06/11/29 外人の観光客
06/11/29 外人観光客
ちょっと古い話になってしまったが、今年の夏は外人の観光客がつとに多かったような気がした。
外人というのは、西洋人のことだ。
少し前まで、京都の観光客ではアジア人が多かった。
韓国、台湾、中国などからの客が多かったのだ(私の勝手な統計において)。
彼らは一見、日本人と区別がつかないのだが、近くに寄ると日本語ではない不明な言語を使っているので、アジア人だと分かる。
アジア人でも、韓国と台湾と中国人を区別するのは至難の技だ。私には分からない。
ただ、どこでも団体行動をしていて、やたらに大きな声で喋り合い、ひと固まりになって、時には旗を立てたツアーガイドがいたりなどするのは韓国人だと思う。
人の振り見て我が振り直せ。
きっと日本人もヨーロッパではあのように痛い行動をしていることだろう。アジア人の団体行動ほどかっこ悪いものはないと私は思う。
まあそんなことはどうでもいいのだ。
今年の夏は暑かった。
あまりに暑いので、日中は決して外を歩きたくなかった。なるべく家の中にいたが家の中でも暑かった。
ただ存在しているだけで汗が吹き出て、体がだるくなった。
それで、家の中でひたすら死んだふりをすることにしていた。
けれども、どうしても外出しなければならないこともある。お盆には墓参りをしなくてはならない。
汗をだらだらかきながら、呼吸を荒くし、ぜいぜい言い、だるい体を引きずり、いざりながら外へ出る。
すると、外人に出会う。
外人は元気だ。やたらに元気だ。
今年の夏は、特に西洋人が多かった。どこに行っても西洋人に出会った。
この西洋人たちは、私が死にそうになりながらじわじわと体を蝕む暑さに耐えているというのに、やたらに元気だった。
私は思った。
外人は暑さを感じないのか。
外人たちは、総じて軽装である。
みんな、ランニングに短パンである。男も女もそうである。足にはゴム草履である。
軽装というより、日本人でいうなら、ステテコにシミズにゲタで外を歩くようなものだ。軽すぎる。
日本人の観光旅行の時のいでたちの概念を大きく外れている。
そのような軽すぎる服装で、外人たちは元気に歩きまくっている。
京都の夏は、暑い。
暑さが地の底から涌き出て来てじわじわと体にまとわりつく。ずっしりと体じゅうにのしかかる、湿度のこもった重たい暑さなのだ。
と、京都人はヨソの人に、常に京都の暑さをこのように説明して来た。
いささか自虐の交じった、そして、てめえらにこの暑さが耐えられるかよ、という威嚇も込めてそのように京都の暑さを認識して来たのだったのだが、軽い外人の出現で、この暑さの認識がガラガラと崩れて行った。
外人には京都の暑さなど何でもないらしい。
確かに裸同然の恰好で歩きまわっているが、それでも服装を軽くしたからといって暑さが我々日本人よりも多くしのげる、ということはないだろう。
もともと、外人には暑さを感じるセンサーがついていないのだ。
と思うしかない。
何しろ、私が日傘をさして、瀕死の状態でよろよろと歩いている横を、ゴムぞうりを履いた外人は大きな声で談笑しながら、丸腰で、大股で元気よく歩きすぎるのだ。
京都の暑さの面目丸つぶれ。
外人は京都であろうが、どこであろうが全然平気なのだ。
地球温暖化で地球全体の温度が上がっているようだが、外人はそれにも平気で対応出来るだろう。私は確信する。
ヨーロッパで高温が続き、死者が出たというニュースもあったようだが、それは恐らく西洋のじいさんばあさんであろう。
日本人がひ弱なのだ。
多分。
もともとが肉食と米食との違いもあるだろう。食べ物が決定的に違うのだ。
現代の日本人だって肉を食べるが、それとは話が違う。米を食べる日本人のDNAが、先祖の昔にとうに決定されているのだ。
夏になると夏バテをする、という日本人の習性が、日本人のDNAの中にきちんと伝えられて来たのだ。
しかし外人には夏バテはない。
あの無闇な元気さを見て、外人には夏バテがないのだと、初めて知った。
だがそれが羨ましいということではない。
日本人はそれだけ繊細であり、四季の変化を感じ取る敏感さを、おかげで培って来た。
外人にはそのようなデリカシーがまったくないのだ。
観光に来ているというのに、荷物はひとつも持っていない。
家の近所を歩く恰好をしている。
あの極東の、文化のまったく異なる日本の、古い伝統のある京都に観光に来た、というたいそうな思いが全然ない。
ヨーロッパから東の果てにはるばる来ているというのに、そのはるばる感が彼らにはまったく感じられない。
まるで隣の町から来たという気軽さだ。
けれども、元気な外人は親切だった。
市バスでスペイン系外人たちと乗り合わせた(言語からそう推理した)。
20人くらいの若い団体で、若い女の子たちが優先座席に座って眠っていた。
私と私の母がよろけながらその前に立ったら、今まで眠っていた女の子二人が目を開け、即座にさっと立ち上がり、母に席を勧めてくれた。
母だけでなく、私にまで勧める。
私は老人とちゃうわ!とむっとし、普通の座席に座った。
その女の子たちは、例によってランニングに短パン、荷物なしの近所を散歩ルックだ。
それでも観光で来ているはずだ。
観光旅行の外人が席を譲ってくれる。
日本人の知らんふりする若者に見習ってみろ、と言いたくなる。
スペイン系団体は、サンジューサンゲンドー!と叫んで三十三間堂前で降りた。ランニングでもやっぱり観光だった。
日本人の若い女の子も、最近では下着姿で町を歩いているが、それと外人のランニングとは、ニュアンスが相当違う。
外人にはいやらしさというか、言外に含む意味がない。
日本人の女は、それをファッションとして着ており、それを見せるために、見せつけるためにわざと裸同然のファッションをする。そこが違う点だ。
ゴムぞうりでバスに乗り、寺へ行くのだから、だいぶ違う。
外人には確かに心のひだの奥の奥を読む繊細さはまったくないが(寺を見てもビューティフルのひとことで終わりだ)、観光に対する個々のスタンスは、敬服に価する。
ランニングにゴムぞうりの観光もあるが、大きなリュックを背負い、重装備でもくもくと一人で旅する外人もいる。
自転車で、本格的なサイクリング・スタイルでお寺を拝観する外人もいる。
寺の石段の前に自転車を止め、そのままお寺へ入る外人を見た時はかっこいいと思った。
彼らは自分なりの観光スタイルをちゃんと確立している。
どのように、どこを、どのような目的で見たいか、それに応じてめいめいの流儀で観光をするのだ。
日本人のように、画一的に、誰もが同じスタイルで、同じ所を同じように巡るのとは相当違う。
とは言っても、日本人観光客にも、市バスに乗り、徒歩で地図を見ながら巡ったりする人は多い。
地図を見ながら迷っている人には思わず教えようかと思ってしまうが、おせっかいおばさんになりたくないので、聞かれない限り見過ごすことにしている。
烏丸五条付近から清水寺まで歩くという観光客に会った時はびっくりした。
日本人にもいろいろなスタイルがあるようだ。
観光客ウォッチングはとても楽しいので、私の趣味になりつつある。
また次の機会にがんがん書こう。