06/09/25 防火用バケツ雑感

06/09/25 防火用バケツ雑感

よその町内(From京都参照)はいざ知らず、ウチの町内には、各家の前に消火器と、防火用のバケツを置くことが義務付けられているみたいだ。

義務というか、配られるので置いてある。

通りを歩いていて、消火器は良く見るけれど、バケツを置いてある家はあったりなかったりする。

これは、各町内が、古紙回収などで得た収入で買ったものだそうで、収入が出た町内には各戸ひとつずつバケツが配られるが、収入の少ない町内によっては、各戸すべてにはバケツが揃えられないらしい。

 

消火器はどこにでも置いてある。ペンキで赤く塗った木製の入れ物に、白い字で消火器と書いてあるので、ひと目で分かる。

家庭の中にも消火器(自費)は置かれているが、家の外にも置かれている。

そして、消火器のそばに、防火用水を入れたバケツも置かれている。

すべての家の前ではないが、歩いていると、やはりそこここに置いてあるのを頻繁に見かける。

このバケツが今回のお題である。

 

このバケツはプラスチック製で(ブリキ製のもあった)、消火器同様赤く塗られ、防火用と白い字で書かれている。

もちろん、バケツの中には水が入れられ、不意の火事の初期消火に役立ちたいという気持ち満々の可愛いやつである。

しかし私は、この赤い防火バケツを見る度に、ひとつの重要な疑問が湧き出て来るのを押えられない。

私の家の前にも当然、このバケツが置かれているのだが、とても小さい。

家で普通に使うバケツよりも小ぶりである。

そうして、設置されているのは、この小さいバケツひとつである。

消火器も隣りに置かれているので、初期消火はこのバケツの水と、消火器とのコンビネーションによって行なって下さいという、暗黙の指示があるのであろう。

それにしても、バケツがあまりにも小さい。

その小さいバケツに溜められた水一杯は、とうてい、初期消火がどうこうと言う量の水ではない。

その量の水を出火場所にかけた所で、どれほど小さい火であっても、消えるとは到底考えられない。

雀の涙というか、ハエの涙、蚊の涙くらいの量しかないのだ。

つまり、いざ出火しても何の役にも立ちそうにない。

防火用、と、とても目立つ字で麗々しく書かれている割には、何の役にも立たたなそうな、ほんの慰み程度の量の水しか入っていない。

だいたい、バケツ一杯の水で何かが出来ると考えること自体にちょっと無理がある。

あれは、何の意味があるのだろうか。

意味がないのではないか。

まったく意味がないのではないか、という、恐ろしい疑問が、長年、私の心にぶすぶすとくすぶっているのであった。

 

あのように、バケツに水を入れて出火に備える、という意味では、よく時代劇に、町のカドごとに防火用水を張り(石製の大きな貯水槽がある)、バケツ(桶)をピラミッド状に並べてある様子が出て来る。

ああいう風に、バケツひとつでなく、いくつも備えておけば、いざという時にいくらかは役に立つことだろう。また、防火用水が貯水槽に溜めてあるので、水もたっぷりと用意されている。

しかし、翻って現代の私たちの町において、バケツひとつだけではどう考えても到底役に立たないのではないか。消火器があるとはいえ、バケツひとつはあまりにも心もとない。

にも関わらず、各町内にはあの小さいバケツがいかにもこれさえあれば火事は大丈夫、と言わんばかりに麗々しく備えられている。

これはどうしたことか。

 

私はふと考えた。

京都の台所には必ず火の用心の愛宕護符が貼られているが、家の前に置かれている赤いバケツも、ひょっとしたらまじないなのではないかと。

あのバケツは、いざ実際の火事になれば何の役にも立たないことだろう。

しかし、役に立つか立たないかはあのバケツの知る所ではない。

バケツは、人々が、これさえ家の前に置いておけば安心、これさえあればウチは防火対策は万全、これさえあれば常に火事には注意してます、と、思い込むための「安心バケツ」なのではないか。

あのバケツは、人々の安心を買うための気休めなのではないか。人々を安心させるために置かれている、気休め装置なのではないか。

あのバケツを置くことによって、人々は、気休めであれ、ウチにも火事が起るかもしれないという恐怖から逃れることが出来るのだ。

あのバケツは、決して実用ではないのだ。

だからたとえ、バケツの中に水が半分しか入っていなくても、すでに藻やごみが浮いていても、なかば道端の草木の花瓶と化していても、ちっともかまわない。ノープロブレムなのだ。あれはまじないなのだから。

 

いつぞや、上賀茂神社の社家町を歩いていて、各社家に、必ずあの防火用バケツが置いてあるのが目についた。

さすがに社家町では、バケツひとつということはなかった。各家に必ず複数のバケツがあり、ちょうど時代劇で見たと同じように、ピラミッド状に三角形に積んである。

風致地区であるから、さすがに火災に関しては万全の体制だと思った。

社家町の前には明神川が走っており、いざとなったら水はいくらでもあるから、かなり安心ではある。

社家町を歩いていてバケツが鮮明に記憶に残ったのは、バケツが赤かったからにもよる。

社家町の家の門構えはとても時代がかっていて、独特の風情があり、それが、決して映画のセットに堕しておらず、ごく普通に生活が営まれていることが素晴らしいのであった。

だが、いくら考えてもこの社家町に赤いプラスチックのバケツは不粋だった。

社家の素晴らしい落ちついた佇まいを小さい赤いバケツが一瞬にして壊してしまっている。

何とかならんか。

しかし、防火用バケツは赤いからこそ防火用なのであろう。

消防車が赤いが如く、防火用バケツも赤くなくてはならない。

黒い消防車とか、茶色の消防車があってはならない。赤はまじないの色なのだ。

赤地に白ヌキの防火用という字が、社家町にまったくそぐわないことを呪いつつ、私は、あの赤いバケツたちが社家町を守ってくれることを願いながら歩き過ぎたのであった。

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