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6/4  三角縁神獣鏡
6/15 文体について悩む
6/29 平安時代の人形(ひとがた)発見

 6/29 平安時代のひとがた発見

平安時代の人形(ひとがた)が発見されたと、しばらく前に報道があった。
話題にしようと思いながら、またまた忘れてしまい、例によって今ごろになってしまった。
高松塚の壁画が痛んでいることの方が最新ニュースなのに。
でも、いきがかり上、ひとがたニュースを優先させてもらおう。

地元新聞の第一面にでかでかと出ていたニュースだったのだが、恐らく全国的にも報道されたのではないだろうか。
地元新聞では一面のほか、三面記事にもしつこく出ていたので、かなりのニュースバリューだったと想像されるからだ。

それが、平安時代の、呪術に使われたものらしいというので話題であったのか、それとも平安時代という時代が古いので話題になったのか、正確にはどちらであったのだろう。
確か最古の、と書かれていたから、古いものであるのは間違いがないとは思うのだが。

ともあれ、三面記事には、これでいっそう、魔界都市としての平安京(京都、であったかもしれない)が浮かび上がって来た、というようなことが書かれてあった。

これがちょっと問題ではないかと思ったのだ。

 

私は、何も地元のK新聞を貶めようと思うのではない。

ただ、その人形がたとえ呪術に使われたのが事実であったとしても、それは単に個人的な、極めて私的な用途のものであっただろう。あの記事を読んだ人は、誰でもそう思ったのではないだろうか。

それに対して陰陽師というのは朝廷に雇われていた管理職の役人である。
その役人が、個人の呪術に関係していたとは、私には思われない。
いや、たとえ陰陽師が関係していたとしても、それは個人的に頼まれたことであろうし、国のこととは無関係ではないのだろうか。
このひとがたの持ち主が朝廷の人間、もしくは天皇家に近い血筋の人間で、呪術が国家の行事として行なわれたというのなら、いざ知らずだが。

けれども、今、既に記事が手元にないので確かではないが、ひとがたに書かれていた人名は無名の者であったという。
とすれば、それは国家が関与した呪術だったとは思われない。

そうであれば、個人の呪術の品が発掘されたというだけで、平安京は魔界都市であったという結論など、導き出せないのではないか。

確かにそのころ、個人的に、平安貴族の間に呪術が大流行していたかもしれない。
しかしそれと、魔界都市としての平安京は、まったく別のものなのではないのだろうか。
呪術の流行が、桓武天皇の怨霊信仰の影響と見ることは出来るとは思うが、だからと言って、個人の呪いと、国家と陰陽師の政策とは別に関連はないだろう。
国家の政策が、個人の信仰にも影響を与えた、というような記事内容だったのなら、納得がいったのであるが。

 

いや、このようなことは、無知な私が正確な考証もせずにあれこれ言ったところで恥を掻くのがせいぜいだ。

私が言いたいのは、新聞というメディアについてである。

私には、新聞というものは、正確で公正で、厳正であるという、新聞信仰がどうやらあったようだ。
新聞に書かれたことは、厳密な調査と事実に基づいている、と信じていたのである。

けれども最近、どうやらそうではないらしい、ということが分かって来た。

ひとがた発見のニュースでも明らかだった。三角縁神獣鏡の時もそうだった。

人の興味をそそるような、面白げな惹句を使い、記事を注目させようとするところは、週刊誌記事と何ら変わりがない。それが事実かどうかということは、二の次なのだ。
事実よりも、そうであればいい(のに)、という願望の方が、明らかに優先されている。

このことに、驚いたのであった。

新聞というものは事実を伝えるだけで、憶測などは挟むものではないだろう、そう思い込んでいた。

いつからこうなったのだろう。
私は、批判しているわけではない。ただ、このようになって来ている、と言いたいだけである。


ひとがたは、平城京跡からも発掘されるそうだ。
今回、京都で見つかったような精巧なものではなく、木で出来ているが、今日私たちがお払いの時にもらう、紙のひとがたにむしろ近いもので、役人全員が、穢れを払うためにひとがたを用いて供養したという。こうなると国家規模の行事だったようだ。
個人的な呪にも使われたというので、呪の道具としてのひとがたは、私が思うよりずっとはるかに浸透していたと言えるようだ。

 

6/15  文章について、世界のはしっこで悩む

SDについて、抗議のメールをいただいたことで、深く考えることがあった。
(このことについては、次回に書く)

私は、自分の書くことについて、今まで自分を疑ったりしたことはなかった。
それなりに自信もあったし、なんら間違ったことは書いていないと思っていた。責任を持てる範囲内での記述であり、逸脱しているとは思わなかった。

