06/06/21  方向音痴

06/06/21 方向音痴

私の母は方向音痴で、この間、用事があって新町仏光寺のある場所へ歩いて行き、その場所から家へ帰って来る時に道に迷い、正反対の四条の方向へ歩いて行ってしまったという。

我が家は五条通の南で、仏光寺通は四条と五条の間だ。
母は、五条へ向って歩いているつもりで、四条へ歩いてしまったというのだ。
そのために、四条から地下鉄に乗って帰って来た。

自分の家からじゅうぶんに歩いて行けるところから逆方向へ向い、結局地下鉄に乗ったのだ。相当な方向音痴だと思う。

 

母は町だけではない。デパートへ行っても迷う。デパートの中で迷うのだ。

フロアをうろうろしていると、いる場所が分からなくなるらしい。

いつも行くKデパートですら、迷う。

毎週のように行っているのに、違う階段からとか、違う方向からそのフロア(たいてい催し会場だ)へ行くと、自分が今どこにいるか、分からなくなるらしい。

それで、エスカレーターやエレベーターのある位置が分からなくなり、逆の方向へ歩いたりする。

 

原因は、分かっている。

ものを自分で覚えようとしないのだ。

普通の人なら、無意識に目的地までの目印を覚えたり、この売り場の横には何売り場があるということを、何度も通ううちに覚えてしまうものだ。

母は、それをしようとしないのだ。

人に導かれるままに赴き、人がいざなうままにいざなわれ、人の歩く後ろからついて歩く。
黙って従っていたら人が連れて行ってくれると思っている。

だから、自分ではどこを歩いているかを分かっていない。分かっていないが、人のあとを歩いているだけで目的地に着くから、自分では覚えようとしないのだ。

つまり、すべて人だのみで、自分が方向音痴だということを分かっているのに、それを自分で直そうという気もなく、いつでも人の後ろについて歩けば良いと考えている。

それでたまに一人で歩くと、普段からどこかを目印に、という心づもりで歩いていないから、迷うのだ。

(母は知らない人にでもついて行けばいいと思っている。知らない人も自分と同じ場所へ行くと思っているのだ)

何度も母に注意するけれど、改めようとしない。
それどころか、一人で地下鉄に乗るのもいやだと言い(母は地下鉄が一番苦手)、知っている所にしか行こうとしない。

 

そういう私も方向音痴だ。

初めて行くところは絶対迷う。

初めてどころか、よく行く場所でも迷う。

母は地下鉄が苦手だが、昔は私も京都の地下鉄の出口を間違い、南へ行くべき所を北へ行ってしまったことがある。
いくら歩いても歩いても四条通に出ない、と思っていたら御池通に来てしまった、時には情けなくなった。

四つ角の郵便局でお金を下ろして、来た時と別の出口から出たら、道を間違って歩いたこともある。
北へ行くべき所を、今度は西へ歩いていたのだ(郵便局の出口が北出口と東出口とふたつあったのだ)。

ひょっとして、京都の地形が迷いやすいのだろうか?

いや、土地のせいにしてはいけないだろう。

 

母を見ていて、なぜ方向音痴になるのかがよく分かるから、自分ではかなり努力をする。

母と違うところは、私なりに努力して、方向音痴を解消しようとしているところだ。

 

初めて行く所にはとても神経質になる。

地図やガイドマップを何度も見て、何度も確める。

その場所へ着くまでに、最低50回くらい、地図を見る。

観光地だと、その場でガイドブックを見るのは恥ずかしいから頭で覚えようとし、何度も何度も地図を見て確認し、頭に叩き込んでおくのだ。

バスや電車などの乗りものの中でガイドブックを見るのも恥ずかしいから(私は極度の恥ずかしがり屋なのだ)、家で地図を見ておく。

ここへ行く、と決めたら、家の中で出かける日が来るまで毎日毎日地図を見て、確める。

そんなわけで当日、無事に目的地に着いたら、やった、と喜ぶよりもほっとして疲労感がどっと増す。

とにかく疲れるのだ。

その日、無事に着けるだろうか、ここで間違いがないだろうか、ここをまっすぐ行ったとしても、果して本当に目的地に辿りつけるのだろうか、もしかして間違っているのではないだろうか、もし違っていて、全然別の方向へ行っていたらどうしよう、どういう風にしたらもとに戻れるのだろうか、云々、云々。

そんなことを考えながら歩いているから、目的地に着いた時には、極度の緊張感から、疲労でへろへろになっている。

肉体的によりも、精神的なダメージが強いのだ。

 

だけども、以前よりはよほどましになった。

方向音痴といっても、努力すればいつかはちゃんと目的地に着けるのだし、それに、1度や2度、道を間違えてもどうということはない。

間違えたということが分かり、引き返し、その後正しい道を知ることが出来たのなら、誰に迷惑をかけたわけでもないから、間違えても何も恐れることなどない。

なぜ間違ったのか、を考えればなお、今後の役に立つ。そして、間違った方が今後忘れることもないだろう。

知らない場所へ行くのには、方向音痴の者にとっては、普通の人には想像も出来ない不安と恐怖があるのだ。だがそれでも、それを押してもいろんな所へ行きたい。

まだまだ行ってない所がいっぱいある。
そこが、苦労をして行っただけの値打ちのある、想像以上に素晴らしい所であったならば、どんなにか喜ばしいだろう。

それを想像すると、苦労や不安や、恐怖を押してでも行きたい、と思うのだ。

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