09/04/27

御旅所

09/04/27

子供の頃、私にとって、お祭といえば5月3日で、お寿司を食べる行事のことだった。

ばらずしだったか巻きずしだったか稲荷ずしだったか、それともそれらすべてだったのかは忘れたけれども、お祭りだからと、母が毎年その日におすしを作っていたのだった。

それ以外にお祭として行うことは何もなかった。

 

その祭というのが伏見稲荷の稲荷祭で、私達の住んでいる地域が、還幸祭の順路に入っているということを知ったのは、実はつい最近のことだ。

そんなになるまで自分の地域のお祭を知らないというのもうっかりが過ぎるが、しかし、私の地域は結構特異で、町内に神社があり、そこも4月に祭礼を行う。
色々重複して祭がある地域なのだ。

そして稲荷祭が自分たちの範囲に入っていることを良く知らないのは、神輿を人が担ぐのではなく、トラックに乗せて巡行するようになったこともある。

昔はもちろん人が担いでいたが、車が多くなり、危なくて人が担いでいる場合ではなくなった。

それでトラックに乗せるようになったのが50年くらい前であるらしい。

巡行ルートも、烏丸通りや五条通りといった大通りだけで、そこをトラックで走り去るだけなので、身近に感じないのも無理はないと思う。

 

下京の京都駅から烏丸通り周辺、七条通り周辺には、4月半ばころから各家の前に「御献酒」の御札が貼られる。

そこには稲荷祭下之社、というような文字が書いてある。

コンビニとか、旅館とか、店先にもこの御札が登場する。

するとああ、お祭の季節になったなあと感じるのだが、下之社、というのがどこで、何のことなのか良く分からなかった。

そしてその御札は、少し通りを上がり、五条通りあたりまで行くと姿を消す。

五条通の河原町より東では、新日吉大社の御献酒の御札が登場して来る。

いまひえじんぐう、というのが東山にあるのだ。

季節は大体稲荷祭と同じくらいだ。

これは四条通、祇園あたりでもこの御札が貼られている。

そして私の地域では、ごく狭い範囲だが、町内の神社の御献酒の札が貼られる。

 

同じくらいの時期に、京都の市内のあちこちで違うお祭があるのだ。

貼られる御札で、その地域のお祭りが何かが分かる。

4月のお祭は御霊会ではなく、むろん穀物など作物の豊作を祈るお祭だろう。

京都といえど農作のお祭は当然あるはずだ。

 

下之社というのが良く分からなかったのだが、最近になって伏見稲荷の御旅所のことではないかと思うようになった。

そんなことも知らなかったのかと言う向きもあるかと思うが寛恕なり。

伏見稲荷の御旅所は近くにないから知らなかったのだ。

近くにないのにお祭の範囲に入っているというのが不思議だ。

御旅所は、噂では東寺の近くにあるという。

その昔、平安の時代には京都駅というステーションはなかった。

だから、その周辺が京都駅で分断されることがなかったため、下京区と南区は、今ほど断絶していなかった。

稲荷祭の御旅所の(祭の)範囲が南区と下京区に広がっているのは、そうした訳だからだろう。

むしろ近年になって下京区とか南区とか伏見区などと細かく分けてしまったので、お祭の範囲がややこしくなったと言えるかもしれない。

 

御旅所といえば、祇園祭で有名な八坂神社の御旅所が四条寺町付近にある。

そのほか、町を歩いていると御旅所というのを時々見ることがある。

八坂神社の御旅所が四条にあるのがいつも不思議でしょうがなかった。

なぜなら、八坂神社は四条通りの東の端、東大路通に面して建っている。

そこから四条通をまっすぐ西へ歩き、河原町を越すとすぐに寺町の御旅所に着く。

なぜこんな近くに御旅所があるのだろうか。本社がすぐ近くにあるのに…。

 

祇園祭は、八坂の神様がこの御旅所にやって来ることで始まる。

前々から、なぜ近くに本社があるのにわざわざ御旅所まで来るのだろう、旅というほどの距離でもないのに。
そればかり疑問に思っていた。

私のところの稲荷祭も、考えればそうだ。

伏見稲荷から神様が御旅所の下之社にやって来る。

そんな遠い距離ではないのに旅してやって来ることになっているのだ。

で、御旅所でいっぷく、お休みになる。

うちの母は神幸祭を「おいで」、還幸祭を「おかえり」と呼ぶ。

稲荷の神様が御旅所においでになり、そこで一週間ほど滞在しておかえりになるらしい。

神様は旅をするのだと母は言うが、なぜ旅をするのだろう。

しかも遠くに旅するのではなく、ほんの近くに。

神様が町の人は無事に過ごしているかなー、と様子を見に来るのだと母は言うのだが。

 

この疑問で頭が混乱していたら、ちょうど京都新聞にお祭のことが記事に出ていた。

それは松尾祭と稲荷祭の類似を指摘している記事だったが、その中に、

平安京では京内に社寺を作ることが禁止されていた、と書かれている。

「禁止されていたが、民衆は神なしに過ごせない。

御旅所の形で神を祭り、…神のお告げとして祭礼を行った」

「民衆の動きを朝廷も認めざるをえ」なかったのではないかと。

 

お寺を作ることが禁じられていたのは知っていたが、神社も禁止されていたのは知らなかった。

それで、おおかたの合点がいった。

平安京内部に神を祭ることは許されなかったから、御旅所という形で、神様が一年に一度やって来る、というシステムを作り上げたのだ。

平安京というが、当時、平安時代の都の範囲は今のように広いものではない。

鴨の河原が処刑場であったように、鴨川は都の東の端であっただろう。

とすると、八坂神社も都からは「外」にある神社。

だから近くではあっても都の内部に御旅所が作られ、そこに八坂の神様を呼び、祭りを行うようになったのだろう。

 

稲荷大社の神も同様だ。

当時は伏見区なんてない。

みやこは東寺、西寺の官寺のあるところが南の端。

それより南に位置する稲荷大社はみやこ外。

そこからみやこの内部に稲荷の神様を呼ぶためにやはり御旅所が出来た。

そういうことなのだろう。

都に住む人々は、大きな、有名神社のしっかりした神様に守ってもらいたくて、御旅所を次々に作ったのではないだろうか。

あそこの町内の人達があそこの神様を呼んだそうだ、あっちの神様の効き目はウチにまでは及ばないから、ウチはこっちの神様を呼ぼうじゃないか、ここからここまではこっちの神様が守ってくれるぞ…

そんな感じで民衆が神様を欲しがったのだと思う。

 

神社やお寺の造営が禁止されていたとは言え、当時は疫病の原因も分からなかった時代。

その年、台風で作物がやられるかもしれないことも、飢饉が起きるかもしれないことも何も確実な情報もなく、対処方法もなく、ただ神頼みするしかなかった時代だ。

そんな時代に神社がないのはつらい。

何せ神様は当時の人にとっては、疫病の予防注射のようなものだからだ。

そんな訳で、お上も御旅所は特別に許したのだろう。

御旅所という施設の謎が解けて、雲が晴れたような気分になった。

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