09/02/25

イマジネーションに対するこらえ性

 

最近の若者は、こらえ性がないと聞く。

少し前には子供がキレやすくなっているという話もよく耳にした。

その子供たちが成長して青年になると、ちょっとしたことが気に障り、そうして誰でも良かった、と言って他人を殺すようになった。

或いは、ちょっとしたきっかけから大麻に手を出し、いっときの刹那な昂揚感を求める。

そういう世の中になっているというのだ。

原因もすでに特定されている。

テレビのチャンネルがダイヤル式からリモコンに変わったから。

トイレが汲み取り式から洋式に変わったから。

この洋式トイレ説は非常に説得力がある。

我々の子供時代は和式だったから、そこで踏ん張り、足腰を鍛え、こらえ性をも培ったのだ。

 

また、インターネットが普及したことにより、調べものはグーグルなどで検索するだけ、百科事典を引く、辞書を引く、という手間を惜しむようになったことを原因に上げる人もいる。

個人的にはインターネットに溢れている情報などとても信用出来ず、ウィキペディアを開く気にもならないのだが、だがまあ、流行りもので、話題のものを知りたいだけであればネットも有効だろう。

しかしもっと普遍的なことを知ろうと思えば簡単に済ませるべきではないだろう。苦労して調べ、努力してこそ身に着くというものだ。

 

ここで話が収縮するが、私が若者にこらえ性がないと感じるのは、創作物に関する彼らの態度に接する時だ。

つまり小説やドラマ、映画、漫画などで、ストーリーが自分の思い通りにならないと、作者を激しく非難し、排斥する。
そういう傾向の人が多いのではないか。

他人の創作物に対するこらえ性がない人が多いらしいことが、最近気になるところなのだ。

 

例えば映画の感想を、インターネットで検索する。

すると、いっぱしの評論家みたいなえらそうな意見が山ほど出て来る。

まるで古今東西の文学、歴史、日本史に精通し、リュミエール兄弟以来の映画の歴史、古今の映画の名作を見て記憶しているであろう人物の意見としか思えないような口ぶりである。

それだけのことを言い、批判するなら、当然それくらいの知識はないとおかしいというような、偉そうな口ぶりなのだ。

実際のところはどうなのか。「ゴッドファーザー」も「ET」も見てない人間だったりするのではないか(私だが)。

 

それはともかく、その中で、自分の好みに合わなかったり、ストーリー展開が気にくわないと、そのことで作品そのものを激しく批判する人がいる。

他人の作品や創作物は、自分の発想したものではないので、自分の感覚と違うのは当たり前だ。

他者の作品、他人の発想を面白くない、または面白いと論ずるならともかく、それを自分が望んだ展開ではないから(面白くない)と批難するのはいかがなものだろう。

 

人の作品は、ストーリー展開やオチやキャラクターを含めてひとつの作品であるから、その全体をまるごとまず把握し、受け入れてから、批判なり評価に移るべきだろう。

しかし自分の好みでないというだけで、作品を受け入れることなくいきなり否定し、駄目だと決めつける。

そしてそう断じる人の多くが、自分の意見が正しく、そのほかの意見をまったく受け入れないように見受けられる。

ハタから見れば単にわがままを言っているようにしか見えない。

 

前に、映画や小説で、そのストーリーや、ラストが気に入らないと、自分で勝手に書き替え、ストーリーを勝手にこさえて、それを想像して満足する、という人がいて仰天したことがある。

わがままも極まれりという感じだ。

でも、この人はまだ可愛い。

やっかいなのは、自分が駄目だと勝手に決めつけておいて、それが一般のすべての人の感覚であるかのように勘違いする人だ。

そんな人がいればの話だけども。

 

私も以前、他人のファンタジーにはついていけない、と感想を書いたことがある。

だから小説、漫画、ドラマなどはきらいで、見ないし読まなくなった、と。

きっと年を取ると、余計にこらえ性がなくなるのだろう。

他人の想像にいちいち真正直に付き合っていられない。

下手くそなファンタジーを読むくらいなら読まない方がマシだ。

しかしこれは、過去に様々な他者のファンタジーに触れ、よりすぐれたものを知っている老人だからこそ、そういう選択が許されるのだ。

 

他人の創作物が、自分の感覚と違うのは当たり前だ。

それを踏まえていなければ他人のものなど受け入れられないし、他者の作った作品に触れるべきではないだろう。

他者の創造物とは、自分とは違う感覚、知らない世界を見せてくれるものである。それを楽しむべきものである。

むしろ、自分、つまり凡百の平凡な人々の思いもかけない展開、考えもつかないキャラクターがあってこそ、創作物として成り立つ。

 

多くのすぐれた表現者や創造者は、凡人の想像力の遥か上を行く作品をものにする。だから彼らは残って来た。

古典文学や、名作映画が残るのは故ないことではない。

優れた作品ならば、たとえ結末や展開が凡人の望むものではなくとも、読ませる、見せる。そして納得させる。

それが、創作という行為である。

凡人が望まない展開であれ、それを、作品として昇華させるのがすぐれた表現者であり、そのすぐれた作者こそが選ばれ、残って来た。

 

若者は、だからそうした古典をまず紐解くべきなのかもしれない。

なまじ下手くそな創造物やファンタジーを見せられるから、文句を言いたくなるのかもしれない。

ぐうの音も出ないような圧倒的な作品に触れて、そこで審美眼を養うべきなのだろう。

そうすれば下手なものに触れる気にはならなくなるに違いない。

若者がすぐに創作物に不満を述べるということは、つまり、現在の創作者の創作物が貧弱であり、つまらないものでしかないからかもしれないのだ。

 

その一方で、こうした現象は、現代の人が、一過性の、いっとき流行るだけの消費型作品にしか接していない、ということの現れかもしれない。

文句さえ言えば、それが批評だと勘違いしている輩もいるかもしれない。

すぐれた創作物をすぐれていると感じる感性もまた必要であろう。

素直にその軍門に下るという経験もまた必要なのだ。

 

それにしてもどんなに下手くそな創造物であれ、一度はそれを受け入れるのは、言わば当然のことだ。

ただ、現代はあまりにも作品が溢れ、清濁入り乱れている。

つまらないものとすぐれたものが渾然一体となって垂れ流しされている。

その中から次世代に残るのは優れたものだけで、その時いっとき持て囃されたからと言って、それが残るとは限らない。

 

人は何のために他人の創作物に触れるのか。

根本的にそう考える。

結局、現代人にとっては、自分の心の満足を得るために他人の想像を借りる、という風になって来ているのだろう。

つまり想像物さえ、非常に実利的な利用のされ方をしてしまっている。

我々世代の感覚で言えば、他者の創作は、自分の知らない世界を知り、新しい知識を得、自分の考え方、生き方に役立てる、そんなかたちだったと思う。

だが今は、単にエンターテインメントとして、刹那的に心が癒されればそれで良い。

目的が近視眼的になっていると言えば良いのだろうか。

だから映画では泣けるかどうか、だけが評価の対象になったりする。

現代の人は、それほど泣きたかったり、癒されたかったり、ストレスを溜め込んでいるのだろうか。

それほど心の満足に飢えているのだろうか。

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