06/5/8 弘法大師のお砂踏み展とは
06/5/31 近頃反省すること

06/5/31 近頃反省すること

少し前にある本を読んでいたところ、どうしても気になる箇所が出て来た。

その本はとても面白く、へええと思うところが多く、記述もとても軽快で文章が面白い。

ただ、京都の地形に触れて「背と左右に山が連なり、前に川(鴨川)が流れる」と書いてあった。
私は京都に長年住む関係で、この記述に引っ掛かった。明らかに間違いだ。

でも、この本の全体の中では、京都の地形に関する記事はそれほど重要なポジションにあるのではなくて、いわばどうでもいい、ついでの記述だ。
230ページある本文の中の、ほんの1、2行である。大した分量の間違いではない。

だけれども、鴨川は明らかに京都市の前ではなくて、右横(普通の地図で見て)を走っているのであり、例えば作者が「前」を京都の東側、と認識していたのかもしれないが、風水で平安京を作る時に決め手となったのは、「前」には池(小椋池)があったことによるのであって、川ではない。

とても面白い本で、買って良かった、と喜びながら読んでいただけに、このほんのちょっとしたミスに我に返り、何だか興ざめしたのは確かだ。

 

この体験を踏まえてみて、どれだけ些細なことであれ、その文章が読む側にとっては正確ではない、ということはかなり重大なしこりとして記憶に残ってしまう、ということが分かった。

普段ブログや日記にあることないこと書き飛ばしていて、難グセをつけて来られることがある。

それは、大概オタといえる人からのもので、オタは細部がきっちりしていないと気が済まないという性格を持つ。

随分昔、本屋で女性まんが家の話を友人と何気なくしていた。すると、その作品は竹宮恵子ではなく、萩尾摸都です(字を忘れた)と、全然知らない男の人が、私たちの会話に訂正を入れて来た。

以前、まだ日本でW杯サッカーをやる前、まだベッカムがメジャーになるだいぶ前だったが、私がサイトに、ベッカムの妻の人形(何とかガールズのメンバー)を載せた。

すると、それはベッカムの妻ではなく、別のガールズメンバーの人形である、あんたにはどうでもいいことかもしれないけど、という訂正の書き込みが入った。

私にとっては、確かにそれはまさにどうでもいいことで、何とかガールズの誰がベッカムの妻であろうがなかろうが、まったく構わない。興味がないのだから(1/6人形マニアというだけで)。
なぜそんなことにこだわるのだろう、とむしろ、ベッカムの妻が誰であるかをどうして私が知っておかなくてはならないのかと腹が立った。

だが、それこそがオタには許せないことなのらしかった。
エマとプリシラ(?だったか?パトリシアだったか?)を間違えるとは何ということだ、ということだったらしい。

最近でも、フィギュアスケート関係のことで訂正を入れられた。

私は猛然とイカり、そんなどうでもいいことにいちいち反応するな、と思った。

 

けれども、件の本を読んで、私の態度は間違っていたのではないか、と気がついた。

先ほど掲げたその本ではたった2箇所、間違っていただけなのに(もうひとつ京都についての間違いがあった。私が京都に住むから分かってしまう間違いだった)、本に書いてあること全部が、本当にこれ、正しいのか?、もしかして全部、事実かどうか確めないで書いているのではないか、などと、その些細な間違いのため、その本に書いてあることすべてに疑いを持ってしまったのだ。
その京都に関する間違いが、本の言いたいこと、本筋とは関連のないことであったにも関わらず。

ましてや、オタやマニアが虎視眈々と見張っているようなネットの世界では、本人が自分にとって重要ではないことだと思っても、読む側にはどんなに些細なことであれ、ゆるがせに出来ないことがあるかもしれない。

いや、私が思ったのは、訂正を促したり、こうではないかと反論してくれる人はとても貴重な存在なのだということだ。
自分がいたらない、狭量な考えをしているのは重々承知だが、いつまでもそれで良しとして、凝り固まり続けるならば、よけい狭量な考えの、カチカチの融通のきかない、循環のない頭になってしまう。
そうすると、いつの間にか自分がいちばんエライという、思い上がった考えしか持たなくなる。

そこから少しでも考え方を広げるためにも、人の意見を聞くことは必要だ。意見の出し方にもよるとは思うが。

 

あるサイトを偶然に見て、そこのトップに、見ている皆様から意見や反論を貰うことがこのサイトを支えています、感謝していますというような意味の言葉が書かれているのを読んで、真剣に私の態度は間違っていたと思ったのだった。

ただそれでも自分なりの価値観が誰にでもあるように、私にも当然あって、それが私の最大の、言ってみればウリだとも言えるわけだから、それを失ってまで他人の意見に迎合する必要はないと思っている。

せっかく反省したのに、すぐにこんなふうに言うから成長がないのだが…

 

06/5/8 弘法大師のお砂踏み展とは

招待券があるので、「弘法大師と四国八十八ヶ所お砂踏み展」というのに行こうと母が言うので、一緒に行って来た。

これは、あと1年でなくなる近鉄百貨店で開催されていたもので、私はてっきり、弘法大師に関連するグッズやら、四国八十八ヶ所を回るお遍路さんに関する展示などがあるのだろうと思って出かけたのだった。

展覧会評に載せるほどでもないので、ここでお茶を濁しておくことにする。

 

