06/8/23 スイカを悟る
06/8/28 高台寺

06/8/28  高台寺

お盆のある日、東大谷へお参りに行ってから、高台寺に寄った。

ちょうど高台寺で「百鬼夜行絵巻」や応挙の幽霊図が公開されていたためだ。

東大谷廟から高台寺はすぐ近くで歩いて行ける。

ねねの道を通る。

ねねの道は最近観光用に整備された道で、石畳で電線が地下に埋められ、電信柱がないという通りになっている。

観光地として京都らしさが受けており、いつ行っても人がいる。

でも、膨大な数で始末に終えない、というほどの人混みではないので、混んではいても快適である。本当のシーズン時に行かないからかもしれないが。

ただねねの道は車両を通しているのがちょっと不満だ。人力車も通るのだが。

 

このねねの道に面して高台寺が建っているのだが、京都人民の知識では、この寺はねね(北の政所)が建立した、という風に聞かされている。

つまり、秀吉ゆかりの寺である。

だから、京都人民の間では、高台寺は少しばかり「格」の落ちる寺である。

京都には大変多くのお寺がある。ぴんからきりまである。

そんな中で、高台寺といえば秀吉だからなあ…と、評価が下がる。

寺ミシュランによって、最高位につけられるべきお寺ではないのである。

なぜなら、京都人民は必ずしも秀吉を好き好んではいないから、というのが大きな理由だろう。

そして、多くのお寺が平安時代のナントカ天皇が作ったものだったり、空海や聖徳太子がどうのこうのというお寺だったりするからで、「秀吉」ブランドなんて年代的にも新しいし、それらに比べれば大したことない。

ただ、高台寺は秀吉というよりねねである。

北の政所のゆかり寺であるので、評価が少し盛り返す。

実際に行ってみて、実に良い寺であることが分かった。

東山の中腹に建てられていて、寺の境内を散策するには、山を登ることになる。

東山にへばりつくようにして建っているのだ。だからどんどんと山を登る。

そして、しかるべき場所まで行くと、きれいな光景が望める。

北に祇園閣、南に霊山観音というのはちょいとトホホかもしれないが。

*ついこの間、霊山観音について書いて、今はもう無いのではないかなどと、その存在を疑う発言をした直後だったので、山間にぬっと現れたその姿を見た時には、呪われているのかと恐ろしかった。

 

建物も素晴らしい。

最上階(?)に、時雨亭、傘亭という茶室がある。趣きたっぷりの建物である。

そのほか橋に屋根がついているものがあり(観月台らしい)、建物と建物は回廊でつながっているが、回廊も屋根つきで、回廊というより階段であるから、それを遠くから眺めると見事な作りで、臥龍廊という名前がついている。
伏した龍のように見えるからだ。

庭園は池泉回遊式で、方丈の横には枯山水もあったように思ったが忘れた。

高台寺に寄るつもりがなかったので、写真機を持っていかなかったのが残念だ。

秀吉は好きになれないが、良いものを良いと思う感性は隠してはならぬ。

 

高台寺で有名なのはライトアップで、京都の寺の中でもかなり初期にライトアップを始めた。もしかしたら最初のケースだったかもしれない。

今の時期も、夜になったら確か、百鬼夜行のライトアップが楽しめるはず。

まあこういう客寄せも上手い寺で、拝観料が600円は少し高いと思ったが、それだけの内容はある。

もらったお寺のパンフレットによると建仁寺派と書いてあるから、建仁寺を本山とする禅寺のようだ。

建仁寺は、高台寺から歩いて行ける距離のお寺だ。

禅寺だからか、本尊が全然目立たなくて、どうでもいい扱いをされている。

むしろ秀吉像とか、ねねの像とか、ねねの兄夫婦の像とかの方が目立っていて、大事にされている。

 

一番おかしかったのは、各建物に説明員がいて説明をしてくれるのだが、それが研修生と称する、中国人だったことだ。

若い女の子なのだが、日本語を丸暗記しているとおぼしい。

何で私ら京都の者がお寺へ行って中国人の説明を聞かねばならないのだ。

母が、その中国人に本尊は何か、あそこの真ん中の厨子には誰が入っているのだと食い下がるが、その女の子は「ごめなさーい、ごめなさーい」一点張り。

私たちが喋る日本語の意味がそもそも分からないようなのだ。

清水寺の近くなので、清水へ行ったあと寄る人も多いと思う。

 

