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05/12/10 エスカレーターのどちらを空けるか
05/12/20 クリスマス・イルミネーションについて

05/12/20  クリスマス・イルミネーションについて

以下に書くことに対し、不快感を持つ人が或いはいるかもしれないので、あらかじめ不快感を感じそうな人は読まないようにという注意書きをしておきます。

 

つまり、私はあのクリスマス・イルミネーションという奴が大きらいなのである。

もともとそれは、神戸のルミナリエから始まったのではないかと思う。
そうすると、途端に日本全国にクリスマス・イルミネーションが広まった。

東京のどこかには、ルミナリエとそっくりの名前で、ルミナリエと区別のつかない名前の、イルミネーションもまるきりルミナリエそのままという感じのものがあることを何年か前にニュースで知った。今もそれがあるかどうかは知らないが、そんなにあからさまな真似をして恥ずかしくないかと言うほどの真似っぷりに大変驚いた記憶がある。

それくらい、ルミナリエは影響力があった。

次から次へとマネシが増え、何とかのひとつ覚え、或いはサル真似日本人の面目躍如の浸透ぶりだった。

京都にはさすがにないだろうと思ったら大間違いだった。

ロームが西のはずれに大々的にイルミネーションを始め、城陽でも、植物園でも、なんと平安女学院でもやっている。同志社大学でもイルミネーションをやっていたらしい(今年は殺人学生の影響で中止)。何をかいわんやである。

何年か前には個人の邸宅でそれをやることが流行ったようである。ニュースやワイドショーでそれを取り上げるものだから、各家庭が得意になり、次から次にやり始めた。競うように電球を灯し、その一角がイルミネーションロードなどともてはやされた。
今もそうなのかは知らない。

最近はそれが、企業に拡大して来たような気がする。企業ぐるみでイルミネーションをする。そこが名所とされ、皆が見物にゆく。

アホか。

私がそれがきらいな理由のひとつに、それが薄汚いからというのがある。

私自身はそれを見に行ったことはないが、テレビのニュースなどで見る限り、たいへんきたならしい。だからきらいなのだ。

植物園でも平女でもきたない。

豆電球をチカチカさせて、どこに美があるのか。

何の形だか訳の分からないものを形作って、無理矢理光らせる。

クリスマスになぜワイヤーで形作った電球か、必然性が分からない。

普通の民家で得意になって無数のきたならしい電球を自宅の前に飾り立てる。趣味の悪さ丸出しで見ていられない。

それと共に、テレビニュースで、地球温暖化会議で紛糾、などというニュースの次にどこそこがライトアップ、などというニュースを無神経に流すことにも抵抗を感じる。だからきらいになる。

電気代節約、とか言っているそばから電球をチカチカさせることを喜んで、ニュースに乗せる。それを取材にゆく。

狂っていると思う。

以前名古屋駅へ行った時、12月だったのでイルミネーションがされていたが、その時は何とも思わなかった。ルミナリエへも行ったことはある。

商店街の活気付けにとか、震災の鎮魂とか、仮にも理由づけがあるならまだしもだ。

デパートの正面に、クリスマスになるとツリーやリボンの形に明かりを灯すということは、ずっと以前から行われていた。
デパートの客寄せのためであるからそれは別になんとも思わない。

豆電球の消費電力などたかが知れている、と人は言うかもしれない。けれどもそういう問題ではない。趣味の問題だ。

何もする必然性もないのにただの猿真似は醜い。うすぎたない。

以上。

 

05/12/10 エスカレータのどちらを空けるか

大都市では、ラッシュ時のエスカレーターにおいて、どちらかを空けることが習慣化されており、それは東西で右か左かが違うと言われている。

つまり、大阪ではエスカレーターの左に寄り、右側を空ける。東京では逆に右に寄り、左を空ける、という風なことがまことしやかに伝えられている(その逆かもしれない)。

私は幸か不幸か、ラッシュ時の電車に乗ることはなく、というか、通勤時に電車自体に乗ることがないのでこの事情は分からない。
けれども、確かに四条烏丸(北側)の、地下鉄のエスカレーターではつねに左側に寄り、右を空けることが習慣化されていることに、つねづね気がついていた。

