神秘にうたれるほどだ。車窓から見る富士山は、それほど美しいし、人を惹きつける魅力がある。それなのに、その富士山が汚なすぎて、世界遺産に登録されそこなったのだという。
昔は、富士山とても神だっただろう。あれほどまでに神秘的で美しい山なのだから、古代の人がその美しさにうたれ、神として崇めなかったはずがない。
だが、その神であるはずの富士は、屋久島の杉とか、紀伊山地の霊場が、地元の人々によって守り通されて来たほどには、守られて来なかったのだ。
一体どうしてなのだろう。悲しさと無念さに、胸が痛む。
翻って、わが京都を考える。
私たちは、京都にある遺産を守れているだろうか。
われわれの先祖は、世界遺産に登録されたからといって、それが重要な観光資源であるからといって、それらを大事にして来たわけではなかっただろう。
先祖が作り上げた美しいものを、美しいからこそ守り、伝え、残そうとして来たのだ。そういう意味で、法隆寺が真っ先に登録されたのには意味がある。
火がつけば燃えてなくなってしまう木造建築を、1000年守り通して来た。それぞれの時代の人が、それぞれ大事に守って来たのだ。そのことだけで奇跡であり、大変な努力である。
私たちは、この先人の努力を無駄にしてはならないのではないか。
清水寺の舞台は、釘が使われていない。木材の組み合わせで出来上がっている。
その舞台のメンテナンスのため、地元の宮大工さんは、毎日清水寺に行き、あの舞台下の組み立てられた木材を、とんかちでコンコンと叩いて微調整するのだという。観光客に見せ、そしてそれを遺産として未来に引き継ぐためには、毎日の努力が要る。
それを汚さないようにし、大事にして、未来の人に、人が作った美しいもの、人の手の及ばぬ美しいものを、変わらぬ形で伝えてゆく。そのことは、なんとも心踊りのする、晴れやかな仕事ではなかろうか。
そのために、何が出来るだろうか。何をせねばならないだろうか。個人個人で出来ることはあるであろう。努力を忘れないようにしたいものだ。
7/6 夏のパジャマ
私は買い物をする時、一度で買うことが出来ない。
ショッピングモールを歩いていて、いいのがあるな、と思ってもすぐには買えない。
一度家に帰り、よく反芻し、しかるのち、どうしても欲しい、という気持ちが押えられないという時のみ、次に同じ店に行って、もし残っていたから買おう、というような態度で商品を買う。だから、私にはカタログとか、オークションなどの方がきっと適しているとは思う。
ひとつには、人形にすべてのお金を次ぎ込むため、自分のものを滅多に買わない、ということがあるからで、人形の着せ替えの方が自分の着る服より高い、というのはザラである。
だから1900円のTシャツ一枚を買うのにも、さんざん逡巡するのである。
去年、パジャマを買った時もそうだった。
告白すると死刑になりそうであるが、どういうわけか、私の寝巻きにはベビードールが多い。
心の中ではフリフリが好きなのだろうと思う。寝る時くらいは、自分の好きなスタイルでいたい、という願望があるのかもしれない。
それで夏になると、トップはギャザーたっぷりのベビードール、ボトムはブルマというパジャマを着るのだ。
と、言うとさらに殴られそうだ。その前に、嘔吐されるかもしれない。でも、どうせ人には実物が見えないのだ。殴りたかろうが、ネットでは私にまでは届くまい。
誰にも見られる心配はないのだから、どんどん着る。…家族の者には、実はお風呂上がりなどにどうしても見られる。
家族の者は、神経が太いらしいのか嘔吐を我慢しているようだ。見て見ぬ振りをしているのかもしれない。
それはともかく、ある時、よく行くショッピングモールで、スヌーピーのパジャマが売られているのに気がついた。
私は、磁石に吸い寄せられるようにして、ごく自然にその店に入っていった。
