09/03/21

道案内

09/3/21

京都は観光客が多い。

その観光客が、町を歩く人に道を尋ねる頻度も多いようだ。

地図を片手に歩いている人は良く見かける。

それらの人のうちの幾人かは、手っ取り早く道を知るために、近くにいる人に尋ねる。これもよくあることだ。

私自身はこれまで道を聞かれることは、あまりなかったような気がする。

おそらくあまりにもぼうっとしているので、聞いても分からないだろう、と観光客も私を見るなり諦めるのだと思う。

しかし、全く尋ねられないこともない。

ものすごいチャレンジャーな観光客か、もしくは私が何者か全く分かっていない素人観光客が、私に道を訊いて来ることもないではないのだ。

そういう時、いつも咄嗟にへどもどして、どう答えて良いか分からなくなる。

いいかげんに上手に道案内が出来るようになりたいといつも思う。

 

道を尋ねられて困るのは、ひとつはあまりにも目的地が遠い場合、そして茫洋とした目的地を言われた時、そして当然だが知らない場所を聞かれた時、さらに近くだけれど知らない場所の場合などである。

知っている場所だが行き方を知らない、という場合が最も悲惨だ。

道を聞く人は、迷子ではない。今私はどこにいるか、ここはどこか、などとは聞かない。

観光客であって、目的地までどのように行くか、を聞いて来る。京都での尋ね人は大体そうだ。

 

例えば五条河原町から神護寺へ行きたい、などと言われると非常に困る。

バスなのかタクシーなのか、自家用車なのかによっても答え方が違うし、そんな時は交通機関をまず聞かなければならない。それが煩わしい。

車で行くとしたなら余計に答えようがない。

車に乗らないので、どのように言って良いか見当がつかないのだ。

どの道が国道の何号線かを知らない。どこが右折禁止で一方通行かも知らない。

そんな私にどうして車での行き方を教えられるだろう。

とにかくここをまっすぐ、とか北へずっと行く、とか、まったく白痴のような答えしか出て来ないのだ。

堀川通りをあがって、だの、烏丸通りをカミへ、などと言おうものなら、質問者は、まるで私がポルトガル語を話しているかのような顔をして、複雑な表情を浮かべる。

これはいかんと軌道修正して、ここをまっすぐ行って広い通りに出て…、と言いなおす時にはもうしどろもどろだ。

 

また、祇園へ行きたい、とか、嵯峨野へ行きたい、と言われるのも困る。

目的地が広範囲で、ピンポイントな場所ではないからだ。

祇園といっても祇園のどこか。嵯峨野といっても広いだろう。

まずそう考えて、どういう風に言おうか、と悩んでいると最初のひとことがなかなか出て来ない。

えーとえーと、と言い淀み、そのさまは他人から見たらまったく白痴である。

 

目的地の名前を聞いたことがあるが、正確な場所を知らない、または、どの交通機関で、どの道から行くかの見当がつかない場合も結構ある。

咄嗟には出て来ない。しばらく考える時間が必要だ。

あそこへは地下鉄で行けたか、JRだったか、それともランデンだったか。

道を訊くくらいだから、タクシーでは行かないのだろう。となれば、バスか?あれこれ考える。

しかし観光客は今すぐそこへ行きたいのであり、道を歩いている人に訊けば誰もがそこを知っており、たちどころに答えが出るものと考えていて、その竹を割ったような答えを予想して、期待に胸を膨らませている。

そんな時にあそこはえーと、うーんと、などと頭を抱え込み、全く答えが出てこないので、観光客には私が痴愚・魯鈍に見えるのである。

 

観光客は突然現れる。

そしてまったく予告なしにこちらに訊いて来る。

何を訊いて来るか分からない。いきなりここへはどう行くか、と訊く。

その目的地はいつも私の予想の斜め上を行っている。

決して私が答えられるような場所を訊いては来ない。

金閣寺とか、二条城などという誰でも知っている場所は訊かない。

意表をついた場所を訊いて来るから、つい驚いてしまう。

だから咄嗟に対応出来ないのだ。

 