右か左かはともかく、エスカレーターに乗る時は、どちらかを空ける、ということがかなり浸透しているようだ。

だが日本の関東と関西では厳密に右空け、左空けが守られており、そして東西でその位置が逆だという、この伝説は真実なのか。

そして京都では、それが大変に特殊な形態をしているという噂がある。

 

京都では、右あけ、左あけが混在しているというのだ。

大阪では左より、右あけであるとしよう。
だとすると、大阪のどの地下鉄、JR、私鉄でもその習慣が守られていると。

ところが京都では、時と場所によって右あけであったり、左あけであったりするというのだ。

これを理屈づけて、京都は東西の文化の交流点に当たるから、右左が混在してしまったのだと言う。

でもこの言い訳は苦しくないか。
文化の交流点というか、地形的に見れば交流点はむしろ名古屋の方だろう。
名古屋の事情は分からないが、京都が右左混在の理由にはならないのではないか。

実際には、先に言ったように、地下鉄四条駅(地下鉄から地下街へ行く時)のエスカレーターは、右あけである。

だが、京都駅では確かに混乱がある。

私が実際に経験したことでは、地上へ出るまでに2つのエスカレーターがあり、1つ目では右が空いていたが、2つ目のエスカレーターは左あけであった。
これは地下鉄だったが。

確かに京都ではどちらを空けるかということに法則はなく、その時々で空ける位置が違うのだ。

これを要するに、京都市民は、エスカレーターに乗ったらどちらかを空けるべきだ、ということは認識しているが、右か左か、それがどちらでなくてはならない、という考えはなく、どちらかを空ければ良い、と考えているらしい。

前の人がどちらに寄っているかで、自分もどちらに寄るかを判断するのだと思う。

 

阪急は、大阪から乗り入れているため、大阪の影響を受けていて、「大阪寄り」になっているなどという報告もある。
そうすると、京都駅は全国から人々が来るため混乱しているか、または「関東寄り」になっているのだろうか。

私自身は、何となく右を空けるのが身体的に自然に感じるので、左へ寄ってしまう。

私の母などは、絶対に空けない。

なぜ、どちらかに寄らないといけないのか、と文句を言い、エスカレーターに乗る時は絶対に私の横に立ち、すきまを空けない。なぜエスカレーターに乗りながら歩く(昇る)のかが分からないと言う。

母はラッシュ時の駅や地下鉄にゆくことがないから、これでいいのだ。母がエスカレーターに乗るのはせいぜいデパートくらいだからだ。

 

けれども母の言い分も分からないではない。

そもそもエスカレーターは、階段を昇るのがしんどいものぐさな人間のために開発されたものであり、それに乗れば階段を昇らなくても良い、からエスカレーターに乗るのである。

その、階段を昇らなくても良いエスカレーターで、なぜ階段を昇るという行為をするのか、それがそもそも倒錯である。

エスカレーターは安全のために人間が歩くより遅いスピードである。急ぐのならば階段を使うべきであろう。

とは言っても、ラッシュ時の殺気だっている時にこのような理屈を言っても通らない。
無理が通れば道理引っ込むで(違うか)、ラッシュ時にはどうしても人はエスカレーターに乗って、それを駆け上がりたいほど急ぐのである。

大阪の梅田に歩く舗道があるが、そこもたいていの人間は、そこに乗りつつ歩く(私もだ)。楽をするというよりは、少しでも先へ進みたい、という欲求が先に来るのだろう。

エスカレーターも、歩く舗道も、当初の目的からは、かなりずれた部分で利用されているということであろうか。

ともあれ、母の信条は正しいと言うべきだろう。

エレベーターで足踏みをしている人間がいたら、あっぱれと思うかもしれない。

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