だが、自信が揺らぎ出した。

人が私の文を読み、どう思うか、それは、私の思い及ぶ範囲ではない。

私のサイトを、隅から隅まで、残らず漏らさず読んでいてくれるなら、私の書くことの真意も理解出来るであろう。
しかし、最新に書かれたことだけを読んで、自分の人間性まで判断される、ということも、あるかもしれないのである。
私は、書くということに、どのように向き合えばいいのか分からなくなった。

 

それとは別に、自分の文が、読んだ時にどのような印象を与えているか、は常日頃、気になることであった。

私は、思春期に、これは何度も言っているのであるが、澁澤龍彦の文章に出会い、感化を受けた。

その文章は、気取りかえったダンディズムが今思えば、多少鼻につく部分があったものの、格調が高く、美しく、明解で、私がそれまで読んだ文章の中で、最も美しい日本語の文章であった。

以後、私は文体というものが感じられない文章を、嫌うようになった。

文章に気が使われていない文、日本語を使う時に、無造作でありすぎる文、そのようなものは、読むに値しないと思った。

難解であり、何度読んでも理解が出来ない文というものは、読む側が悪いのではない。書く側が下手なのである。
本当に上手な文章家は、一度読んだだけで理解出来る、分かりやすい文を書くものである。

そういうわけで、私は澁澤を最上の文章家として認識し、享受した。

 

さらにいろいろな本を読むうち、山下洋輔との出会いがあり、このジャズ文豪の文章の切れ味に舌を巻いた。
最近では、あの、土屋賢二がある。
彼が、文章家なのかどうかは分からない。私には判断不能である。
しかし、どういうものか、感化されてしまった。

 

かたやこうして、自分で、あれこれ書いていると、文章というのは、自然に内から出て来るもので、無理に作ったりするものではないと思う。
これまでの、私の接した文章や、本の蓄積が、私の文に影響をしているのであろう。
書いているうちに、影響を受けているなと感じることが多々ある。

私は、澁澤の本には影響を受けたが、文体には影響を受けていない。私が影響を受けたのは、むしろ、山下洋輔であり土屋賢二であるだろう。

断定的な言い方をするのは、山下氏の完全な支配下にあるからであろう。所々にギャグをいれたくなるのも。はったりを書くのは土屋氏の影響であろう。
どうして、私の文章が、あれほど心酔した澁澤をとらず、土屋ごときをとったのか、自分自身にも分からない。

*おそらく、あのような気取った文章は書けない、との無意識の判断があったのだろう。

*「いかがなものか」という言い方が気に入って、乱用するのはムネオちゃんの影響なのだろうか。

 

ともかく、自分では、だんだんと自分の理想の文章から遠ざかって行くようになって、自己嫌悪を感じるようにまでなった。

いつからこうなったのだろう…。と。
自分の文章は、誰かのイミテーションではない。
山下氏の名を出したけれども、土屋氏の名も出したけれども、彼等の文章と似ている部分はないと思う。
いろいろ無意識のうちに取捨選択して、私自身がこのような文を書くに至ったのだ。誰の責任でもなかろう。私の自己責任である。

これが、いやになって来た。

私は、現在読んでいるある人の文章をいいと思うようになっている。
ひょっとしたら、そのような文を書きたいと願い、そのように変化するかもしれない。

 

 6/4 三角縁神獣鏡

ちょっと前だったのだが(半月ほど前)地元の新聞の夕刊の1面に、三角縁神獣鏡の成分が判明したことが、大々的にカラーつきで報じられていた。

例によって、おおっ、とその時反応したのだが、その後すぐ忘れてしまい、書くのがこんなに遅くなってしまった。

私が読んだのは地元の新聞だ。だから全国的なニュースなのかどうか、とその時咄嗟にいぶかしんだ。
京都だけで盛り上がっているのではないか、と思ったのだ。

なぜなら、成分の分析を行なったのが京都・左京区の博物館の学芸員らで、発表は立命館大学で行なわれると書かれていたからだ。

けれども、その夜のテレビニュースでも報じられていたから、かなり全国的なニュースだったのだと、やっと納得した。

三角縁神獣鏡は、卑弥呼の鏡かもしれない、として有名な鏡である。だから、ニュースになるのだ。

 