気がついたらいつの間にかスヌーピーのパジャマを、必死になって吟味している自分がいた。そのスヌーピーのパジャマは、ベビードール型だったのだ。
車で轢き殺されそうだが事実なのだからしょうがない。
スヌーピーの柄、ベビードールタイプ。私の好きなものが二重に重なっている。
買うしかない。しかし、私はそこで逡巡した。
スヌーピーのベビードールパジャマには、色違いが三種類あったのだ。
もっと沢山色違いがあったかもしれない。けれども私の目に入ったのは、ピンク、黄色、ブルーの三色だった。
いや、本当は、スヌーピーの他に、ミッフィーちゃんの柄と、くまのプーさんの柄があったのだ。しかし、私はスヌーピーとミッフィーちゃんを好きなほどにはくまのプーさんを好きではない。であるから、くまのプーさんは、その時点で脱落した。
(ついて行けない人は、ここで挫折して下さい)
残るのはスヌーピーとミッフィーちゃんである。
私は迷った。そして混乱した。
スヌーピーか、ミッフィーか。どちらだ。どちらにするべきなのか。
どちらも同じような、ベビードールタイプのパジャマである。
こんな私好みのパジャマには、生涯もう二度とお目にかかれないであろう。まるで私のためにデザインされたようなものだ。今買わないで、いつ買うのか。さまざまな思惑が店先でパジャマを吟味する私の脳髄を駆け巡った。
さあどうするのだ。
それは、スヌーピーが大きく一面に描かれているのではなく、スヌーピーが幾つも細かく散らすように描かれていて、バックの色が、それぞれ違うのだった。
ミッフィーちゃんも同じようにして、小さなミッフィーちゃんが何匹も(何人も?)描かれているのだ。なんというかわいさであろう。
私の目はハート型になり、キラキラと少女まんがの少女の目のように輝いていた。スヌーピーが欲しい。でもミッフィーちゃんも欲しい。どちらがいいかなど、到底決められない。
しかも、それぞれ三色くらいずつ、色違いがあるのだ!
この中からどうして一着だけを決められるだろう、この私に?
この時、愚かな私は、どうして洗い替えにもう一着、合計二着を買う、という発想をしなかったのかと、今でも悔やむ。
しかしその時は、私はすでに生きるか死ぬかであった。そのようなハムレットの心境になっており、どれかひとつを選ばなくてはならない、という究極の選択のために苦悩の極地にあった。
そのような理性的な判断が出来る状態ではもはやなかったのだ。そのようなわけで、私はその日、何も買わずに、いや買えずに家へすごすごと帰ったのだった。
家で理性を取り戻し、考えた。その日は夜じゅう、ご飯を食べる時も、トイレに入った時も、寝床に入ったあとも考えた。
まず、スヌーピーとミッフィー、このふたつのうち、どちらを選ぶか。それが先決だ。
まずそれを選んでから、色を選ぼう。その方が合理的だ。私としては、多少、理性的な判断だったと自分で自分を褒めたい。
しかし、スヌーピーとミッフイー、どちらを取るか。そのような残酷な決定は私には到底出来ない。
いや、選ばなくてはならぬ。どちらかにせよ。この残酷な選択は、私にとってはソフィーの選択よりも困難なものだった。
なぜ、この時スヌーピーを選んだのか、なぜミッフィーちゃんを捨てることが出来たのか、今となっては、記憶が定かではない。
おそらく、その選択は私とキャラクターの付き合いの長さによるものだったのだろう。
ミッフィーちゃんより、スヌーピーの方が古くから馴染んでいた。そのために私はきっと、スヌーピーを選び取ったのだ。よし、スヌーピーにしよう。
そう決意した時、夜はすでにしらじらと明けていた。
Intermission
次の日は、さらに大変だった。
スヌーピー柄に決めたものの、今度は色を決めなくてはならない。
ふたたび私は血と汗が滲み出るような苦悩に身を焦がさなくてはならなかった。ピンクとブルーと黄色。どれも捨て難い。
