07/05/15 検索やブログについて
07/05/15 検索やブログについて
「検索」することが流行っているようだ。
私はグーグルの検索を使う。ヤフーのは使いづらいからだ。
ヤフーのトップ画面を表示させると、検索の窓だけでなく、いろんなものがいっぱい映って、全部表示するのに時間がかかる。
だからダイヤルアップ者としては(未だにダイヤルアップである。まいったか)しんきくさいのでヤフーをあまり使いたくない。
一般的にはヤフーの検索がもっとも良く使われているようだけれども。もしかしたらヤフーにも検索窓だけの表示ページがあるのかもしれないが、探すのも面倒だ。
その点、グーグルのトップ画面は検索のバーだけがシンプルに表示されるので、とても快適だ。あんまりシンプルで心配になって来るくらいだ。
でも意外と使いやすい。
言葉を絞って調べるなら、かなり使いよい。
どういう悪魔のハカライか、言葉を検索するとその言葉に関連したあれこれのリンクが、下の部分に表示されるのである。検索を絞らなくてもある程度、自動的に絞ってくれる。
このような機械の便利ぶりというか、お利口ぶりはどうしたことなのか。
どのような内部構造やシステムでこのようなことが起るのか。
機械に音痴な私には永遠に理解出来ない謎だ。
こんにちの情報の発展の度合いにただ口を開けて驚くのみである。
このようなことは、いいことなのか良くないことなのか。
あまりにも発達のスピードが早すぎて、いちいち確認している暇すらない。
もうすこしゆっくりと、こういうシステムは果して本当にいいのか、便利なことが本当にいいことなのか、実はじっくりと考えた方が良いのではないか。
使ってしまったあとでそう考えたりする。
けれども、進歩の早い部分とそうでなく、いつまでも同じで変わらない部分とが、世の中にあるのだろう。それら二つが共存している。
情報伝達の分野は恐ろしくスピードが速い。
人々のニーズにしたがってどんどん便利になり、どんどん早くなり、どんどんせわしなくなってゆく。
しかし人間がいくらせっかちになったからと言って、食べることを一分以内で行うことは、ほぼ不可能だ。
と書いて不安になった。
食べることすら早くなって来ているではないか。
もちろんアナログな食べ物は咀嚼するのに時間がかかるだろう。
けれども人間というのは本末転倒な生き物であるから、一秒でも早く食べたいというニーズに合わせて、流動食が主流になり、歩きながら咽喉に流し込むことが、将来一般的にならないとも限らない。食べ物すらデジタルになるのである。
ビタミンとか、たんぱく質とか、食物繊維とか、そういう記号だけを食べるようになる。
そうなった時、どうしたらいいのだろう。
粛々と世の中の主流に従うべきなのだろうか。
団塊の世代はどのように世の動きに対処してゆくのであろうか。
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もうひとつ検索をかけて気がつくのは、検索に引っ掛かるものの殆どがブログであることだ。
ちょっと前まではまだ普通のサイトやホームページも引っかかって来たような気がしたが、今では99%がブログだ。
検索をかけた言葉について手っ取り早く情報を知りたいなら、ブログでもじゅうぶんかもしれないが、私はブログが嫌いだ。
自分でもブログを書いているがそれは今、一応棚の上に置く。私のブログは日記代わりで、ほかに何の機能もないからと言うこともある。
人形について知りたい時に、ブログが出て来たら途端に幻滅し、呪いたくなる。人形の詳細や、情報はブログに適していないと思うからだ。
最近サーチに登録しているブログも多くなって来て、迷惑千万だ。
見たい人形のサイトを見つけてそれがブログだったりしたら、思わず時間の無駄だったと暴れたくなる。
まだ私がブログの見方を良く知らないからでもある。
けれども人形の場合はきちんとしたサイトで、種類別に分けられ、クリックすればその人形の写真だけを直ちに見ることが出来る、という方が圧倒的に見やすいし、有用である。
ブログがそれに比べて見にくいのは、書かれた文章が書き流しというか、書き捨てというか、書き殴りが多いからでもあるだろう。
主語・述語がきちんとしていなくて、へんな絵文字や記号が多用してあるとなると読みにくく、何を主張したいのか皆目見当がつかない。
太田直子女史が、彼らは文章を書いているのではない、「しゃべるように打っているだけだ」と言っているのがなるほどと頷ける。
そうでなく、きちんとした日本語になってはいても、それは残しておきたい文章というほどでもないことが圧倒的に多い。
彼らはもちろん、残すために書いているのではないからだ。
ただ毎日のことを「しゃべるように打っている」だけだから、その日その時だけで、その文章は終わりなのだ。
私は古い人間だから、文章というものは何らかの有益なものであるという先入観というか、刷り込みがあって、書かれている文が、人の口から出る言葉よりも何か重要であるというような気持ちを拭い去れない。
インターネットに参加し、そこに表われる種々雑多な書き込みを見るようになれば、そのような古い考えは即刻捨てなければならないので、ネットの書き込みを見ても、それは重要でも何でもないのですぐに忘れるような努力をしなければならない。
すぐに忘れられてしかるべきな文章は、文章でも何でもないと思う。
私自身は、自分が前に書いた文章を、何らかのために読み返す機会があると、面白いことを書いているなあ、これは見事だといつも自画自賛をしている気持ちの悪い人間である。
私の文章はきちんとしたエッセイのつもりであり、読み捨てではないのだ。誰も言わないからここで言っておく。
(しかしブログは書き捨てだ。人と大差ない…)結局、ネットでブログを読んでも、それは検索にかける言葉について知りたい時くらいであって、きちんとしたものを読みたい者が読んでも満足のゆかない文章もどきなのだろう。
せっかく検索でたどりついたブログでも、その言葉について以外でそのブログを全部読んでみたい、と思えるようなブログに遭遇したことがないから、そう結論する。