しかし時には良く知っている場所を聞かれる時もある。

この前円山公演付近を歩いていて、高台寺を訊かれた。

高台寺は近くだ。よしやった。と、その時にはそう思った。

しかし、円山公園から高台寺へ、正確に行く道を教えるのは、困難だった。

観光客にカミ、シモ、アガルサガルは禁句である。東、西(ヒガシ、ニシ)も使わない方が良いだろう。このようなことを経験により私は知るに至った。

慎重に言わなければならない。

でも、結局しどろもどろになった。

知っている場所ですら、正確に、簡潔に、要領よく教えられないのだ。

どうしたことか。

自分が知っているからこそよけいにじれったくなり、あそこを…だの、そこを…だの、代名詞ばかりを多用するのだ。

ほらあそこやん、分からん人やなあ。あそこを右へ曲がってあそこを行ってあそこからあそこへ…

その結果、観光客はきょとんとした複雑な表情を浮かべる。

その表情にはもう飽き飽きだ。

最も良いのは一緒に歩いて案内することだ。

それが最も手っ取り早い。

だから京都人は、よく観光客を聞かれた場所まで一緒に歩いて連れて行くのだろう。

 

最大に困るのは外国人に道を訊かれた時である。

これは一度や二度ではない。

彼らは日本語を喋らない。

日本へ来るからと言って、挨拶程度でも日本語を勉強しよう、という殊勝な気持ちは、彼らにはさらさらない。

そのおかげで我々京都人(?)は口をパクパクさせて必死の対応を図らなければならない。

 

この間、家の戸を開け、玄関を出たら、そこに若い外人のきれいな女性が二人、荷物を引いてうろうろしていた。

私の家の真ん前で彼女らと鉢合わせしてしまい、その結果、彼女らは早速私に道を聞いた。

英語だったが、ネイティブではない。

彼女たち二人で喋る時にはどうやらドイツ語のようだった。

 

彼女たちは簡単な地図を持っており、目的地は安宿のようだった。

通りが書いてあるので場所は分かったが、行ったことはない宿で、聞いたこともない名前だった。

だいぶ西へ行かなければならない。

というわけで拙い英語でしばらく彼女らに説明したあと、我ながらどうもまずいと思い至った。

日本語でさえしどろもどろになるのだ。

英語だとしどろもどろが何十倍にもなっている。

最も手っ取り早いのは一緒に歩いて行くこと、という鉄則を思い出し、きれいな彼女たち二人にカモン!と威勢良く宣言し、私は歩き出した。

家の前からまっすぐ二人と一緒に歩き、歩きながら、カラスマストリートまで出て、そこからさらにシンマチまで行かなければならない、と気持ちでは伝えようと思いながら、言葉が出て来ない。

我々は今ウエストへ向って歩いている、などと説明する。

伝わったかどうか。

あの広い通りがカラスマストリートだ、と指を差す。

美しい外人二人は理解したような素振りをし、オッケー、サンキュウ、アリガトウと言って私を制止し、二人でカラスマストリートへ歩き出した。

 

この結果、その日一日は自己嫌悪に陥る。

あの二人は目的地へ着けたのだろうか。

私の説明で分かったのだろうか。

これ以上こいつに聞いても無駄だから、分かったフリをして逃げよう、とドイツ語で相談していたのではないか。

ウエストとイーストを逆に言ってしまい、彼女らに訂正されてしまった。アホである。

私に訊いたことを後悔していたのではないか。

などと、1日中くよくよと思い悩む。

 

人に道を尋ねられたあとは、大抵このように、そのあとぐだぐだと悩み続けるのである。

ああ言えば良かった、こう言えば正確に行けたではないか。

これを言わなかったのがまずかった、あんな言い方では辿りつけないぞ。

何度尋ねられても、満足に教えることが出来た試しがない。

どうして、ちゃんと教えられないのか。

私に教示能力がないのか。

説明能力も、言語能力も、コミュニケーション能力も無いのに違いない。

もはや、道を訊かれる恐怖症に陥りそうである。

そのわりには地図を開いて迷っている人を見れば、メナイヘルプユー?と言いそうになる自分。

そして慌てて、いかんいかん、説明能力も無いのにお節介は禁物、と自分に必死に言い聞かせるのである。

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