「唐から帰朝1200年記念」と題されているのがすごい。

奈良とか京都で開催されるちょっとした催しには、この手の「1200年記念」とか「1000年記念」「800年記念」というのが平気で使われる。

アメリカでは考えられないような企画展のタイトルであろう。
それほどまでに歴史を感じるすごい催しを、百貨店で目立たずにやるあたりもすごいのだが。

 

この1200年記念という煽りの次に、「巡礼と同じ功徳が得られます」と、書かれているのに戸惑った。

この展覧会を見れば、四国八十八ヶ所を回ると同じだけの効き目があるらしいのだ。
主催は東寺、後援は京都府老人クラブ。うーん。

この新聞の宣伝を見ていささかの不安を感じたのは確かだ。

それで展覧会に行ってみたら、すごかった。

まず、入り口で手を開いて下さいと言われ、手を開くとそこに砂のようなものを少量落される。
それを両手でこすって下さいと言われ、こする。

はいよろしいですと言われ、一歩進むと次にまた応対する人がいて(お坊さんのようだ)、背の高い小卓の上に水の入ったビーカーのようなものがあり、お坊さんが長い棒でその水をすくい取って、合掌して下さいと言う。
合掌すると、その棒を私の頭にかざして、はいよろしいと言われる。

そのほかに、入り口付近に両替所があって、ビニール袋に小銭を入れた両替袋を入って来る客にすすめている。

普通の展覧会とどこかが違う…。なんで両替??私も母もそう思ったが、もう引き帰せなかった。

 

急造のスチレンボードの壁のしきりがしてある会場内に入ると、狭い場所にボードの壁が作られ、壁の前に掛け軸がずらっと並んでおり、1番札所から順番にその掛け軸が続いている。

掛け軸の前には足を置く場所が四角く区切られて作られており(砂が敷かれている)、そこに足を置いて掛け軸の前で拝む。掛け軸の下にはそれぞれお賽銭入れが置いてあり、まいる時にお賽銭を入れる。

会場にはずらっとお札所になっているお寺に見たてたその掛け軸がかかっているだけで、客は順番にその掛け軸をおまいりしてお賽銭を入れる。
そうすると、四国八十八ヶ所を自動的に回ったことになる、らしかった。

本当の巡礼(をするふり)のための催しなのだった。
それで入り口のお賽銭の両替だったのだ。

時すでに遅し。

私と母は掛け軸の前に少量の小銭をそれぞれ入れながら、掛け軸に手を合わせる(ふりをする)。

私と母は、しょうがないのでお賽銭を入れつつ(私は1円を)拝んで行ったが、途中で小銭がなくなり、それ以降は手を合わせるのみにて、さらに最後には手を合わせることさえしなくなり、ただスルーしてゆくだけになってしまった。
これでは四国八十八ヶ所を巡ったことにもならず功徳もいただけないが、ずぼらだからしょうがない。

 

これは招待券がなければ500円の入場料がいり、そのほかにお賽銭が要る、八十八ヶ所だから一回10円として、880円いる。
まあ、実際に四国で回ることを思えば大変安いが、事前にそうとは知らない私たちはびっくりの催しだった。

砂が敷かれ、四角く区切られた足場に足を踏み入れて、掛け軸をお参りするので、それで「お砂踏み」なのだった。

 

それでも、四国にこんなに沢山のお寺があるのに今更驚いたし、掛け軸の横にそのお寺の写真がそれぞれ飾ってあったが、どれも苔むした風情のある、古いお寺の門構えばかりである。

日本はどの町でも新しいものばかりになってしまったかと絶望していたが、これほど古いものが残っているとはまだまだ捨てたものではない。

それと、掛け軸に、弘法大師の絵と、そのお寺の本尊の絵が描いてあったが、お寺によってさまざまな本尊があるのが面白かった。

掛け軸は今回の展示のために新しく誂えたもののようで、新品パリパリ、全部おそろいのデザインだから、面白味はないのだが、馬頭観音が本尊のお寺があったりして、それなりに面白かった。

掛け軸の横にはそのお寺の真言、というのが書いてあり、「ぱつぱらー、さよか、そうか」みたいな言葉が書かれている(ひらがな)。意味不明で解読不能だった。

 

八十八ヶ所の最後は高野山。

高野山の掛け軸のあとには、弘法大師の真っ黒の木彫像が飾ってあった(ほぼ実物大)。
これは東寺で見たことがあるから、あそこから持ち出して来たのに違いない。

すごろくのスタートが東寺で、上がりが高野山という訳だ。

東寺の所尊の写真もパネルで飾ってあった。私の好きな五大明王とか、天部とか、薬師とかおなじみのあれだ。
でも東寺へ行けば本物がすぐ見られるのだし、京都駅の近所のプラッツ近鉄でパネルにしてもどうよ、という感じだ。

 

ともあれで、ウチと宗派が全然違うので、同じ仏教でも宗派が違うと、こうまで何もかも(お作法など)が違うのか、とためらいと驚きの展覧会(?)であった。

東寺は確か真言宗だ。でも、四国八十八ヶ所のお寺には阿弥陀様をおまつりしている所もあるし、何だかバラバラだし、その辺はどうなのかと母に聞いても、「まあいろいろあるんや」というだけで、埒があかなかった。

巡礼は今のところする予定がないし、四国八十八ヶ所について詳しく知らないので、こんなありさまだ。

それについて勉強すればそのうち霧の如くこの謎が晴れるだろう。日々精進、日々勉強。南無南無。

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