なぜ卑弥呼の鏡かもしれないと思われているかいうと、卑弥呼と「魏志倭人伝」の由来を知っている人には有名な事柄だろう。

「魏志倭人伝」には、邪馬台国の女王卑弥呼に、魏の国の皇帝が鏡を与えたという記述がある。
そしてこの三角縁神獣鏡が、その鏡ではないかと目されているのだ。
だから三角縁神獣鏡が、邪馬台国がどこにあるかを証明する重要な鍵になっている。

 

邪馬台国論争は、もう少し複雑になる。

邪馬台国が九州にあったのか、畿内にあったのかが、昔から論争の焦点になって来た。
煩雑になるが、ここでおさらいをしよう。

私は、邪馬台国は九州にあったということでもうてっきり結論がついていたものと思っていたのだけれど、今回のこの新聞の記事を読むと、そうでもないようだ。

「魏志倭人伝」、すなわち「三国志」、魏書の「烏丸鮮卑東夷伝」倭人の条に書かれている記述の、邪馬台国への道のりを考えてみると、だいたい九州のどこかになるようだ。

それでも、邪馬台国が畿内にあった、とする研究者は、邪馬台国という名がのちの大和政権のヤマトという発音と酷似すること、そして三角縁神獣鏡が畿内から出土していることなどを根拠としている、のだろうと思う。

卑弥呼がもらったという鏡が出土してこそ、そこが邪馬台国だったと証明できるはずだ。
三角縁神獣鏡は、畿内からしか出土していない。九州にはない。(だから邪馬台国は畿内である。)

それでは、卑弥呼が魏から百枚もらったという銅鏡は、三角縁神獣鏡なのだろうか。

 

今回の分析では、この畿内から出土した三角縁神獣鏡の成分が、中国の3世紀の鏡と同じ成分だったということが分かった。
だから、一見、この鏡が魏の国から邪馬台国に与えられた鏡だというふうに思ってしまいそうになる。

けれども一番大事なところは、この三角縁神獣鏡が、肝心の中国では一枚も出土例がない、ということだ。

これはどういうことか。

つまり、三角縁神獣鏡は、中国では生産されなかった。
あの広い中国で、今まで一枚も発見されていない、というのはやはり見逃せない事実だ。

中国に存在しなかったものが、日本に渡来するはずがない。

魏の国が邪馬台国に分け与えたというのだから、その鏡は魏の国が、魏の国の技術で作り上げたものであるはずだろう。
つまり三角縁神獣鏡は中国ではなく、日本で作られたもの、ということになる。

今回、その成分が中国のものだとの結論が出たという。けれども、そのことによって、この鏡が中国生産のものであるとの証拠にはならない。

日本では、中国からもたらされた鏡やその他の製品を鋳つぶして、あらたに作り直すことがなされていたからだ。

当時は、朝鮮(百済)などからの渡来人も多くあった。それらの人の技術を借りて、鏡を作ることが行なわれていただろう。だから、材料が中国製であっても、製品が中国で作られた、と短絡的には言えないのだ。

 

問題なのは、畿内説を唱える人が、関西系の研究者に多いところかもしれない。

九州説は、おもだったところで松本清張、黒岩重吾などの推理作家陣、森浩一(考古学者)など、良心的な殆どの人が九州だと言っている。

私が読んだK新聞の解説には、

「邪馬台国畿内説」の確証とするには超えなければならない課題はまだ多い。

と書いてあって、心の底から驚いた。

邪馬台国は畿内か九州か、ではなく、もう、何が何でも畿内説を証明しなければならない、という態度なのだ。
というよりも、もはや邪馬台国は畿内でなければならない、という思い込みがあるようなのだ。

これはどうしたことか。

これは単に新聞の発表であって、別に研究者の言葉ではないのだから、どうということはないのだが、もし、畿内説の学者がこのような態度で研究を行なっているとしたら、いかがなものか。
本末転倒とは言えないだろうか。

 

曲がりなりにも邪馬台国は学問なんだから。地域開発のために有名人を誘致するのとは訳が違うのだ。
地域を活性化したいという気持ちなのかもしれないが、九州と争って卑弥呼さんこっちに来て下さいではないだろうと、思わず突っ込みたくなった。


私のまずい文章では、三角縁神獣鏡問題をきちんと説明することは不可能だと我ながら感じる。

中国から出土している鏡は三角縁でない鏡である。日本からも、三角縁でない鏡も出土している。
「方格規矩四神鏡」という難しい名前のものだ。
これが卑弥呼の鏡と言えなくもないはずだ。

それでも三角縁のものが卑弥呼のものではないかと言われているのは、そこに、ある年号が刻まれているからでもあるのだが、あまりにむつかしいので、これ以上は触れられない(^_^;)。

参考 「古代史を読み直す」黒岩重吾

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