ピンクは私の好きな色だ。ブルーは涼しげであった。黄色は、今まで持っていない色だ。
こういう時、後悔しないための大原則を私は思い出した。
自分の気に入った、最も好むものにせよ。
その色を買って絶対に後悔しないであろう色を選ぶのだ。どうだ、分かったのか。とつとめて冷静を保ちながら自分に言い聞かせた。
はい、分かりました。
私はピンクが好きです。…だからピンクに…
いや、待て。
私はここでイメージトレーニングに入った。私は器用にも、そういうことも出来るのだ。
自分がピンクのスヌーピー柄のベビードールを着て寝るところを想像した。自分のことであるから嘔吐はしない。
多少気持ち悪くなりながら、想像した。
するとそれは、芳しからぬものであった。これを着るのは夏である。夜の間これを着て寝る。
ピンク、それはいささか暑そうだったのだ。ピンクという色にもいろいろあるであろう。濃いめ薄いめ、サーモンピンク、ベビーピンク、等々。
スヌーピーの柄がプリントされたそのパジャマのピンクは、思い出すとわりと濃い色だった。いけない、と私は思った。
ピンクは駄目だ。
一番好きな色であるが、それを着たらきっと私は寝苦しくなるだろう。ピンクはしつこい。夏の暑い日には、あっさり味が良いのだ。薄めの色が良いのだ。
そんなわけで、私はピンクを却下した。
これで良かったのだろうか。私の心は揺れた。
ピンクを退けたものの、心は揺れていた。しかし、と私は思いなおした。
これでいいのだ。絶対いいのだ。一度決めたことであろう。もう二度と気持を変えるな。これが正しい選択なのだ。分かったか、分かったな、分かったであろうの。
私の内なる神の声によってピンクを捨て、第二段階に入った。
まだブルーと黄色が残っている。この二つのうちどちらかを選択するのだ。
比較的すぐに決まった。
ブルーの方が涼しげだ。夏は涼しい方が良い。ブルーだ。ブルーに決まりだ。これしかないのです。
これだけのことを家で決めておき、そして次の週に私は意気揚揚と、くだんの店に乗り込んだのだった。
***
まだそのパジャマが店に置いてあるか、それが心配だった。
私が家で逡巡しているうちに売り切れてなくなってしまったのではないか。そのオソレがあった。私はこわごわ、その店をのぞいた。
ありていに言えば、パジャマはまだじゅうぶん数が揃っていた。私以外に買おうという人は、そんなにいなかったのかもしれない。
しかし、そんなことに頓着してはいられない。
私は家での十分なシミュレーションにしたがい、ブルーのスヌーピーを手に取った。しかし、と、そこでためらいがあった。
違う。
家でシミュレーションした時には、ブルーは涼しげであった。
しかし、実際手に取ってその色を見てみると、思っていたより濃かったのだ。ブルーも、濃いめの色になるとあまり涼しげではない。
しかも、よく考えたら私は既に、ブルー系のパジャマをすでに一着持っているではないか。それももちろんベビードールである。私が、洗い替えを考えなかったのには、この、ベビードールをすでに何着か持っている、という事実があったからでもあるのだ。
であるから私は、土壇場になって考えを変えた。
同じ色目を何着も持っていても面白くない。今度は違う色にしよう。そうだそうしよう、それがいい。
そんなわけでついに私は黄色のスヌーピーを手に取った。
黄色といっても、よく見ると黄色と白のチェックだ。だからそれほど濃い黄色ではない。
これにしよう。これが一番いいではないか。そうだ、そう思おう。
私は黄色のスヌーピーを買った。
ボトムは残念ながらブルマではなく、半ズボンだった。裾にフリルがついている。
今、私はそれを着ている。
大変満足している。
時々はあのミッフィーちゃんはどうなっただろう、と思わないでもないが。
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