06/8/23 スイカを悟る

子供の頃、夏になるとスイカをよく食べたものだ。

いやになるほど、食べた。

自分のうちで食べた。よそのうちへ行っても食べた。どこのうちへ遊びに行ってもスイカが出て来て食べた。

夏にスイカは当たり前というか、付きもののようなものだったので、何の疑問もなく食べた。

けれどもだんだん大きくなって、大人になってしまうとスイカを食べなくなった。

母も、私たち子供が小さい時はスイカをよく買って来てよく食べさせた。

けれども私たちが大人になると、あんたらあんまりスイカを食べへんしと言って、スイカを買わなくなった。

なぜ大人になるとスイカを食べなくなったのだろう。

 

その明確な理由が私には分かっている。

第一にそれは、食べにくいからである。

そして第ニに、食べにくい割には、美味しいという充実感を感じられないためである。

つまり、スイカは、水分が多いため、食べようとすると汁がだらだらと出て来て、口の回りがスイカの汁だらけになり、みっともなくなってしまう。

子供の頃はそれでも良いが、体面を気にする大人になると、公衆の面前で、口の回りがじゅるじゅるになるという状態に耐えられなくなる。それで大人になるとスイカを敬遠してしまうのだ。

そしてさらに、それほど苦労して食べても、スイカは果して美味しいのか。桃ほどにも美味しいのか。

つまり、桃ほどにも美味しい果実であるならば、どんなに食べるのに苦労しようがかまわず食べるはずだ。

しかし、スイカは微妙な味である。

美味しいのか、美味しくないのか。よく考えればそれが分からない。

食べるのに苦労してもよいと思うまでに美味しい果物だとは思われない、というのが大人の人間の共通認識なのではあるまいか。

そういうわけで、苦労して食べるほどの美味しさでもないので、だんだん食べなくなるのである。

 

スイカを食べる時にネックになるのは水分だけではない。

スイカ特有の種がある。

スイカを食べる時の煩わしさのもっともたるものが、あの無数にある種を出しながら食べなくてはならない、ということであろう。

昔、子供の頃に食べていたスイカの種は、本当にアトランダムに果肉に挿入されていたような気がする。

最近のスイカは、種が一列に並んでいる。だから、その部分に来た時に集中的に種を駆除すればよいので、昔よりよほど楽に食べられるようになった、と感じているのは私だけだろうか。

子供の頃は、そんなアトランダムな種をいちいち取り出さなければならなかったにも関わらず、どうしてスイカを食べることが少しも煩わしくなかったのだろうか。それが不思議でしょうがない。

口の回りを汁だらけにして、じゅるじゅるになっても、冷たく冷えたスイカが美味しいと言って食べていたのだ。

 

この春の5月頃に、スイカの小玉をさる方面からもらいものでもらい、それで久しぶりに、何年ぶりかでスイカを食べた。

誰かにもらわなければスイカを食べなくなってしまった。本当に何年ぶりかだ。もしかしたら何十年ぶりかだったかもしれない。

まだ春だったのにその小玉スイカは美味しく、甘い味だった。

久しぶりに食べたスイカで、昔喜んで食べていた頃を思い出した。

相変わらず食べたあと口の回りがじゅるじゅるになり、種をいちいち取り出しながら食べなくてはならなかったが、その煩わしさが、何となく嬉しかった。

スイカは、このようにして、煩わしがりながら食べる果物なのだ。

食べるのは面倒だが、この面倒くささが醍醐味なのであろう。

面倒だと思いながら食べていると、美味しいと感じられて来る。そういうものなのだ。

これで、種なしスイカというものがあっても、楽しくないだろう。我々は、それを決して選択しないだろう。

種をいちいち取り出してこそ、スイカを食べたという充実感が得られるのだ。

 

もらいものの小玉は5つか6つくらいあったので、そのつど楽しみながら、その甘く、おいしいすいかを食べた。

私がスイカを美味しく楽しく食べる日が来るとは、その時までついぞ考えたことがなかった。

それほど、最近の私はスイカを敬遠していたのだ。

いざ夏になってみたら、やっぱりスイカは食べないが。

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